第1話【???と雪の中の記憶】
灰色の空から雪が降る。
しんしんと、ふわふわと。
音もなく、ただ静かに。
身体の芯まで凍てつく寒い世界を、薄着の子供が足を引き摺りながら歩いていた。
「はあ……」
子供が息を吐き出すと、白い煙となって空気中に溶けていく。
服装はボロボロで、袖や裾などを枝で引っ掛けたのか破けた箇所が多く見られる。袖から伸びる子供らしい腕は寒さの影響で肌が赤くなり、指先も寒さのせいで震えている。
靴の類は身につけていない。真っ白い雪で覆われた道を踏みしめるのは霜焼けになってしまった裸足である。足跡が道に残されるものの、灰色の空から絶えず降る雪が子供の来た道を覆い隠していく。
寒さを耐えるように腕をさする子供は、
「まち……」
目の前に寂れた街があった。
森と街の境界を示す鉄製の門には看板が取れかかった状態で放置されており、その先に伸びる雪で覆われた石畳には新聞や紙袋などが散らばっている。明らかに大きさの合っていない子供用の長靴や大人が履くような革靴なんかも転がっており、今まで誰かがいたという証拠を突きつけてくる。
だが、今は不思議なことに誰もいない。立ち並ぶ建物は明かりが灯っておらず、カーテンも閉め切られている。子供が1人で街に迷い込んだから、という理由ではない。最初から人間など住んでいないのだ。
覚束ない足取りで、子供は雪の道を進む。あどけない顔立ちには疲労の色が浮かび、唇は寒さのあまり真っ青に変色している。下手をすればこのまま死んでしまいそうだ。
「あ……」
冷たい壁伝いに進む子供は、橙色の明かりを漏らす建物を発見した。
ドームのような天井の横から突き出た煙突は、もうもうと白い煙を吐き出している。半開きにされた窓から漏れ出る橙色の明かりは、誰かが住んでいると子供に示していた。
その建物は雪の積もった生垣に囲まれており、生垣に埋もれて金属製の看板があった。
「おう、りつ……としょかん?」
この建物は図書館らしい。
図書館といえば、本がたくさんある場所というのが子供の認識だ。片手で数える程度しか訪れたことはなく、本を読んでいると眠くなってしまうので柄ではないのはよく理解できる。
氷のように冷たくなった指先で図書館の扉を押すと、運がいいことに扉はすんなりと開いてくれた。
「あったかい……」
入口付近は薄暗い。橙色の明かりが照らしているのは、図書館の奥のようだ。
肌を撫でる空気は温かく、今までの極寒の世界が嘘のようだ。下手をすれば雪の中に埋もれて凍死するところだったが、誰かがいてくれて助かった。
赤い絨毯で覆われた床を、子供は足を引き摺りながら明かりを目指して歩いていく。絨毯は僅かに冷たいものの、外のように凍えるほどの冷たさはないのがありがたい。
「なにも、ない……」
何とはなしに近くの本棚を見上げるも、高い天井にまで届く勢いのある本棚には書籍が1冊も詰め込まれていなかった。ものの見事に空っぽである。
右を見ても左を見ても、設置された巨大な本棚には書籍が詰まっていない。全て空っぽの状態だ。こんな寒いのだから、本は暖を取る為に燃やされてしまったのだろうか。
本棚を伝いながら図書館の奥地を目指すと、
「わあ……」
読書をする為に設けられた場所なのだろう、たくさんの机と椅子が等間隔に並べられていた。
本来であれば読書用に使われるはずの机も椅子も、大量の書籍が山のように積み重ねられていた。おそらく図書館中の本がこの場所に集められているのだろう。小説から雑誌、図鑑に絵本など種類は多岐に渡る。
その大量の書籍に囲まれて、銀髪の女が床に座り込んでいた。
「…………」
ごうごうと燃える暖炉の前を陣取る銀髪の女は、子供に背を向けたまま微動だにしない。背中を流れる透き通るような銀髪は非常に長く、床へ無造作に散らばった書籍の上に広がるほどだ。おとぎ話のお姫様を想起させるほど長い。
女の膝には何かの本が広げられており、手袋を身につけた細い指先が静かに頁を捲る。垂れ落ちた銀髪が顔を隠しており、彼女がどんな顔をしているのか分からない。
そんな彼女のすぐ側――山積みにされた本の上に、皿が置いてある。
綺麗な皿にはサンドイッチが置かれており、瑞々しい野菜と分厚い肉が挟まれていた。女はそのサンドイッチに気づいていないのか、手に取る気配すらない。ただ黙々と本の頁を捲るだけだ。
そのサンドイッチの存在に気づいた子供の腹から、ぐううという空腹を訴える腹の虫が鳴いた。もう5日ほど何も口にしていないのだ。目の前に置かれた食事が罠だったとしても、食べたくて食べたくて仕方がない。
「ねえ」
「…………」
「ねえ、おねえさん」
子供は読書中の女を呼びかけ、
「ねえ、おねえさん。そのサンドイッチ、たべていい?」
「…………」
「たべていい? おなかがへって、しかたがないんだ」
ややあって、女の回答があった。
「いらねえって言ってるのに、勝手に置いていく奴がいるんだ。食わなかったらアタシが怒られるから、腹が減ってるならお前が食ってくれ」
その言葉に、どれほど救われただろう。
子供は我慢できずに皿を奪い取ると、女の気が変わらないうちにサンドイッチへかぶりつく。程よく焼かれたパンはカリカリで、野菜と塩辛い味付けがされた肉との相性が抜群だった。子供には少しばかり大きいサンドイッチだが、腹を満たすことに必死で具材が皿の上に落ちることさえ考えつなかった。
これほど美味しいサンドイッチは久々である。まともな食事に涙が出てきてしまった。歪む視界をかじかんだ指先で拭うが、涙は止まらない。
「ほら」
横から真っ白い手巾を突き出された。
反射的にその手巾を受け取ると、子供の小さな頭に女の柔らかな手のひらが乗せられる。ボサボサになって、泥だらけに汚れた子供の灰色の髪を優しく撫でてくる。
ふと顔を上げると、膝の上に広げていた書籍から女の視線が外されていた。長い前髪から覗く色鮮やかな青い瞳、高級な人形を想起させる美貌が子供に向けられている。暖炉の明かりを照り返す白磁の肌はシミやシワなどがなく、飛び抜けた美しさに息を呑む。
子供の頭を撫でる女は、
「こんな寒い日に、そんな薄着でどうしたんだ?」
「……にげてきたんだ」
「誰から?」
「みんなから」
子供はボロボロと涙をこぼしながら、
「とうさんも、かあさんも、いもうとも、おとうとも、さとのれんちゅうにころされたんだ。おれは、おれ、いらないこだって、おれのせいで、とうさんもかあさんも」
「そうか」
そっと子供の頭から、女の手が離れていく。手が離れても彼女の視線には優しさがあった。
「じゃあここにいればいい。どうせ行くところがないんだろ」
「いいの?」
「それはお前が決めることだ」
願ってもいないことだった。
子供に行く当てなどなく、狭い世界で今まで生きてきた。このまま冷たい世界で野垂れ死ぬなら、いっそこの場所に留まった方がいい。
子供は「ほんとうに?」と問いかけ、
「ここにいて、いいの?」
「お前がいたいならいればいい」
「おれがいて、めいわくにならない?」
「会ってすぐの奴を『迷惑だ』なんて言って追い返すような奴じゃねえよ」
「じゃあ」
子供は真っ直ぐに女の瞳を見据え、
「おれ、ここにいたい。おねえさんのところに、いたい」
「好きにしろ」
女は子供の手から手巾を取ると、子供の汚れた頬を手巾で拭う。「身体が冷たくなってるな」と笑う彼女の手も、どこか冷たさがあった。
「おねえさん」
「ん?」
「なんてなまえなの? おれ、おねえさんをなんてよべばいいの?」
「ああ」
女は合点がいったと言うように頷き、
「ユフィーリア・エイクトベル」
☆
「――――ん゛」
閉ざされた瞼の向こうでチカリと強い光が瞬く。
自然とそのせいで意識が覚醒してしまい、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
霞んだ視界が最初に捉えたものは、ベッドの天井である。天蓋付きベッドは意外にも居心地がよく、閉ざされたカーテンの向こう側で窓から差し込む朝日が寝室を照らしていた。
薄い掛け布団から腕を伸ばし、近くに置かれた置き時計を掴む。時計はまだ起床時刻に早く、もう少しだけ寝ることが出来そうだった。
「懐かしい夢ぇ」
欠伸混じりに呟いた筋骨隆々とした巨漢――エドワード・ヴォルスラムは、時計を元の位置に戻して布団に潜り込む。
「二度寝しよ……」
寝息が聞こえたのは、それから数秒と置かない短い時間だった。
《登場人物》
【子供】どうやら自分の故郷から逃げてきたらしい。家族は存在せず、図書館で出会った魔女のところに居着くことに。
【魔女】食事も取らずに読書へ耽っていた銀髪碧眼の魔女。自らを「ユフィーリア・エイクトベル」と名乗った。