第2話【問題用務員と海洋魔法学実習室】
海洋魔法学実習室は、ヴァラール魔法学院の1階にある教室だ。
「1年ぶりだな」
「だねぇ」
「久しぶり!!」
「ワクワクしちゃウ♪」
「初めてだ……」
掃除に必要な掃除道具や礼装などを抱え、ユフィーリアたち問題児は海洋魔法実習室にやってきた。
実習室と銘打たれた教室は、大半が教室2つ程度の大きさがある。最大でも教室3つ分ぐらいだろうか。大講堂や食堂といった設備はまた別として、魔法の実習をするのだから教室をその分だけ広めにしないと事故が起きてしまう恐れがあるのだ。
ところが目の前にある『海洋魔法学実習室』は、教室1つ分どころではなかった。教室を半分にしたような簡素な扉しかないのだ。見た目の雰囲気だけ言えば物置のようである。
「あの、ユフィーリア」
「何だ、ショウ坊」
「海洋魔法学とは海が舞台となった授業と聞いたのだが」
ショウは物置に繋がる扉にしか見えない海洋魔法学実習室の扉を見やり、
「ここに海があるのか?」
「ショウ坊は初めてだもんな、見てみるか?」
「見ることが出来るのか?」
「そりゃもちろん。だって今からここを掃除するんだぜ」
ユフィーリアは雪の結晶が刻まれた煙管で扉の表面を叩き、海洋魔法学実習室に施された鍵を外す。
ガチャン、と扉から鍵が外れる音が聞こえてきた。
扉を開くと、部屋の中は異様に冷たい空気で満たされている。魔法で空調が完璧に整えられたヴァラール魔法学院の教室なのに、ヒヤリと肌を撫でる空気はさながら冬の到来を想起させた。
扉の向こうにあったのは、
「――――穴?」
ショウの呟きがポツリと落ちる。
薄暗い部屋には窓すらなく、机や椅子などの授業に必要とされる設備もない。各教室に必ず備わっているはずの黒板さえ見当たらず、ただ壁には紫色の光球を閉じ込めた洋燈が設置されているだけだ。
タイル張りになった床は防水加工がきちんと施されており、つるりとした無機質な印象を与える。壁から突き出た洋燈の明かりを吸収して妖しく輝いている。
6畳程度の広さしかない不気味な部屋の中心に、煌々と青い光を漏らす穴が開いていたのだ。窓ではなく、扉でもなく、ただ穴には水が揺蕩っている。
「穴しかないのだが」
「あれが海洋魔法学実習室の入り口だ」
「入り口?」
「言ったろ、海洋魔法学は海でやる魔法の授業だって」
ユフィーリアは疑問で満ちた赤い瞳を向けてくるショウに手招きをして、穴の近くまで呼び出す。
穴の中でざぶざぶと揺れる水は青々とした輝きを放っており、生徒たちが飛び込む瞬間を静かに待っている。かすかに潮の香りが鼻孔をくすぐり、水に触れれば風呂の水や魔法で生み出す水とはまた違った感覚が指先から伝わってくる。
揺れる水面の向こう側に、色とりどりの何かが行き交う。その向こうに何かがあるのは明らかだった。波の音に紛れて僅かに誰かの笑い声のようなものが耳朶に触れる。
穴を覗き込むショウは、
「確かに海だな」
「この向こうは凄えぞ」
「それはどのように?」
「顔をつけてみれば分かる」
ユフィーリアは装備品の中からゴーグルを取り出すと、ショウの赤い瞳を守るように装着してやる。唐突に海に潜る為に必要なゴーグルを装着され、ショウは「わッ」と驚いたような声を上げる。
同じくユフィーリアも予備のゴーグルを装着すると、大きく息を吸い込んで止める。それから揺れる水で満たされた穴の中に顔をつけた。
その向こうに広がっていたのは、
「――――!?」
ユフィーリアに遅れて顔を水につけたショウが、ボコボコと泡を吹き出して驚きを露わにしていた。
一面に広がる青い世界。水面から差し込む陽光が幻想的な輝きを纏っており、目の前の海中を綺麗に彩る。海の底に沈んだ木造の船や海中遺跡、色鮮やかな珊瑚礁や変な形をした岩が特徴的な洞窟など地上ではお目にかかれないものばかりが存在していた。
それらの間を自由に、優雅に泳ぎ回るのは下半身が魚の尾鰭となった綺麗な女性である。冷たい水の中で煌びやかに金色の髪が広がり、豊満な胸は貝殻のみで覆われるという非常に防御力の少ない格好である。魚を想起させる赤や緑などの尾鰭は水を力強く掻いて、彼女たちに水の中での自由を与えていた。
彼女たちは人魚と呼ばれる種族だ。海の中で生きる人種で、海中に於ける絶体的な存在として海洋魔法学では語られている。
「ぷはあッ!!」
「な、凄えだろ」
水の中から顔を上げたユフィーリアは、アイゼルネが差し出してきたタオルで濡れた顔を拭く。
「海の中はまた別の世界が広がってるって言われてるぐらいだからな」
「こ、この中がプール掃除になるのか……?」
同じくタオルで濡れた顔を拭くショウは、
「汚れなんてないと思うのだが」
「やる仕事は海の中のゴミ拾いだ。簡単だよ」
「海の中のゴミ拾いなんて途方もない作業だと思うのだが……?」
「いやいや、ほとんどゴミなんて落ちてねえからな。せいぜい瓶とか食器とかじゃね?」
「食器を海に捨てる意味が分からない……」
「多分落としたんだろうよ」
広大な海の世界と繋がったこの穴は、強力な転移魔法が仕掛けられているのだ。学生が中心となって開催される闘技場の開催場所『扉の絵』と同じような原理が使われているが、あちらは絵の向こう側に世界を作っているが、この穴は実際の海と繋がっているのだ。
使われない時は強力な封印が施されているので、ユフィーリアも面倒臭がって近づかない。期間限定で封印が解けるから喜んで掃除をしてやるのだ。
ショウは瞳を守るゴーグルを外し、
「なら、この海の中に潜るには水着になる必要が?」
「獣王国のプールじゃねえから、もう少しちゃんとした装備になるけどな」
ユフィーリアは僅かに濡れた銀髪を丁寧に拭き取り、
「ショウ坊とアイゼには人魚たちの相手をしていてもらう」
「人魚さんたちの?」
「いつもはアイゼだけに任せてたんだけどな、今年から人手が増えたしアイゼの負担も減る」
「なるほど」
ショウは「分かった」と頷いた。
人魚の相手が何故必要になるのか、というところだが海の世界には変化がなくて退屈なのだ。人魚は知的好奇心が強くて自分たちの見たことないものや聞いたことのない経験に興味津々で、実習場所の掃除中にまとわりついてくるのだ。
掃除にならないので、誰かには人魚たちの話し相手になって気を紛らわせてもらう必要がある。毎年、その対応はアイゼルネだけに任せてしまっていたのだ。
今までは1人で対応してもらっていたのだが、今回はアイゼルネとショウによる2人体制が出来た。アイゼルネは語彙力豊富だし、ショウも頭脳明晰でよく出来た嫁なので人魚の応対を任せても問題はないだろう。
「ショウちゃん、頑張りましょうネ♪」
「はい、ご指導よろしくお願いします」
「そんなに固くならないデ♪ おねーさんたちは人魚さんたちと楽しくお話をしながらお掃除終了を待つだけヨ♪」
人手が増えたことが喜ばしいのか、アイゼルネが嬉しそうにショウの肩を叩いていた。やはり今まで孤独に人魚の相手をしていたのが大変だったのだ。
「じゃあ近くの更衣室で海中用の礼装に着替えるぞ」
「礼装ってこれか?」
ショウが麻袋を掲げる。
一抱えほどもある袋は大きく膨らんでおり、衣類が詰め込まれているのだ。海中用の礼装――いわゆる海中で行動することに適した水着である。海中深くで活動するので体温が低下して行動不能に追い込まれる恐れがあるので、体温低下を防ぐ加護と水の中でも呼吸が出来る加護など様々な恩恵が織り込まれている。
新人であるショウには海中用の礼装がなく、学院長の「倉庫に収まらないらしいから授業に支障がない程度で素材を使ってもいい」という許可のを得られたので存分に使用して鬼のような速度で仕上げたのだ。衣装を作っている最中、本当に楽しかった。
ユフィーリアは「そうだよ」と頷き、
「目一杯お洒落な礼装を用意しといたから」
「え、一体どんなものを……」
「それは着てみてのお楽しみだ」
どこか戸惑いを見せるショウの背中を押して、ユフィーリアは愛しの嫁を男子更衣室に押しやる。さすがに自分が異性の更衣室に乗り込むのはまずい。
ショウの面倒は欠かさず見てくれるハルアにその後を任せて、ユフィーリアは笑顔で野郎どもを見送った。ショウが仕立てたばかりの礼装を身につけて可愛い姿が早く拝んでみたいところだ。
ユフィーリアはアイゼルネへ振り返ると、
「ショウ坊の髪型とか任せていいか?」
「もちろんヨ♪」
頼りになる南瓜頭の従者は、親指と人差し指で輪っかを作ってユフィーリアの要求を受け入れた。
《登場人物》
【ユフィーリア】初めて海洋魔法学実習室を見た時は、本当に海があるのかと思っていた。まさか穴に飛び込むと海の世界だなんて思わなかったんだ。
【エドワード】初めて海洋魔法学実習室を見た時は、何の冗談かと思った。床の穴から海に繋がってるなんて初めての経験で驚いた。
【ハルア】初めて海洋魔法学実習室を見た時は、ユフィーリアとエドワードが嘘を吐いてるのではないかと思った。でも本当だった。毎年のように人魚と泳ぎの勝負をしている。
【アイゼルネ】初めて海洋魔法学実習室は見た時は、全員揃って嘘を吐いているのかと思った。本当に海があって驚き。どうやって作ったのかしラ♪
【ショウ】こんな実習室があるなんてびっくりした。もう教室じゃなくて正真正銘の海でした。