第8話【問題用務員と煙草屋】
吸い込む空気は砂糖のような、花のような、とにかく甘い匂いで満たされている。
天井から吊り下げられた繊細な模様が特徴的な洋燈がぼんやりとした橙色の明かりを落としており、紫やら桃色やら毒々しい色合いの煙が天井付近を漂う。タイル張りになった床には上等な布で作られた絨毯が敷かれ、天井に取り付けられた吊り具に分厚い布が引っ掛けられてカーテンのようになっている。カーテンで仕切られた場所は個室のように見えた。
金色の糸で複雑な模様が刺繍されたクッションや長椅子などがそこかしこに配置され、客らしき人間たちは硝子製の壺を抱えて管を咥えている。ぼんやりと煙を燻らせており、その瞳は心ここに在らずと言ったような雰囲気があった。
ユフィーリアは口元を手で覆い、
「お前ら、この煙を吸うなッ」
「え、あのユフィーリア」
「今すぐ引き返せッ!!」
声を荒げるユフィーリアに驚くショウの腕を掴み、今しがたやってきたばかりの扉を開ける。
目的はこの甘い香りが漂う部屋からの脱出だった。この部屋から無事に出られるなら何でもよかった。
扉を開くユフィーリアだが、
「あ」
「お邪魔しました」
バン!! と扉を閉める。
ドレッドヘア野郎が老婆の店主を尋問しているところだった。そういや老婆の店主に衣装代を支払うのを忘れていたが、ドレッドヘア野郎に追いかけられている現状で呑気にご精算などしている暇はない。
再びこの甘い匂いで満たされた部屋に逆戻りしてしまった訳だが、出来ればこの部屋を通り抜けることは避けたい。一刻も早くこの場所から逃れなければならないのか。
舌打ちをするユフィーリアに、状況を分かっていないショウが申し訳なさそうな表情で問いかけてくる。
「ユフィーリア、この部屋はダメなのか?」
「やたら甘い匂いがするけど!!」
ハルアもこの部屋全体を漂う甘い煙を嗅いで、エドワードに後頭部を引っ叩かれていた。状況を理解できていないのは未成年組だけらしい。
「この甘い匂いは麻薬ヨ♪」
「あまり吸いすぎると戻れなくなるよぉ」
「えッ」
「え!?」
ショウとハルアはそれぞれ自分の口と鼻を手で覆う。
そう、この甘い香りの正体は麻薬だ。客の連中が硝子製の壺を抱えて管を咥えているので、おそらく麻薬を燃やして壺の中に発生させた水蒸気を吸い込んで麻薬を摂取しているのだろう。アーリフ連合国では麻薬の取引も合法的に行われているので、こうして麻薬を取り扱う店舗も少なからず存在しているのだ。
麻薬も適切に取り扱えば医薬品にも分類されるので、規制しようにも出来ないのが現状だ。どれほど規制しても頭のいい奴らが法律の抜け穴を掻い潜ってくるので無駄である。
アーリフ連合国では『煙草屋』の名前で親しまれており、アーリフ連合国の住民や旅行で国を訪れた外側の人間が興味本位で吸ったりなど客足が途絶えることはない。
「とにかくこの部屋を出るぞ。ショウ坊とハルは手で口と鼻を塞いで、なるべく呼吸を最小限にして煙を吸い込まないようにしろ」
未成年組にそう言い渡せば、彼らはコクコクと小刻みに首を上下に振った。麻薬の依存度は彼らも分かっているようなので、得体の知れない恐怖心はあるのだろう。薄暗い部屋にいても顔色の悪さが分かってしまう。
すると、唐突に店内へ飛び込んできた得体の知れない客人であるユフィーリアたちに「どうかされましたぁ?」と甘い声で女性の店員が歩み寄ってくる。
下着を想起させる扇状的な衣装を身につけ、健康的に日焼けした褐色の肌を惜しげもなく晒している。豊かな双丘の間で揺れる赤い宝石をあしらった首飾りや金の装飾品がしゃらしゃらと揺れ、腰に巻いた薄い布が心許ない。靴の類は履いておらず、爪紅を塗った艶かしい足は金色の鎖が特徴的な装飾品で彩られていた。
ちょうどよかったとばかりに応じるユフィーリアは、
「悪い、裏の店から勝手に飛び込んじまったんだ。金は払うから抜けさせてもらえねえか?」
「あら、そうなんですねぇ。旅行の方とか多いんですよ、そういうの」
女性の店員は「お代金はいりませんよ」と言い、
「ご気分が悪くなった方とかいらっしゃいませんか? 手巾などをお貸しできますよ」
「未成年の連中がいるからソイツらを優先してやってくれ」
「未成年はまずいですねぇ、お客様は20歳以上でなければ入店できない決まりになっておりますので」
女性の店員は何も乗っていないお盆の上を叩いて転送魔法を発動し、白い手巾を人数分用意してくれた。「こちらをどうぞ」などと手渡してくるあたり、唐突に飛び込んできた客の対応に慣れている気がする。
彼女はそういうのが多いと言っていたし、実際に旅行者が訳も分からず衣料品や食料品の店と繋がっている煙草屋に迷い込んでしまうという事件が後を立たない。煙草屋も煙草屋で規則通りに経営しているので、客が望まなければ無理な引き込みもしないのだろう。
借り受けた手巾で口元と鼻を覆えば、甘い香りはだいぶマシになった。それでもやはり噎せ返るほどの甘い香りは継続しているので、早急にこの場から立ち去った方がいい。
「ではこちらにどうぞ。ついてきてくださいねぇ」
女性店員の先導を受けて、ユフィーリアたち問題児は外を目指す。
何とはなしに店内を見渡すが、どう考えてもいかがわしいお店にしか見えない。銀色のお盆を片手に燃料である麻薬を運ぶ女性店員は誰も彼も扇状的な衣装を身につけ、客たちを笑顔でもてなしている。管を咥えて煙を弄ぶ客たちは酔っ払ったような目つきで女性店員を眺めており、時には隣り合った座席の客と楽しそうに会話を弾ませていた。
その時の会話が、野郎どもの濁声に紛れてユフィーリアの耳に滑り込んでくる。――今の状況において、とても有益な情報だった。
「カーシム様の宝物殿から国宝を盗んだ馬鹿が出たって?」
「その馬鹿は今、国中を逃げ回ってるってさ。執念深いイツァルに見つからねえようにするのが無理な話だろ」
「でも実際、カーシム様は今どこに住んでるんだよ?」
「ああ、最近は命を狙われる回数が多くなったって嘆いていたから厳重な防衛魔法の中にいるらしい。あくまで噂なんだけどな」
麻薬の水蒸気を吸い込みながら会話を弾ませていたのは、豪商のような雰囲気を漂わせる男たちだ。頭に巻いたターバンには宝石がいくつも縫い付けられて重そうであり、白い襯衣や洋袴も上等な布地を使われているように見えた。当然ながら首や手、足に至るまで服の裾から見える部分には宝石をふんだんに使った装飾品の数々が覗く。
なるほど、豪商が利用するなら煙草屋は情報収集にうってつけである。様々な有益情報が飛び交うなら、利用しない手はない。何より、問題の最高責任者であるカーシムが転居しているなら、居場所を吐かせておかなければまずい。
頭の中で先程の情報を留めておくと、いつのまにかユフィーリアたちは心優しい女性店員によって店の外に連れ出された。
「ぷはあッ!!」
「よ、ようやく息が出来る……」
ハルアとショウは麻薬が混ざっていない新鮮な空気を肺に取り込み、安堵の表情を浮かべていた。見たところ目立った症状は出ていないので、被害はそれほどでもないのだろう。
問題児の中で最も嗅覚に優れたエドワードも、自分の鼻を擦っては「大丈夫かねぇ」と調子を確かめていた。アイゼルネもまともな空気を吸えるようになって安心している様子だった。
麻薬の空気が及んでいない受付は広く、明るい雰囲気に満たされている。薄暗い店内とは大違いだ。麻薬による酔いを覚まさせる為の飲み物を売る売店や、待合室のような場所まで用意されていた。店内で色々と楽しむ連れを待つ為に用意されたのだろうか。
中には市販の魔法薬も売っているようで、女性店員に飲ませて何やら色々遊べるコースがあるようだ。一気に妖艶さも醸し出してきた。そう言った需要もあるのだから、商売は何が起きるか分からないものだ。
貸していた手巾を回収した女性店員は、
「お水をご購入されますか? 体調が優れない方がいらっしゃったら治癒魔法もかけますので、遠慮せずに仰ってくださいね」
「随分とサービスがいいんだねぇ」
「対応を悪くして他のお客様に悪評を振り撒かれますと困りますので」
「しっかりしてるぅ」
強かな女性店員の態度に苦笑するエドワード。確かに悪評を振り撒いて商売が立ち行かなくなったら、店を閉じる他はなくなってしまう。
「悪い、店員さん」
「どうされました? お水ですか?」
「んにゃ、1人分の席を用意してほしい」
「あら、お姉さんご興味がおありで?」
女性店員が綺麗な黒曜石の瞳をぱちくりと瞬かせる。
興味がある訳ではないが、有益な情報がゴロゴロと転がっているなら手段として用いるだけだ。
幸いにも、あの程度の麻薬だったらユフィーリアにも耐性がある。世の中には麻薬よりも本気でまずい薬品がゴロゴロと転がっているのだ。特にルージュの入れた紅茶を飲んだ暁には桃色の象が空を飛ぶ幻覚まで見える始末なので、よくもまあそんなものを飲んで生還できるのか自分でも驚きだ。
「ユフィーリア、危険だ。止めた方がいい」
「大丈夫だ、ショウ坊。あの程度で酔うような軟弱さは持ち合わせてねえよ」
心配そうなショウの頰を撫でてやったユフィーリアは、
「お前ら男子3人組はここでお留守番」
「あれ!?」
「未成年組は分かるけどぉ、俺ちゃんもお留守番なのぉ?」
てっきり連れていかれるものだとばかり思っていたエドワードが首を傾げる。いつもユフィーリアの無茶に付き合わされているのはエドワードなので、今回も連れていかれるものだとばかり思っていたのだろう。
相手が筋肉好きなご婦人ならエドワードを巻き込んだが、今回ばかりは男性が相手なので巻き込んだところで役に立たない。ここはそれらしく振る舞う必要があるのだ。
ユフィーリアは女性店員にあれこれ注文をつけながら、
「アイゼ、同伴を頼む」
「あラ♪ おねーさんに頼むなんていい役回りネ♪」
「アタシの次に麻薬耐性があるからな。あと今回の役割にはアイゼが1番適してる」
女性店員に持ってきてもらった布の塊をアイゼルネに押し付けたユフィーリアは、
「アイゼ、今回はとても嫌な役割を押し付ける。断るなら今のうちだぞ」
「心外だワ♪」
布で口元を隠した元娼婦は微笑み、
「アナタに手を差し伸べられてから、この命はアナタの為に使うと決めたのヨ♪」
それからユフィーリアの手を取ると、指先に頬を擦り寄せてきた。
「何なりとご命令を、私の魔女様」
《登場人物》
【ユフィーリア】魔法薬はもとよりあらゆる薬物・毒物には耐性がある。ルージュの紅茶を飲んで生還したことが原因。
【エドワード】魔法薬やあらゆる薬物・毒物には耐性があるものの、麻薬は鼻が馬鹿になるから使い物にならない。今回は戦力外。
【ハルア】薬物の耐性はあまりないのだが、服用してから復活までの時間が短い。凄い再生能力である。
【アイゼルネ】魔法薬の耐性はそこそこだが、その他の毒物・薬物には高い耐性がある。特に麻薬に対する耐性は凄まじい。
【ショウ】魔法薬やその他の薬物にも耐性は全くない。戦力外通告は当然である。