第1話【異世界少年とランプ】
男の目の前には汚れたランプがあった。
「ああ、ついに……ついにこの時が来た……!!」
興奮を抑え気味に言う。
無精髭を生やし、落ち窪んだ眼球はギョロギョロと忙しなく蠢く。黄ばんだ歯が皮の捲れた唇から垣間見え、今にも涎を垂らさん勢いで目の前の机に置かれた薄汚いランプを見据えている。気持ちの悪い動きを見せる両手の指全てには色鮮やかな宝石をあしらった指輪が嵌め込まれ、雰囲気だけで言えば金を持っていそうな印象ではある。
煌びやかな宝石で作られた指輪を10本の指全てに嵌めているにも関わらず、男の服装はどこか薄汚い。ヨレヨレになるまで着古された襯衣と裾が擦り切れた洋袴、履き潰された革靴という金持ちには見えない格好だ。そうなると、10本の指を飾る指輪は窃盗品の類だろうか。
脂の浮いた黒い髪をガシガシと掻き毟る男は、壊れ物を扱うような手つきで汚れたランプを手に取る。
「これで、これで俺は七魔法王を超える魔法使いに……うッ」
はあはあ、と興奮気味だった男が唐突に前のめりの体勢となる。
興奮がついに天元突破して、という訳ではない。
男の顔色は土気色になり、額には脂汗が浮かぶ。黄ばんだ歯をギリギリと鳴らし、右手で自分の腹を押さえていた。肋骨が浮かぶ腹からはグルグルゴロゴロという地獄の底で獣が呻いているような音が聞こえてきた。
つまり分かりやすく言えば、腹を下していたのだ。おそらく朝食に食べた果物がいけなかったのだろう、変な色をしていたし。
「ち、ちくしょう……こんな時に!!」
男は悪態を吐くと、ランプをそっと机の上に戻して踵を返す。
誰にも邪魔をされないように、と自分の研究室に引きこもっていたのだ。どこかの都市の地図が貼られた扉に飛びつくと、施錠魔法を慌てて解除して扉を蹴り開ける。
そこにいたのは、
「わあッ」
「危ない!!」
たまたま扉を開けた時にいたのか、どこかで見慣れたメイドと少年が立ち止まる。
少年の方は黒いつなぎに無数の衣嚢を縫い付けた特殊な衣服を身につけており、その腕には紙袋を抱えていた。毬栗を想起させる赤茶色の短髪と琥珀色の大きな双眸を皿のように丸くして驚きを露わにしている。「危ねえんだけど!!」と眉を吊り上げて訴えてきた。
メイドの方は少年よりも若干背が高く、仕立ての良さそうなメイド服が可憐な印象を与える。細い腰を強調するような純白のエプロンやメイド服の至る所に真っ赤なリボンが飾られ、背中にも同様の大きな赤いリボンが揺れる。ポニーテールを結ぶ赤いリボンには雪の結晶が刺繍されており、動くたびに束ねられた黒髪が生き物の尻尾のように跳ねる。
男は舌打ちをすると、メイドの方を突き飛ばした。
「退け!!」
「痛ッ」
突き飛ばされてよろけたメイドは尻餅をつき、痛みを訴えてくる。
少年が「大丈夫!?」とよろけたメイドに手を貸すが、背後の様子など構っていられない。今は急がなければならないのだ。
決壊を防ぐ為に尻を押さえて駆け出す男は、背後から突き刺さるような視線に気づくことはなかった。もしかしたら尻を狙われていたのかもしれないが、時はすでに遅い。
そして男は、この時の自分の行動を激しく後悔することになる。
☆
時はほんの少しだけ遡る。
「お菓子たくさん買えたね!!」
「今日はお菓子パーティーだな」
「アイゼもいい紅茶が手に入ったって言ってたし、お菓子食べながらお喋りするのもいいね!!」
「平和でいいな」
ヴァラール魔法学院を騒がせる問題児の1人、アズマ・ショウは隣を歩く先輩用務員に笑いかける。
今日は平和だった。問題行動もせず、魔法で空調管理が行き届いた校舎内で過ごすことがどれほど平和だろうか。
物事を『面白い』か『面白くない』かで判断する最愛の旦那様は平和な時間に不満を示していたが、ショウにとっては休息ぐらいあってもいいのではないかと思うぐらいだ。最近はドタバタとするような行事が立て続けに起こったので、少しぐらい休みたいというのが本音である。
購買部で買った大量のお菓子を詰め込んだ紙袋を抱える先輩用務員――ハルア・アナスタシスは、
「最初は何から食べようか!!」
「色々と購入したから目移りしてしまうな……」
「クッキーとかどう!?」
「あの缶入りの奴か?」
ハルアが提案したのは、購買部で安売りされていたクッキー缶である。様々な形のクッキーがいくつか入ったお値段の張るお菓子だったのだが、賞味期限が近いということで格安で販売されていたのだ。
用務員室に戻れば美味しいお茶も待っているので、確かにクッキー缶を最初に開けてしまうのがいいかもしれない。紅茶とクッキーは最高の相性だ。
ショウは「それはいいな」とハルアの提案を受けた時だ。
「ち、ちくしょう……こんな時に!!」
どこからか悪態が聞こえると同時に、ショウとハルアの目の前で扉が急に開いた。
ちょうど空き教室の前を通りかかった時だったようで、扉はショウとハルアの鼻先スレスレを掠める。あと数歩ほど遅かったら扉と正面衝突を果たしていたかもしれない。
扉を勢いよく開け放ったのは、薄汚い男である。短くボサボサの黒髪には脂が浮き、痩せこけた頬には無精髭が生え揃う。ギョロギョロと忙しなく蠢く眼球は不審な印象を与え、身につけた衣服も着古した襯衣と擦り切れた洋袴という小汚いものだった。
それなのに、男の指先には煌びやかな宝石の指輪が飾られている。衣服に見合っていないそれらは、まるで盗品のようだ。
「退け!!」
「痛ッ」
切羽詰まったような口調の男に突き飛ばされ、ショウは尻餅をついてしまう。
「大丈夫!?」
「あ、ああ……」
ハルアの手を借りて立ち上がるショウは、尻を押さえて走り去る男の背中を一瞥する。
あの行動で全てを理解した。彼は便意を我慢していたのだ。それでトイレに向かう為に部屋を飛び出し、ショウを突き飛ばした訳である。
理由は分かっても、さすがに突き飛ばされるのは理不尽だ。遺憾の意である。
「何なんだろ、アイツ!!」
「怒らないでやってほしい、ハルさん。あの人はお腹が痛かったんだ」
「あー」
ハルアは納得したように頷き、
「それはオレも怒るよ。この前、ユーリのトイレを邪魔したら思い切りぶん殴られたもん。しばらく鼻血が止まらなかったよ」
「扉も壊れたしな」
あの時の光景を思い出して、ショウは遠い目をしてしまう。
ショウの旦那様である銀髪の魔女がトイレに行こうとしたところでハルアが気まぐれに邪魔をしたら、渾身の力でぶん殴られた上で「退け!!」と怒鳴られたのだ。今と同じ状況である。
あの時のハルアは扉ごと吹き飛ばされ、鼻の骨を折るという大惨事に見舞われた。鼻血もダバダバと出る始末である。たまたま用務員室にやってきた保健医のリリアンティアがいなければ危なかったかもしれない。
その後、リリアンティアも「さすがにそれは怒りますよ」とお説教されてしまった。そりゃそうだ、とショウも実感した。
「でも何か仕返ししたいね!!」
「突き飛ばされた恨みはあるからな」
ハルアとショウは互いの顔を見合わせ、それから開けっ放しにされた部屋を覗き込む。
「汚いね」
「汚いな」
空き教室と思っていた室内は、どうやら研究室だったらしい。壁沿いに屹立する本棚には魔導書が詰め込まれており、窓には光を遮る為の分厚いカーテンが閉められている。さらに地図や写真のようなものを隅々に貼り付けた板も壁に立てかけられており、何かの研究を行っていたことは間違いなさそうだ。
そして何より、教室の奥にあった執務机には照明器具の光を受ける薄汚れたランプが放置されていた。砂埃に塗れたランプは年季が入っているように見受けられ、おとぎ話に出てくる願いを叶えてくれるランプと同じ形である。
室内に足を踏み入れたショウとハルアは、
「ランプだろうか」
「汚れてるね!!」
「そうだな」
全体的に埃塗れだし、どこか錆びついた臭いもする。間違いなく年代ものである。
研究資材として置かれていたものだろうか。まだそう言った事情には疎いので、このランプが何に使われるか不明である。ただショウを突き飛ばした腹痛決壊寸前野郎の精神に大打撃を与えるのは、このランプで となりそうだ。
ショウはそっとランプを両手で持ち上げると、
「ええと、どこかに紙は……」
「ここにあるよ!!」
ハルアが足先で床に落ちた紙を器用に引き寄せる。両腕がお菓子の紙袋で塞がっているので仕方がない対応である。
ショウはハルアが引き寄せてくれた紙を拾い上げる。
授業の小試験用に作られた問題用紙のようだが、まあ1枚ぐらいなくなったところで大した打撃にもならないだろう。裏側は真っ白な状態なので、この部分に文章が書けそうだ。
机の端に追いやられたインク瓶を手繰り寄せ、机の上に転がっていた羽根ペンの先端を浸す。それからペン先を真っ白な紙に走らせた。
『ランプは預かった。返してほしければ用務員室まで来られたし』
これで問題なしである。
「あとはユフィーリアに突き飛ばされたことを報告しよう」
「アイツ半殺しにされるんじゃね!?」
「気持ち悪いから半殺しにされてもいいだろう。何だったら4分の3殺しでもいいぐらいだ」
「それもう冥府に片足を突っ込んでるよ、ショウちゃん。ショウちゃんパパに怒られた方が早いと思うよ」
そんな会話を交わしながら、ショウとハルアは埃だらけのランプを男の部屋から強奪するのだった。
《登場人物》
【ショウ】今日も元気な女装少年。たくさんお菓子を買ったが缶入りのクッキーを食べるのは初めてかもしれない。最近、やられたらやり返す精神が根付いてきた。
【ハルア】今日も元気な暴走機関車野郎。後輩の面倒をよく見る先輩。この前、上司がトイレに行くのを邪魔したら本気でぶん殴られたので止めようと思った。