第6話【問題用務員、追いかけられる】
シャリシャリ、という何かを擦る音が聞こえた。
「何の音ぉ?」
「え?」
音に素早く反応を示したのは、問題児の中で聴力に優れたエドワードである。
周囲を見渡し、音の発生源を探す素振りを見せる。ユフィーリアも同じように周辺に視線を巡らせてエドワードが反応を見せた音の主を探すのだが、存在するのは逆立ちで廊下を激走するような阿呆しかいない。
冥闇の角燈で闇に沈む廊下の奥を照らすユフィーリアは、
「あれじゃね?」
闇の向こう側から、少女が歩いてくる。
ただし上半身だけだ。おかっぱの髪で、硝子のような眼球はじっと問題児たちを見据えている。簡素な襯衣を身につけた上半身だけで、下半身は不思議なことに見えない。おそらく最初から存在していないのだろう。
何より特徴的なのはだらりと垂れた両腕だ。異様に両腕が長いのか、廊下に擦り付けられている影響でシャリシャリという音が聞こえているようだ。
いいや、あれは腕ではない。両腕は人並みの長さがあるのだが、爪だけが非常に長いのだ。鋭利な爪の先が床を擦り、シャリシャリという音が聞こえてくる。
「何あれ!?」
「下半身のない女の子ネ♪」
「…………」
ハルアとアイゼルネは上半身しかない少女に興味津々だが、ショウだけは顔を青褪めさせてユフィーリアの背中に張り付いてくる。怯えているのは目に見えていた。
ユフィーリアは背中に張り付いていたショウを一瞥する。
最愛の嫁は闇の向こうから歩いてくる少女を見ようともせず、懸命に視線を逸らしてガタガタと小刻みに震えていた。ユフィーリアの視線を受けたショウは首を横に振り、ユフィーリアの手を力なく引っ張る。
「あ、あれはダメだ、本当に」
「さっきの『クチサケオンナ』とか言ってた奴も、白くてくねくねした奴もいたけど平気だっただろ」
「でもダメなんだ、あれは。本当にダメなんだ」
ショウは泣きそうになりながら、
「逃げよう、ユフィーリア。あれはダメだ」
「逃げようって言ってもなァ」
ユフィーリアは悩む。
口裂け女の件も、白くてくねくねとした謎物体の件も、何か比較的無事に解決できたのだ。それなのに、またここに来て「あれはダメだ」と嫁が言い出す恐怖の化け物が出てくるとは想定外である。
もしかしたら「ダメだ」と言いながらも別に平気な存在かもしれない。ただ爪を切り忘れてしまったウッカリさんという可能性も捨て切れないので、この場で無様に背中を見せて逃げ出すのはいかがなものか。
怯えた様子を見せるショウの頬を撫でてやり、ユフィーリアは笑いかける。
「まあ平気だよ、ショウ坊」
「ゆ、ユフィーリア……」
「見てろ見てろ」
ユフィーリアはショウの身の安全をハルアに任せて、下半身のない少女に歩み寄る。
少女の身長は10代前半ぐらいだろうか。随分と古風な見た目の子供だが、目つきが異常に鋭く唇から覗く歯も鮫のように尖っている。『不気味』という単語が頭の中に浮かんだ。
人の良さそうな笑顔を浮かべるユフィーリアは、
「ようお嬢ちゃん、一体どこから」
シャリ、とユフィーリアの頬を何かが掠めた。
銀色の髪が数本ほど闇夜に舞う。頬に濡れた感覚があり、指先でそっと触れてみると長手袋に真っ赤な液体が付着していた。頬の薄皮が引き裂かれた影響で血が出てきてしまったのだ。
ギギギ、ギチギチギチとユフィーリアはゆっくりと視線を下にやる。まるで油を差し忘れたブリキの玩具のようにぎこちない動きだった。
少女の右腕が、ユフィーリアめがけて突き出されていた。ニィと引き裂くように笑う彼女の爪は、ちょうどユフィーリアの頰を掠めていた。
「おいしそう」
少女は鮫のように尖った歯の隙間からダラダラと涎を垂らしつつ、
「たべていい?」
何か今までの展開と違くない?
「うおおおおあああああああああああ!?」
ユフィーリアは反射的に少女の肩を突き飛ばし、慌てて身を翻して逃走を図る。
今回こそ、最愛の嫁の勘は当たっていたのだ。あれは間違いなく触れてはいけない化け物である。今までの馬鹿幽霊が巻き起こすバカフェスティバルとはえらい違いなのだ。
風のような速さで廊下を激走するユフィーリアを追いかけ、少女も長い爪を振り回しながら走り出す。
しゃか、しゃか、しゃか、しゃか。
しゃか、しゃか、しゃか、しゃか。
長い爪が床や壁に擦れて、嫌な音を立てる。見れば廊下の壁や床には少女の爪痕が深く残されていた。
「何だあれ何だあれ何だあれ何だあれ何だあれ!?」
「無理無理無理無理無理無理!!」
「あんな怖いのいたの!?」
「今までとは毛色が違うわネ♪」
「何でシャカシャカがいるんだ……!!」
ユフィーリアたち問題児の絶叫は、深夜のヴァラール魔法学院の校舎に大きく響き渡っていく。
☆
やたら爪の長いおかっぱ少女から必死の形相で逃げ回り、ユフィーリアたち問題児は正面玄関までやってきた。
薄暗い正面玄関は普段こそ壁に飾られた無数の絵画が絶えず会話を交わしているのだが、今は深夜という時間帯もあって静まり返っている。大理石の床に座り込むユフィーリアたち問題児に気づくことなく、すやすやと眠りこけている。
絵画が眠っているなどあり得ないと思うだろうが、エリシアの絵画は特殊な絵の具などを用いているので絵の中の人物や風景が生きているように動くのだ。普通に会話もするし、昼寝もするし、悪いことをすれば学院長に告げ口もされたりする。絵画の人間たちは総じて口喧しいので、寝ていてよかったのかもしれない。
ぜえはあと肩で息をするユフィーリアは、
「ま、撒いたよな……?」
「ユーリ、頬を怪我していたわよネ♪」
エドワードに担がれていたアイゼルネは、座り込むユフィーリアの頬に触れてくる。
「あラ♪」
「どうした、アイゼ」
「ユーリ、あの女の子の爪で頬を切られていたわよネ♪」
南瓜のハリボテの向こう側で、アイゼルネの見る角度によって色を変える瞳が瞬く。頬をジロジロと観察する南瓜頭の娼婦は、
「頬の傷がないのヨ♪」
「え?」
ユフィーリアは指先で自分の頬に触れる。
確かにそこにはおかっぱ頭の少女に切り裂かれたはずの傷があったはずなのだが、今では綺麗になくなっている。切り裂かれた時に感じていた痛みも嘘のようになく、自分の頬を触って確認するも傷らしいものは見当たらない。
こんな短時間で回復するような怪我だったのか。回復魔法でも使わなければ消し去ることが出来ないような傷だったのに、これほど早く怪我は治るものか?
ユフィーリアの消えた頬の傷に便乗して、ショウも「そういえば」と口を開く。
「ユフィーリアの髪も切られていたはずだが、いつのまにか治っているな」
「え、ショウ坊。そんなことまで分かるのかよ」
「当たり前だ。ユフィーリアがどれほど髪を切られたのかまで詳細に把握している必要があるから」
ショウは真剣な表情で、そんな恐ろしいことを言う。前髪を少し切っただけでも彼なら気づきそうだ。
あのおかっぱ頭の少女によって自慢の銀髪も切られたはずだが、何故かいつのまにか元通りに修復されているのだ。切られた痕跡も見当たらない。まあ切られたとは言っても数本程度の被害なので、それほど気にはならなかったのだが気持ち悪くて仕方がない。
怪我もすぐに治れば髪の毛も修復されてしまう。魔法も何も使っていないのだ。ユフィーリアの治癒力は人並みなので、髪の毛を切られても頬を切られても治るのにそれなりの時間はかかる。
その時だ。
――コツン、コツン。
足音が聞こえてきた。
「え?」
「今度は誰ぇ?」
「また誰か来るの!?」
「やだワ♪」
「またあの怖い思いをしなきゃいけないのか……」
闇に支配された廊下の奥から聞こえてくる足音に、問題児は警戒心を見せる。ユフィーリアは雪の結晶が刻まれた煙管を廊下の奥に突きつけ、エドワードはアイゼルネを肩に担ぐ。ハルアはショウの手を取り、逃げる準備を終えていた。
あのおかっぱ頭の少女が追いかけてきたのであれば、魔法を使って対応をするしかない。氷柱の中に閉じ込めて、爪だけ綺麗に整えてやる所存だ。
固唾を飲んで闇の中からやってくる何某の存在を待つ問題児の前に、ついにそれが姿を見せた。
「何をしているの、こんな夜中に」
暗闇の中から現れたのは、学院長のグローリア・イーストエンドだった。
艶のある烏の濡れ羽色をした髪を背中に流し、簡素な寝巻きの上から薄手のカーディガンを羽織った格好だ。片手に白い魔導書を抱え、彼の周囲にはふわふわと白い光の球がいくつも浮かんで夜の闇を照らしている。
怪訝そうな表情を見せるグローリアは、
「4人で夜中の校舎内を徘徊するなんて感心しないね」
「4人……?」
ショウがその言葉に反応を示す。
薄暗い正面玄関。闇の中から現れた学院長を待ち構えていた問題児はエドワード、ハルア、アイゼルネ、ショウの4人だけだった。
それまで一緒に行動していたユフィーリアの存在だけが、忽然と消えていた。
《登場人物》
【エドワード】逃げ足には自信あるけれど速度は出ない。持久力はあるので追いつかれなきゃ永遠に逃げている。
【ハルア】速度はあるけど持久力がないので、最初からトップスピードで引き剥がさないとバテちゃう。
【アイゼルネ】靴と義足の影響で走れないので、エドワードに抱えられて逃げるのが常。1人だけだったら転移魔法で用務員室という名の初期位置に移動する。
【ショウ】冥砲ルナ・フェルノを使って逃げるのもいいのだが、自分の足の速さにもそれなりに自信はある方。
【グローリア】幽霊たちがやけに騒がしいので、寝ていたところで夜中の見回りに来た。やはり問題児が思った通りに騒いでいたんだね。
【ユフィーリア】いなくなってた。