第5話【問題用務員とトイレの怪談】
深夜見回りの最中である。
――うえええええん、ええええええん。
――うえええええん、ええええええん。
どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
周囲の施設を見渡してみると、泣き声が聞こえてきたのは女子トイレである。用務員室の近くにある陸の孤島と言ってもおかしくない孤立したトイレではなく、夏休みが明ければ生徒たちが使う為の女子トイレだ。
明かりが落とされたトイレから、確かに赤ん坊の泣き声が聞こえてくるのだ。火がついたように泣き喚く赤ん坊は泣き止む素振りが見えない。
誰かがあやさなければ赤ん坊は泣き止まないだろう。
「どうせ幽霊だろうなァ」
トイレから聞こえてくる赤ん坊の泣き声に、ユフィーリアは遠い目をする。
赤子の真似をする成人男性がトイレの便器に顔を突っ込みながら泣いているのだろうか。もしそんな展開になろうものなら、確実に相手の頭を便器にめり込ませて水で流してやる所存である。出来れば関わりたくない類だ。
聞こえてくるのは女子トイレなので、問題児の男性陣には簡単に任せられない。必然的にユフィーリアかアイゼルネのどちらかが対処しなければならなくなる。
「おねーさんが行くかしラ♪」
「いや、大丈夫。アタシが行ってくるから待ってろ」
幽霊に比較的耐性があるアイゼルネの提案を一蹴し、ユフィーリアは深々とため息を吐きながら女子トイレの扉を押し開ける。
ギィと蝶番が軋む音を立て、扉がゆっくりと開く。トイレの個室がずらりと並び、洗面台には巨大な鏡が掲げられていた。鏡については昼間の展開が記憶に新しいのだが、女子トイレの入り口でエドワードたちが待機してくれているので心配はなさそうだ。
問題の泣き声は、最奥の個室から聞こえていた。扉は開け放たれたままにされているので、泣き声は絶えずトイレ内に反響している。鼓膜に突き刺さる赤ん坊の泣き声がうるさくて仕方がない。
ユフィーリアは赤ん坊の泣き声が聞こえる個室を覗き込むと、
「うええええええ、えええええええ」
「お」
蓋が閉ざされた便器の上に、ジタバタと暴れながら泣き喚く赤ん坊が放置されていた。
赤ん坊は不細工でも獣のような見た目をしている訳でもなく、おくるみに包まれた状態で誰かの庇護を待っていた。まだ開いていない目から大粒の涙が溢れ出し、歯の生え揃っていない口から悲鳴のような泣き声が迸る。
ユフィーリアは便器の上でジタバタと暴れる赤ん坊を抱き上げ、
「よしよし」
赤ん坊の背中を優しく撫でてやりながら、ユフィーリアはとりあえず女子トイレから撤退する。
小さな手を目一杯に伸ばしてユフィーリアの銀髪を掴む赤ん坊は、ボロボロと涙を流しながら見上げてくる。見覚えのない銀髪碧眼の女が目の前にいると判明し、再び「うええええええええええ!!」と泣き始めてしまった。
大泣きする赤ん坊を女子トイレから連れ出すと、
「コイツ捨てられたのかな」
「でも誰がこんなことを?」
ショウが指先を泣き喚く赤ん坊に差し出すと、銀髪を掴んで振り回していた赤ん坊の小さな手がショウの指先を掴む。爪さえ生え揃っていない小さな手が指先を懸命に掴み、それから赤ん坊はショウにふにゃりと笑いかけた。
涙の跡が柔らかな頬に残され、泣きすぎた影響で目元も涙で潤んでいる。その緊張感のない笑顔は可愛らしく、庇護欲が掻き立てられる。
また泣き出さないように、ユフィーリアはゆらゆらとおくるみに包まれた赤ん坊を揺らしながら「どうするか、コイツ」と問題児に対処法を聞く。
「まあ、この状況だしねぇ。生きているなら育てたほうがいいけどぉ」
赤ん坊の顔を覗き込んだ瞬間に泣き喚かれるのは目に見えているので、エドワードはユフィーリアに近づくことなく応じる。
「育てるの!?」
「赤ん坊が可哀想だから、育ててあげた方がいいと思うぞ」
「ショウちゃんもお兄ちゃんだね!!」
降って沸いた兄弟の存在に、ショウは「俺が……お兄ちゃん……!?」と赤い瞳を輝かせていた。問題児の中でも1番下の扱いなので、お兄ちゃんになることが憧れでもあるのだろう。
赤ん坊を育てることになれば、色々と必要になるものが出てくる。居住区画の環境も変えなければならない。夏休み期間中だが購買部で赤ん坊を育てる道具や食料は在庫があるだろうか。
すると、
「ぼく、お腹が空いたでちゅ」
「そうか、腹減ったか。購買部の店長を叩き起こせば粉ミルクぐらい売ってくれねえかな」
「ママのおっぱいがいいでちゅ」
「いやでもアタシ、母乳出ねえからな……あ?」
今まで誰と会話していただろうか。
ユフィーリアはそっと腕に抱いた赤ん坊に視線を落とす。声の方向は明らかに下から聞こえてきたので、声の主は赤ん坊以外に考えられない。
腕の中に抱いた赤ん坊は、ユフィーリアを見上げて笑っていた。屈託のない笑顔を見せられて何もかもを許してしまいそうになるのだが、赤ん坊の小さな手のひらがユフィーリアの豊かな胸を弄っている。母乳を求めるような手つきではなかった。
赤ん坊はユフィーリアに屈託のない笑みを向けると、
「おっぱいほしいでちゅ」
赤ん坊から流暢な言葉が発された。
「え、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!!」
それまで可愛い印象しかなかったのに、赤ん坊の印象が一気に底辺へ下がる。底辺を突き抜けて地獄の底まで好感度が下がってしまった。
言葉を流暢に話し始めるだけではなく、強請るのが母乳である。言葉を発することが出来るとは赤ん坊には不可能だ。もはや赤ん坊の姿をした化け物である。
ユフィーリアは泣きそうな表情でアイゼルネに振り返り、
「アイゼ助けて、コイツ気持ち悪い」
「育児放棄してるんじゃないわヨ♪ おねーさんに押し付けないでちょうだイ♪」
「おいふざけんなよ、こんな気持ち悪い赤ん坊の対処なんて出来るかよ!!」
この気持ち悪い赤ん坊の対処を誰かに押し付けようとするユフィーリアだが、あえなく拒否されてしまう。詰んだ。庇護すべき赤ん坊が気味の悪い肉塊にしか見えないのに、手放すことが出来ないとは辛すぎる。
「とう」
次の瞬間、ショウがユフィーリアの腕から赤ん坊を取り上げた。
ユフィーリアと引き離された赤ん坊は、そのままショウの手によってエドワードの巨乳に押し付けられる。普段から筋トレを欠かしていないだけあって、ユフィーリアやアイゼルネのように脂肪の塊をぶら下げているだけではなく立派に鍛えられた胸筋である。
赤ん坊の顔面がエドワードの胸の谷間に押し潰されて、何か不細工な顔になる。「むぎゅう」という潰された声も漏れた。
光の消えた赤い瞳で赤ん坊を見据えるショウは、エドワードの胸に赤ん坊の顔面を押し付けながら言う。
「ほらどうです、お望みのおっぱいですよ。存分にご堪能ください」
「こんな硬いおっぱいがあるか!!」
エドワードの胸筋に顔面を挟まれる赤ん坊は、必死に助けを求めてきた。
「助けてママ!!」
「はぁい、俺ちゃんがママでちゅよぉ」
「へぶぅ!!」
ショウから赤ん坊の対処を代わったエドワードは、自分の胸に赤ん坊の顔面をさらに押し付けて潰してやる。「むぎゅ、ぎゅう」と小さな呻き声が耳朶に触れた。
立派な胸筋を叩いて解放を求めてくる赤ん坊だが、今度はハルアの手によって取り上げられる。胸筋という名の暴力的なまでに立派な渓谷から救出された赤ん坊は、どこか安堵の表情を浮かべていた。
しかし、助け出したのはあのハルアである。問題児の中でもとびきりの暴走機関車野郎、未だに学校の備品をぶっ壊すほどに手加減が出来ない馬鹿野郎だ。赤ん坊という硝子細工よりも繊細な生命体を雑に扱えば殺しかねない。
「ちょ、待て。どこに行くんだ」
赤ん坊の制止すら聞かず、ハルアが向かった先は男子トイレである。
器用に肩で扉で押して男子トイレ内に足を踏み入れると、ハルアは手近にあったトイレの個室の便器に赤ん坊を叩きつけた。ついでに小さな赤ん坊の頭を便器に押し付けると、便器の水に沈めた。
ガボガボともがき苦しむ赤ん坊は便器から抜け出そうとするのだが、
「あばよ!!」
ハルアが容赦なくトイレの水を流す。
勢いのいい流水が赤ん坊を便器の奥に攫っていき、赤ん坊は悲鳴を上げながらトイレに流されていった。普通は流されないはずなのだが、トイレは詰まることなく赤ん坊を飲み込んでいく。
赤ん坊の悲鳴が尾を引いて便器の中に反響するが、姿が完全に見えなくなると何も聞こえなくなる。赤ん坊の泣き声がまた聞こえてくるのではないかと男子トイレに耳を澄ましてみるも、もう赤ん坊の声は聞こえなくなっていた。
ユフィーリアは最愛の嫁に振り返り、
「え、あの、容赦……」
「ユフィーリア」
ショウはユフィーリアに抱きつくと、すりすりと額を肩口に押し付けてきた。
「あんな可愛げのない赤ん坊を可愛がるより、俺が産んだ子供を可愛がってくれ」
「いや普通は逆じゃね? ショウ坊、保健体育の知識はどうした?」
「貴女のことを思えば赤ん坊だって産める」
「反応に困るボケは処理できねえんだわ」
赤ん坊の問題は解決したが、ユフィーリアの中にある意味で心的外傷を残すような出来事だけが残った。赤ん坊処理までの手際が良すぎた。
男性陣3名は不思議そうに首を傾げるなり、平然とした調子で「いいよねぇ」「赤ん坊がトイレに流されたのが面白いけどね!!」「そこが考えものですが」などと処理した赤ん坊について会話を交わす。そのうちユフィーリアに楯突く人間まで処理しそうだ。
その時、
「ゴルァ!! いきなりトイレに流すとか何考えてんだ!?」
「うわ」
トイレから復活したらしい赤ん坊が、ビチャビチャに全身を濡らした状態で廊下を這いずる。黒いつぶらな双眸を吊り上げて怒りを露わにし、小さな手で廊下を掴みながらふっくらとした身体を引き摺る。
おくるみはトイレの中に捨てたのか、今や赤ん坊は全裸の状態である。見ているだけで寒そうだが、トイレに流されて復活を果たすあたり幽霊や化け物の類で間違いなさそうだ。
復活した赤ん坊に引き気味な視線をやるユフィーリアだが、
「はい」
「はぁい」
「はぁい!!」
ショウが素早く拾い上げ、エドワードの手に渡り、ハルアの手に運ばれた赤ん坊が窓から投げ飛ばされた。
窓を通過して夜空に吹っ飛んでいく赤ん坊。トイレに流しても復活すると理解したらしく、処理方法が乱暴になってきた。あれならもう復活しないだろう。
赤ん坊が飛んでいった方向を見やるショウは、
「次は熱湯風呂かな」
「お湯を用意しなきゃねぇ」
「金盥でいいんじゃない!?」
「お前らの発想が怖いわ」
「容赦がないのよネ♪」
意外と敵に対して容赦しないエドワード、ハルア、ショウの3人にユフィーリアとアイゼルネは戦慄するのだった。
《登場人物》
【ユフィーリア】問題児だけど子供は好きなので扱いは上手。おしめを変えるところから夜泣き対応まで慣れたものである。
【エドワード】顔が怖いことで有名で赤ん坊泣かせだが、子供は好き。歳の離れた幼い妹と弟のお世話をしていたので赤ん坊の扱いも上手い。
【ハルア】暴走機関車野郎に赤ん坊という繊細な生命体を任せてはいけない。
【アイゼルネ】娼婦仲間で出産をした同僚もいたので、お世話を積極的に引き受けていた。手品で子供に懐かれる。
【ショウ】1番年下なのでお兄ちゃんになることに憧れがある。学院長から男体妊娠が出来る話を聞いているので、将来的にはユフィーリアとの間に子供がほしい。