第1話【学院長と異世界少年】
午前0時。
ヴァラール魔法学院の学院長、グローリア・イーストエンドは学院長室にて書類仕事を片付けていた。
提出期限までまだ余裕のある書類仕事だが、余裕のあるうちに片付けてしまうのがグローリアの癖である。書類仕事が早く片付けば、その時間を魔法実験に割けるのだ。面倒な仕事は早く終わらせるに限る。
「四半期の決算書かぁ。もうそんな時期なのかなぁ」
読んでいるだけで眠くなるような数字の羅列を眺め、グローリアは決算書に署名する。学院の運営にもお金は必要になってくるので、決算書の確認は学院長の仕事でも割と重要な内容だ。
学院の教職員も頑張っているし、設備等の修繕費などは魔法で解決してしまえば金はかからない。問題は生徒たちが使用する授業の材料だが、その点に関しては金を惜しんでいたら自由度の高い魔法教育が受けられなくなってしまう。――まあどこぞの馬鹿が勝手に使ってしまうので、今後も取り締まっていかなければならないのだが。
次の書類に手を伸ばしたところで、この時間帯では絶対に考えられない音が鳴った。
コンコンコンッ。
学院長室の扉が、誰かによって叩かれる。
度胸試しと称して校舎内を彷徨い歩く生徒は何名か見かけるが、今はまだ度胸試しが頻発する時期ではない。あれは幽霊が出現すると言われている夏に多く見られるのだが、学院長室までわざわざ度胸を試しに来る生徒がいるだろうか。
考えられるのは1つ――学院長であるグローリアに用事があって、誰かが部屋を訪れたか。
「開いているよ」
グローリアは書類仕事を片付けながらノックに応じる。
「失礼します」
学院長室の扉が開かれ、深夜の来訪客が姿を見せた。
黒髪赤眼の儚げな雰囲気を纏った少年である。普段こそ古風なメイド服を身につけているものの、時間帯もあって現在は真っ白な部屋着の姿である。レースやフリルがふんだんにあしらわれた可愛らしい部屋着の裾から華奢な足が伸び、冷たい床を踏みつけるのはふかふかのスリッパだ。
アズマ・ショウ――ヴァラール魔法学院の用務員にして問題児、そして問題児筆頭の寵愛を受ける異世界出身の少年だ。いつもなら単独行動をしない彼が、学院長室をたった1人で訪れるとは珍しい。
「どうしたのかな、ショウ君。今は夜中だけど、ユフィーリアたちは夜中に出歩くことを許してくれたのかな?」
「ユフィーリアたちは寝ています。気づかれないように出てきたので、多分大丈夫だと」
ショウは真っ直ぐにグローリアを見つめてくると、
「学院長、お話があります」
その雰囲気は、いつになく真剣だった。
最初の謙虚な時期とは打って変わって、最近では辛辣な態度を取るようになった少年である。真剣な雰囲気など珍しい。何か思い詰めるような内容でもあっただろうか。
グローリアは書類仕事を片付ける手を止めて、
「何かな?」
「ユフィーリアに【自主規制】がついていることをご存知ですか?」
「うん、知っているよ」
いつになく真剣な表情と声音で告げられた内容は、まさかの下ネタだった。いや彼からすれば愛する魔女に、性別を鑑みれば有り得ない突起物がついていたのだから悩むのは当然のことだ。
おそらく、今朝の『人間が全裸に見える呪いの眼鏡』でユフィーリアの裸を見てしまったのだろう。それで彼女の身体の事情に気がついたのか。
グローリアは特に驚くことなく、
「彼女は両方持っているよ。何せ絶対優位種だからね」
「絶対優位種?」
「端的に言っちゃうと、どんな相手でも子供を孕ませることが出来る人種だね」
世の中は女性優位ではなく、また子供を授かることが出来るのも女性だけではなくなっていた。研究に研究を重ね、ここ200年ぐらいから男体妊娠も可能としてきたのだ。法律もきちんと整備され、世界の常識は変わってきている。
その研究に最も貢献したのが、絶対優位種という人々の存在である。彼らはどんな相手でも確実に自分の子供を妊娠させることが出来て、女性が男性に子供を宿すことも可能とした。研究に協力してもらった結果、平等な世の中に近づいてきている。
ただ、絶対優位種は極めて少ない。何故なら彼らは、この世に存在しないのだ。
「ショウ君さ、絶対優位種ってどんな人だと思う?」
「……質問の意図が分かりかねますが」
「そのままの意味さ。絶対優位種ってどんな人がなるんだろうね?」
グローリアの質問を受け、ショウは訝しげな表情を見せながらも答える。
「……貴族とか、王族とかですか?」
「残念、外れ」
想定内の答えである。
実際、絶対優位種はユフィーリア・エイクトベルという銀髪碧眼の魔女以外に確認されていない。世界中を探しても見つかることはなく、どこかにいるだろうという淡い期待も打ち砕かれるぐらいだ。
普通の人間ではなり得ないのだ。どれほど魔法の才能に溢れていたって、逆立ちしても絶対優位種にはなれない。交わったとしても無駄である。
「絶対優位種はね、神様だけなんだよ」
「神様?」
「そう、エリシアに於いて絶対優位種は神様だけに許されたものなんだ」
昔と違って、現在では神々を認知できる人間は少なくなった。というより神々が空から降りてこなくなったのだ。
神託と呼ばれるお告げのようなものは投げてくるくせに、姿はさっぱり見せないのだ。見えないからこそ縋ることも出来るし、信仰も出来るのだが。
神々は絶対優位種として、人間に子供を産ませる高尚な存在だ。神話でも神が人間の子供を孕む描写はなく、逆に女神が人間の男性に子供を授けたという物語は色々とある。
「じゃあつまり、ユフィーリアは神様なんですか?」
「少し語弊があるかな。まあでも、広義的に見ればそうだね」
「何か隠しているように聞こえる言葉ですが」
ジト目で見据えてくるショウは、
「話していただけますか? 隠していることを洗いざらい、全部」
「知ってどうするの? 君が知って得するような内容ではないと思うけれど」
「愛する人の過去を受け止めるのは当然のことだと思いますが」
平然と言ってのけるショウに、グローリアはいっそ感動すら覚えた。
彼の箍が外れたのは、ユフィーリアの恋人になってからだろうか。ユフィーリアを害する人物を排除し、またユフィーリアに好意的な感情を持つ人物の邪魔を良しとした。グローリアもいくらか――いいや、かなりの被害を受けた記憶がある。
最優先されるべき事項はユフィーリアに愛されることだ。どうすれば彼女に愛されるか、どうすれば彼女を夢中に出来るかということだけを常に頭の中で考えている。その為なら普段の女装も受け入れる、という恐ろしくも一途な感情を持ち合わせている。
「なるほどね、どんなことがあっても受け入れるという姿勢は出来ている訳だね」
「はい」
「でも、逆の場合もあるよね?」
「逆?」
「君がユフィーリアのことを嫌うのさ。一途に想い続けた人物が、予想外の過去を抱えていたら受け入れられないってこともあるでしょ?」
可能性としては少ないだろうが、考えられなくはない状況である。
口先だけは大層なことを語っているものの、やはり抱えきれなくなったら途中で投げ出すのは一般人ならよく見られる光景だ。「愛している」だの何だの言っておきながら、所詮は愛なんてその程度である。
本当の姿を知れば、果たして彼はユフィーリア・エイクトベルという魔女を愛せるだろうか?
「愚問です」
ショウはキッパリと切り捨て、
「俺は、ユフィーリアがどんな過去を抱えていようと愛すると決めました。どうあってもその意思は変わりません」
「なるほど、君の覚悟は受け取ったよ」
そこまで昔話を求めてくるのであれば、グローリアに止める術は見つからない。今から彼女の秘密を明かしたところで、それをどうやって処理するのはショウ本人の問題だ。「受け入れられない」と訴えるのであれば、彼の愛は所詮その程度だったと鼻で笑うことにしよう。
やれやれと肩を竦めたグローリアは、途中になってしまった書類仕事を放置して白い表紙が特徴の魔導書を手元に召喚する。
魔導書の頁を開き、何も書かれていない空白の紙面を指先でなぞる。グローリアの合図に呼応して複雑な魔法式で構成された魔法陣が頁全体に滲み出してきて、指先で弾いて頁から学院長室の床にそれを落とす。
「今から明かす過去は誰にも言っちゃダメだよ。本当なら契約魔法で緘口令を敷きたいところだけど、契約魔法で縛っちゃうとユフィーリアにバレちゃうからね」
「言いません」
「ユフィーリアにもだよ」
「ユフィーリアの過去ではないんですか?」
「そうだとも、今から語るのはユフィーリア・エイクトベルの過去さ。でも彼女は過去を全く覚えていないのさ」
記憶が風化した影響で忘れてしまった、というありふれた理由ではない。
ユフィーリアは本当に覚えていないのだ。記憶がすっぽりと抜け落ちてしまったかの如く、過去について何も覚えていない。
今から明かされる彼女の過去は、この世界でグローリア・イーストエンドしか覚えていない記録である。
「それでは、語ろうか」
グローリアは朗らかな笑顔を見せ、魔法を発動させる。
「――〈再演・名もなき女神の終焉〉――」
《登場人物》
【グローリア】ヴァラール魔法学院の学院長。この世界においてユフィーリアの秘密を知る唯一の人物。意外と口は固いので秘密なども内緒にしておける性格。
【ショウ】ヴァラール魔法学院の用務員。ユフィーリアのお嫁さんである異世界出身の少年。愛する魔女の秘密を知る為に、深夜に1人で学院長の元に訪れる。