第1話【学院長と眼鏡】
――ぴぴぴぴ、ぴぴぴぴ。
「ん、んー……」
部屋中に響き渡る甲高い音に、学院長のグローリア・イーストエンドは寝ぼけながらも反応する。
学院長室の隣に設けられた私室には、大きな天蓋付きのベッドが設置されていた。他にも学院長らしい瀟洒な作りの調度品や家具で揃えられているが、これらの設備にグローリアは愛着がない。自分自身の家具を揃えようとしたら「学院長としての威厳がない」と図書館司書のルージュ・ロックハートに説教されて勝手に揃えられたのだ。
拘りもクソもなく、ただ私室には寝に来ているだけである。寝具だけは毎日使うものなのである程度の拘りはあるが、やはり天蓋付きの大きなベッドはやりすぎだと思っている。
広々としたベッドに正座で座り込むグローリアは、
「んむ……あさ……」
未だに枕元で『ぴぴぴぴ』と甲高く耳障りな音を奏で続ける目覚まし時計に手刀を叩き落として、グローリアは眠気を払うように欠伸をした。
この目覚まし時計は副学院長のスカイが開発した魔法兵器のようだが、その音が非常にうるさい。おかげで朝食の時間に遅刻せず起床することが可能だ。朝から頭痛はするようになったけれど、尊い犠牲である。
やや寝癖が目立つ烏の濡れ羽色の髪を手櫛で梳かすグローリアは、眠たげに頭を揺らしながら私室の隅に設けられた洗面台に移動する。まずは顔を洗ってから身支度を整えて、それから朝食の為に大食堂へ移動だ。
「ん?」
鏡を覗き込んで、グローリアはようやく自分の変化に気がついた。
「僕って眼鏡なんかしてたっけ?」
そう、眼鏡である。
鏡の中に映り込む自分自身の中性的な顔立ちはいつも通りだが、紫色の瞳を守るように眼鏡がかけられているのだ。銀縁が特徴的などこにでもある普通の眼鏡である。
視力を補強する道具に頼るほど、グローリアの目は悪くなっていないはずだ。生命を超越した天才的な魔法使いなので老眼の心配もないのだが、どうして眼鏡をかけているのだろうか。
とりあえず邪魔な眼鏡を外そうかと銀縁を指先で摘むグローリアだが、
「あれ?」
取れない。
眼鏡をいくら引っ張っても取れない。まるで肌に吸い付いてしまったかのように、眼鏡が外れない。
力づくで眼鏡を外そうとするグローリアは、
「ふんぎぎぎぎぎぎ」
鏡の前で何度か粘ってみるものの、なかなか外れない。眼鏡をかけたことがないので、もしかして魔法で眼鏡を取り外す仕組みになっているのだろうか。
グローリアは「もう」と眼鏡の取り外しを諦め、代わりに鏡を指先で叩いた。
つるりとした表面が揺らぎ、どこかの部屋の景色が映し出される。作りかけの魔法兵器の山、数え切れないほどの部品を箱ごとに詰め込んだ棚、それから魔法兵器の設計図など魔法工学を学ぶ魔女や魔法使いにとってはお宝の山とも呼べる品々が鏡に映し出された。どこに通信魔法を繋げたのか、嫌でも分かる。
「スカイ、起きてる?」
鏡に向かって呼び掛ければ、すぐに巨大な芋虫みたいなものがムクッと鏡の下から現れる。
『ふぁい……起きたッスよ』
「おはよう、スカイ」
『おはようッス……ふあぁ』
寝袋に収まって床に転がっていたらしい副学院長のスカイ・エルクラシスが、モソモソと寝袋から這い出してくる。芋虫の脱皮のように見えてしまう。
ボサボサになった赤い髪は鳥の巣のようであり、ふらふらと頭を揺らす姿は赤い毛玉が生きているような気配さえある。眠たげに目元を擦っていたスカイだが、自分の眼球を守るようにかけられた眼鏡の存在に気づいて「あれ?」と声を上げた。
スカイの目にも眼鏡がかけられていた。グローリアと同じく銀縁の眼鏡である。おかげで彼がいつもつけている真っ黒な目隠しが出来ず、世界中を見渡すことが出来る『現在視の魔眼』が晒されていた。
『何スか、この眼鏡』
「君って眼鏡をかけてなかったっけ?」
『作業中はかけるッスけど、これはボクの眼鏡じゃないッスね』
近場に放置されていた手鏡を握りしめ、スカイは『うん、やっぱり違う』と眼鏡の形状を否定する。
「じゃあ誰がこの眼鏡を僕にかけさせたんだろう? 外れないんだけど」
『えー、眼鏡が外れないなんてあるんスか?』
「やってみなよ、スカイ。外れないから」
『またまたぁ、そんなこと言って――あれ?』
スカイは銀縁眼鏡を外そうとするのだが、やはりグローリアと同じく眼鏡が外れなかった。
どれほど引っ張っても、眼鏡はスカイの肌に吸い付いてしまったかのように離れない。『ふんぎぎぎぎぎぎ』と躍起になっている様子だが、残念ながら眼鏡は外れなかった。
眼鏡を外す行為だけで体力を消耗したらしいスカイは、
『外れねえッス』
「でしょ?」
『こんな馬鹿なことをやるの、アイツら以外にいないッスよ』
「だよね」
学院長と副学院長の脳裏に浮かんだのは、ヴァラール魔法学院を騒がせる問題児の存在だ。創立当初から問題行動に問題行動を重ねてえらいこっちゃになっていて、教職員や歴代の生徒たちは彼らに散々辛酸を舐めさせられ続けていた。
今回の眼鏡騒動も、絶対に彼らの仕業である。もう決めつけちゃうのだ。たとえ犯人じゃなかったとしても、こんな愚行は問題児以外に起こさないのだ。
深々とため息を吐いたグローリアだが、
「ん?」
鏡に映るスカイの格好を見て、グローリアは眉根を寄せた。
「ねえスカイ、君ってば裸族なの?」
『何言ってんスか、アンタ。寝巻きのままッスよ、寝袋から起きたの知ってるでしょうがよ』
「いやでも僕の視界には、スカイの上半身が裸しか映ってないんだよね」
眼鏡を通して世界を見ているので本当に正しい光景なのか疑問だが、とりあえず副学院長のスカイは上半身裸だった。上半身しか見えていないので下半身の状況は読めないのだが、特に鍛えられてもいないヒョロヒョロな体躯が露わになっていた。
寝巻きのままだとスカイは言っていたが、その言葉を信じるなら彼は裸族で眠っていたということになる。もしかしたら下着1枚だけかもしれない。この格好で学院内を彷徨い歩けば、間違いなく警察組織に引き渡す自信がある。
まあスカイに限ってそんなことはないだろう。彼はヴァラール魔法学院で1番の常識人だ。かの有名な問題児だって彼に頭が上がらない。
『それならボクも言わせてもらうッスけど』
「何かな?」
『グローリアも上半身裸なんスけど、まさか裸族で過ごしているとかないッスよね? いくら問題児の玩具にされていても、さすがに自分からネタを振り撒くような人物じゃないとボクは思ってるんスけど』
「ふぁ!?」
自分の口から甲高い声が出た。
グローリアは慌てて自分の身体を触ってみる。
確かに触れているのは布の質感だ。寝巻きとして愛用している絹の襯衣と洋袴であり、肌に触れる感覚も間違いではないことを告げている。
なのに何故だろう、眼鏡を通して見る自分の格好は全裸だった。
「――――――――!?」
声のない悲鳴が迸る。
寝巻きを着ている感覚はあるのに、見ている光景は生まれたままの姿である。下着すら身につけていなかった。見たくねえ自分の内緒なトコロまで丸見えだった。
慌てて隠せるような布を探すが、慌てすぎた影響で椅子から転げ落ちてしまう。背中を強かに打ち付け、思わず「ぐえッ」と潰れた蛙のような声が漏れた。
『ちょ、平気ッスか? いきなり何で転んで、――』
「きゃあああああああああああああッ!?!!」
『うるさッ!? え、いきなり何叫んでるんスか!?』
心配して鏡を覗き込んできたスカイだが、ちょうど倒れ込んだグローリアの視界に映り込んでしまったのだ。
ちょっと言えないが、ナニがアレである。スカイも生まれたままの姿を晒していた。しかも自覚はないようなのか、心配する素振りを見せながらアレやソレを見せつけてくるという変態的な行動を朝からやらかしてきやがったのだ。
眼鏡の上から視界を手で遮ると、
「か、隠して!!」
『何をッスか!?』
「前だよ、前!! 君、今何も着ていない状態だよ!?」
『転んだ拍子に頭でも打ったッスか? 保健室のリリアンティア先生に診てもらいます?』
「じゃあ自分の格好を確かめて!! 僕の言っていることは間違いないんだからね!!」
スカイは半信半疑な様子で自分の格好に視線を落とす。
同じような眼鏡を装備しているのであれば、現在の自分の格好を見直すことが出来たはずだ。ヒョロヒョロガリガリで痩せ細った身体と、自分自身の大事な部分が「おはようございます」しているところを目撃する。
全裸となっている自分自身を見つめ、それからスカイは見る間に顔を赤く染め上げる。
『ゔああああああああああああああああああああああああ!?』
「だから言ったでしょ!?」
『見んな、見るんじゃねえッス!! このえっち、すけべ、変態!!』
「それは僕も同じことを言うよ、このえっち副学院長!!」
『それならアンタはどすけべ学院長じゃねえッスかああああ!!』
鏡越しに朝から激しい舌戦を繰り広げる学院長と副学院長は、
「せ、生徒たちはどうなってるの?」
『魔眼を使ってみたッスけど、確認した全校生徒・全教職員に同じ銀縁眼鏡が装備されてたッスね。しかもどいつもこいつも全裸でしたわ』
「君の魔眼すら影響しちゃうんだ……これはなかなか酷い代物を作ったな、あの問題児ども……」
『しかも校外の街を確認したッスけど、やっぱり全裸で往来を歩く変態量産……目と頭がおかしくなりそうッス』
「だろうね」
見た人間が全裸に見える眼鏡など、もはや天災の域に到達すると言ってもいいだろう。本当に何てものを作ったのだろうか。
頭を抱えるグローリアだが、自分の身体に異変が起こったことに気づく。
何気なく自分の手のひらに視線を落とすと、肌が透けていくのだ。皮膚が徐々に透過して、血管や筋繊維などが剥き出しになっていく。
「!?」
椅子を跳ね飛ばして立ち上がれば、スカイが『どうしたんスか?』と反応する。
「透けてる!?」
『うわ本当だ、気持ち悪』
「言っておくけど君もだからね!!」
スカイの皮膚も徐々に透けていき、血管や筋繊維などが剥き出しとなった気味の悪い姿に変わっていく。全裸は変態的で見ていられなかったが、こちらは別の意味で見ていられない。
自分の皮膚が透過していくことに気づいたスカイは、慌てて手を擦って皮膚の存在を確かめる。どうやら皮膚の存在はあるようだが、眼鏡のせいで皮膚を認識できないでいるようだ。
さらに筋繊維や血管が透過し、内臓すらも消えて、最終的に残ったのは。
「――骨!!」
『骨だ!?』
白骨死体よろしく全身が骨となったところで、グローリアとスカイの身体の異常は止まった。
こんなおかしなことをするのは、絶対に問題児しかいない。
どうせ夜のうちに何か面白い話でも聞いたのだろう。それをノリと勢いだけで実践したに違いない。絶対にそうだ。
ワナワナと骨化した全身を震わせるグローリアは、澄み渡った朝の空に向かって絶叫した。
「ユフィーリア、君って魔女は!!!!」
《登場人物》
【グローリア】寝る時は普通にパジャマ派な学院長。眠りは深い方で一度寝るとなかなか起きないが、同時に何日も徹夜することがある。
【スカイ】寝る時はジャージ派な副学院長。眠りは浅い方でよく夢を見る。寝袋を使用するので、夏の時期になると校内に落ちている場面を見かける。それをハルアがゴロゴロ転がして遊んでいる。