第7話【異世界少年と露天風呂】
夕方になり、湯煙温泉郷も人が疎になってきた頃合いである。
「汗掻いちゃったねぇ」
エドワードが額に滲んだ汗を拭うと、
「汗だくで学院に帰りたくないからぁ、もう1回お風呂に入ろうよぉ」
「今度は別のお風呂がいいですね」
昼間は大浴場で様々なお風呂を体験したので、次は別のお風呂がいいだろう。湯煙温泉郷にはまだまだ温泉の施設があるので、もう1種類ぐらいなら入れそうだ。
ショウも少しばかり汗を掻いてしまっていた。湯煙温泉郷の気温も影響しているだろうが、ジメジメした湿気の高さが原因だと思われる。
これは帰る前にお風呂に入って、さっぱりしてからヴァラール魔法学院に戻りたいものだ。このままだとまた汗を掻いてしまう。
「あ、じゃあ次はあそこに行こ!!」
ハルアが提案したのは、すぐ近くにあった温泉施設である。
どうやらそこの施設は広大な露天風呂をウリとしている様子だった。瓦屋根が特徴的な建物は情緒溢れる雰囲気を醸し出し、暖簾に描かれた達筆な文字は『星空の湯』と何とも綺麗な店名を掲げている。
星空の湯ということは、夜空でも見ながらお風呂に入れるのだろうか。想像しただけでとても綺麗な光景である。
エドワードも「いいねぇ」とハルアの提案に賛成の意を示し、
「じゃあ露天風呂に入ってぇ、ついでに夜ご飯も食べて帰ろうねぇ」
「はい」
「あーい!!」
帰りの方針も決まったことで、3人は早速『星空の湯』の暖簾を潜るのだった。
☆
目の前には広大な露天風呂が広がっていた。
「うわあ……」
竹で組まれた足場で立ち尽くすショウは、あまりにも広大な露天風呂を前に驚嘆の声を漏らした。
太い柱が何本も屹立し、高い位置にある瓦屋根を支えている。だが完全に屋根が空を覆い隠している訳ではなく、ところどころ途切れており現在の空が見え隠れしていた。夕方ということもあって茜色から夜空の紺碧が混ざり合っていて、綺麗な色が頭上に広がっている。
利用者はおらず、広々とした露天風呂は伽藍としていた。石造りの広い浴槽は湯気が立ち上るお湯で満たされ、客の姿は見渡す限りでは存在しない。もう夕方だからか、温泉を利用せずに帰ってしまう客が大半なのだろう。
この広大な露天風呂を独り占めすることになり、ちょっと得した気分である。何故か心が浮き足立ってしまう。
「まずは掛け湯を……」
足場の隅に設置された掛け湯は、石桶にたっぷりとお湯が満たされていた。石桶の上に組まれた棚に木桶が並び、ショウはその1つを手に取る。
ざばりとお湯を自分の身体にかけてお湯に入る前に汚れを落とし、それからゆっくりと足先を露天風呂に浸ける。じんわりとした温かさが足先から全体に広がっていき、思わず「ああああ」と情けない声が漏れてしまった。
行燈がぼんやりと照らす広い露天風呂をざぶざぶと進み、空がいい感じに見える位置でショウは肩までお湯に浸かった。
「ふあああ……気持ちいい……」
お湯がちょうどいい温かさである。歌でも歌いたくなる気分だ。
それにしても、エドワードとハルアはどこに行ったのだろう。2人揃って「先に行ってて」などと言っていたのでお先に温泉を堪能しているが、何かあっただろうか。
ちゃぷちゃぷとお湯を自分の肩にかけて、頼れる先輩たちは何をしているのだろうと思考を巡らせているところで声がかけられた。
「ショウちゃん、楽しんでるぅ?」
「あ、エドワードさん」
腰にタオルを巻いたエドワードが、お盆を片手に歩み寄ってきた。相変わらずの彫像めいた肉体美を惜しげもなく晒している。貧相なショウの身体がより強調されることになってしまう。
そんなショウの心情など知ってか知らずか、エドワードはお盆を湯船に浮かべると「ほいよっとぉ」とおっさん臭い掛け声と共にお湯へ浸かってきた。ざぶりと大津波がショウを襲う。
お盆の上に乗っていたのは、
「お酒ですか?」
「それとジュースねぇ。お金を払えば持ち込んでいいって売店にあったよぉ」
エドワードは小さめの硝子杯に栓を抜いたジュースの瓶を傾けて、白濁とした液体を注ぎ入れる。
「林檎のジュースだってぇ。こっちはショウちゃんねぇ」
「いいんですか?」
「ジュースを飲みながら温泉も乙なものだよぉ」
ジュースが並々と注がれた硝子杯をショウに手渡すエドワードは、
「零さないように気をつけてねぇ」
「いただきます」
両手でしっかりと硝子杯を受け取ったショウは、冷たいジュースに口をつける。舌の上を林檎の甘い味が通り過ぎていき、熱い温泉にピッタリのお供だ。
隣では、エドワードが徳利を傾けて猪口に清酒を注ぎ入れていた。
彼の顔がほんのりと赤らんでいるのは、お湯のせいか酒精のせいか。グイッと猪口に注がれた清酒を飲み干して、美味しそうに「くうッ」と唸っていた。
「温泉に入りながらお酒を飲むのっていいねぇ。用務員室じゃ絶対に出来ない真似だよぉ」
「たまにはこういうのもいいですね」
「あとはお風呂で氷菓とかねぇ。絶対に最高じゃんねぇ」
「確かに」
熱いものと冷たいものの組み合わせは、どうしてこうも人を魅了してしまうのか。それは永遠の謎である。いくら聡明なショウでも解決できない謎だ。
クピクピと林檎ジュースを傾けるショウに、エドワードが「ねえ、ショウちゃん」と呼びかける。
隣を見上げれば、月明かりにも似た銀灰色の双眸が真っ直ぐにショウを射抜いていた。どこか寂しげな表情もおまけ付きである。
「俺ちゃんのことぉ、まだ怖い?」
「え?」
怖い? 何のことだろうか。
確かにエドワードは、見た目だけなら怖いと言えるだろう。睨みつけられただけで身体の芯まで凍りついてしまうような鋭い双眸や泣く子も、黙る巌のような顔面は第一印象が最悪の2文字に尽きる。
それでも、よく見れば整った顔立ちであることは分かる。見た目とは対照的に彼は面倒見がよく、包容力抜群な優しい人だ。親戚のおじちゃんと呼べる立ち位置だろうか。エドワードのようなおじちゃんが親戚にいたら絶対に嬉しい。
ショウは否定するように首を横に振り、
「いえ、怖い訳ではないですが」
「でも、俺ちゃんのことは『エドワードさん』って呼ぶよねぇ」
「あ」
よく考えれば、ユフィーリアとハルアはタメ口なのにエドワードとアイゼルネだけは未だに敬語である。少し距離が出来てしまっていた。
なるほど、だから「まだ怖がられているかもしれない」という意味合いでの発言だったのか。これなら納得できる。
別に差別をしている訳でも、ましてや怖がっている訳でもない。もうそう呼ぶのに慣れてしまったのだ。
「すみません、あの、馴れ馴れしく呼んだら怒るかなって思って」
「えー、別に怒んないよぉ。俺ちゃんだってぇ、ショウちゃんと仲良くしたいもんねぇ」
エドワードはニッと快活な笑みを見せ、
「だからぁ、今度から俺ちゃんは『エド』って呼んでほしいねぇ。アイゼのことも『アイゼ』って呼んであげてよぉ」
「いいんですか?」
「許可なんていらないよぉ」
大きな手のひらでショウの頭を撫でたエドワードは、
「出来れば敬語もなくしてほしいけどねぇ、それは今すぐって訳にはいかないしねぇ。俺ちゃんとショウちゃんは年齢が離れてるしぃ」
「ハルさんは年齢が近いですしね……」
ハルアは自称「永遠の18歳」と宣言しているので、15歳のショウとは年齢が近いのだ。なので、ちょっと頑張れば敬語を外した状態での会話は可能だ。
だが、エドワードはだいぶ年齢が離れている。というか、彼の年齢を知らない。雰囲気的に30代ぐらいだと予想しているが、この場で年齢を尋ねるのは失礼にあたらないだろうか。
ショウの言いたいことを察知したのか、エドワードが「あのねぇ」と口を開く。
「俺ちゃんは31歳だよぉ」
「え、嘘」
「本当だよぉ」
まさか本当に30代、しかも思った以上に若くて驚きが隠せなかった。30代の半ばぐらいだと勝手に想像してしまっていた。
「だからぁ、ショウちゃん」
猪口に清酒を注ぎながら、エドワードは言う。
「俺ちゃんともぉ、仲良くしてくれるぅ?」
「はい、エドさん」
これからも長い付き合いになるのだから、距離を取ったままではダメだ。それに相手からも「仲良くしてほしい」と望まれている以上、ショウはエドワードの期待に応えたい。
ショウだってエドワードと仲良くしたいのだ。頼れる年上の先輩用務員なので、何か色々と知っていそうである。主に昔のユフィーリア関係をぜひ知りたいところだ。
その時である。
「とぉーう!!」
元気のいい掛け声と共に、ハルアが湯船に飛び込んできた。
ざっぱぁーん!! と盛大に湯船が波打ち、エドワードとショウに温泉の波が強襲する。徳利と猪口、そしてジュースが注がれた硝子杯は何とか死守できたが、お盆はどこかに流されていった。
同じくお盆に笹の塊を乗せたハルアが「ショウちゃんとイチャイチャしないで!!」と嫉妬した彼女みたいなことを叫んでくる。彼の瞳には一体どう映ったのか。
「ハルちゃん、湯船に飛び込むとか聞いてないんだけどぉ!?」
「オレとは遊びだったのね、この浮気者!!」
「一体何を言ってのか分かんないけど頭のおかしな展開になってるのは察知したよぉ!!」
「イダダダダダダダダダダ」
エドワードの華麗なるアイアンクローが決め手となり、2人の喧嘩は強制終了と相なった。
ハルアは「みんなで食べよ!!」とお盆に乗せた笹の葉を広げる。
笹の葉に包まれていたのは黒蜜がかけられたわらび餅である。キンキンに冷やされているのか、指先を伸ばしただけで冷気が肌を撫でた。
「俺ちゃんに張り付いてお金をせびった理由はこれねぇ」
「だって美味しそうだったんだよ!! 氷わらび餅だって!!」
「氷わらび餅」
聞いたことのないわらび餅である。
ショウは試しに竹串で透明な餅を1粒突き刺すと、落とさないように気をつけながら口に運ぶ。
透明な餅はしゃりしゃりとした食感が新しく、黒蜜とよく合う。火照った身体を冷ますのにちょうどいいお菓子だ。
「美味しい」
「お風呂で冷たいものはやっぱりいいねぇ」
「エド、オレの分の飲み物は!?」
「あるよぉ。湯船に飛び込んだのをちゃんとごめんなさいが出来たらあげるねぇ」
「ごめんなさい!!!!」
「素直でいいねぇ」
ハルアにも硝子杯を渡し、林檎のジュースを並々と注ぎ入れる。それから3人分の「乾杯」という声が、夜がひっそりと近づく空に響き渡った。
《登場人物》
【ショウ】今更になってエドワードをちゃんと読んでいたことに気がついた。自分では仲良くしているつもりだったが、距離が出来ていたみたい。これを機に距離を縮めたい。
【エドワード】歳の離れた弟とかそんな印象を未成年組に持つ。特に控えめなショウのことは甘やかしてやりたいし幸せになってもらいたい。ハルアとは喧嘩するけどその分信頼している。
【ハルア】ショウには頼れる先輩を演じ、エドワードはおちょくったり頼ったり年齢相応の態度を見せる。エドワードが弟扱いをしてくるのは分かっているので、全力でクソガキムーヴをかます。