第5話【異世界少年とお蕎麦】
風呂のあとの牛乳は格別である。
「ぷはあッ!! 風呂上がりの麦酒は最高だねぇ!!」
缶の麦酒を一気に飲み干して、エドワードが唸る。泡の髭までくっつけていた。
その隣では腰に手を当てて瓶牛乳を一気飲みするハルアが、同じように「ぷはあッ!!」と息を吐く。いい飲みっぷりだった。
さくら屋の脱衣所は広く、衣類を収納する為の棚がいくつも並び、洗面台や飲み物を販売する無人営業所まで完備されていた。壁から突き出た何枚もの団扇は『ご自由にお使いください』と張り紙が掲げられ、実際に風呂の熱気を冷ます為に団扇を使っている客が何人もいた。
「檜湯とかよかったねぇ。匂いがいいねぇ」
「ぶくぶく泡立ってるお風呂もよかったよ!! 面白かった!!」
「電気が流れているお風呂まであって凄かったです」
互いによかった風呂の感想を言い合いながら、ショウはふわふわのタオルで身体の水気を拭っていく。濡れた髪の毛を簡単に纏めて、棚に畳んで置いた浴衣を羽織った。
さすが豊富な種類の温泉があると謳われるさくら屋だ。湯煙温泉郷随一の温泉種類と言われているだけあって、本当に様々な温泉があった。小さめだが蒸し風呂に岩盤浴もあり、露天風呂方面には小規模ながらも滝まであった。子供たちが楽しそうに滝行しているところへハルアも乱入して少し大変だった。
足を伸ばせて入れる浴槽がいくつもあったので、身長の高いエドワードものんびり出来た様子である。「麦酒もう1本買っちゃお」などと無人営業所に設置された箱に金銭を投入して、金盥で氷と共に冷やされた麦酒の缶を1本取っていった。
器用に片手だけで麦酒の缶を開けたエドワードは、
「ショウちゃんは牛乳飲まないのぉ?」
「お金がかかるみたいですし、俺はいいです」
「飲みなよぉ、奢ったげるからぁ」
「でも」
「はい、これねぇ。好きなの買いなねぇ」
小さめの財布から何枚かの硬貨を取り出したエドワードは、それらをショウに押し付ける。
瓶牛乳が1本だけでも「ちょっと割高だな」と感じるのに、それを気前よく奢ってくれるのは優しい先輩である。大人組なだけある。
せっかく硬貨を貰ったのに、好意を無碍にする訳にはいかない。ショウは「ありがとうございます」とエドワードにお礼を告げ、無人営業所に歩み寄った。
魔法で冷やされている硝子製の箱には、何種類かの牛乳が棚いっぱいに並べられていた。普通の牛乳はもとより、珈琲風味やフルーツ風味、ヨーグルト風味まで様々な種類が取り揃えられている。値段はどれも均一だ。
「エド、オレももう1本!!」
「ハルちゃんは飲んだでしょぉ」
「エドは麦酒をもう1本飲んでるのに狡い!!」
「俺ちゃんのお金なんだから狡くないもんねぇ。ハルちゃんは40ルイゼしか持ってこなかった自分を恨みなよぉ」
腰にタオル1枚を巻いた状態で取っ組み合いの喧嘩をするエドワードとハルアのやり取りを背後で聞きながら、ショウは無人営業所の箱に硬貨を投入してから硝子製の箱の扉を開ける。
ヒヤリとした空気が肌を撫でた。棚から取り出したものは桃色の牛乳――イチゴ牛乳である。『お化け苺を使用!!』などと瓶の張り紙には大きな文字で書かれていた。
紙製の栓に気をつけながら引っこ抜き、零さないように瓶を傾ける。
「――ぷはッ」
半分ほど一気に消費してしまった。
熱気を孕んだ身体に、牛乳の冷たさが染み渡っていく。特にこのイチゴ牛乳は甘くて舌触りがよく、ほんのりと感じる苺の味が格別だった。
こんな味のついた牛乳は初めてである。元の世界で飲んだ記憶のある牛乳は、賞味期限が切れたものばかりでよくお腹を壊していた。ちょっとした恐怖である。
「ショウちゃん、美味しい?」
「はい、エドワードさん。美味しいです」
「よかったねぇ」
濡れたショウの頭を撫でるエドワードは、
「このあとはどうするぅ? お昼ご飯にするぅ?」
「もう12時近いですもんね。どこかに入りますか?」
「この温泉の近くに蕎麦屋があったよ!!」
エドワードの背中に張り付いたハルアが、
「お蕎麦食べよ!!」
「それはいいな。食べやすそうだし」
「いいねぇ、お蕎麦。さっぱりといきたいねぇ」
「エド、牛乳!!」
「ハルちゃんは飲んだでしょって言ったじゃんねぇ。いい加減に俺ちゃんの背中に張り付くのは止めてよぉ、壁に押し付けて潰すよぉ」
「牛乳!!!!」
「ダメ!!!!」
牛乳を買って買わない戦争が脱衣所にて勃発し、他の利用者から温かい視線が送られる羽目になった。まるで親子のやり取りだ、とは思ったがショウは口に出さなかった。
☆
さくら屋の近くに店を構える蕎麦屋『紺青庵』は、ちょうど客足の頂点を過ぎ去った頃合いだったようだ。
カウンター席のみという狭い店だが、豊富な種類の蕎麦が有名らしい。店先に置かれたお品書きには蕎麦の商品しか置いておらず、主体となっている蕎麦の他に天ぷらや丼物のご飯がついてくる定食形式になっている模様である。
いくら胃袋の許容量が増えたとはいえ、蕎麦1人前を完食してから丼物を掻き込むことなどショウにはまだ先の道のりである。まずは普通の1人前を余裕で完食するところから始まる。
「赤蕎麦、黄蕎麦、茶蕎麦です。お待ち遠様でした」
小豆色の着物に身を包んだ狐耳の女性店員が、ざるに乗せた蕎麦を運んでくる。
ショウの前には赤みが目立つ蕎麦、ハルアの前には黄色が混ざった蕎麦、エドワードの前には緑色の蕎麦がそれぞれ置かれた。色とりどりの蕎麦である。
追加でエドワードはカツ丼の大盛りを、ハルアは天ぷらの盛り合わせを注文していた。蕎麦だけでお腹いっぱいになる小食気味なショウにとって、それほどたくさん食べられることが出来ればもっと成長できたことだろうと悔やむ。
「それじゃあ、両手を合わせてぇ」
いつもはユフィーリアがやる号令を年長者であるエドワードが実行し、
「いただきます」
「「いただきます!!」」
箸で蕎麦を食べられるだけ掬い、麺つゆが満たされた陶器に浸ける。鰹出汁の香る麺つゆと蕎麦の風味の相性がよく、空腹を訴えていた胃袋に優しく染み渡っていく。
蕎麦には赤紫蘇の他に梅が混ざっているのか、ほんのりと梅特有の酸味が舌の上に広がった。さっぱりとしている味は、このジメジメした暑さが嫌な季節に最適である。
ショウの隣では海老の天ぷらをサクサクサクサクと一心不乱に口へ詰め込んでいくハルアが「美味い!!」と称賛の声を上げた。
「ショウちゃんも天ぷらいる!? 美味しいよ!!」
「それはハルさんのものだから、ハルさんが食べたらいいぞ。俺は大丈夫だ」
「海老の天ぷらあげるね!!」
「俺の話は聞いていたか?」
やんわりと断ったはずなのに、ハルアは海老の天ぷらをショウの赤い蕎麦の上に突き立ててくる。盛られた赤い蕎麦に海老の天ぷらが突き刺さるという異様な光景が完成された。
せっかくのご好意である。ありがたくいただくことにしよう。蕎麦に突き刺さった海老の天ぷらを「大丈夫だから」と突き返すのはさすがにアレである。
ショウは「じゃあ、ありがたくいただく」と海老の天ぷらに齧り付いた。
「ん、美味しい」
「でしょ!?」
天ぷらの美味しさを共感できたハルアが嬉しそうに笑う。
天ぷらの衣がサクサクしているので食感が楽しく、また海老が肉厚でとても美味しい。店内の張り紙で『天ぷらのお勧めの食べ方は塩』とあったので、近くにあった塩の瓶をちょっと振れば味の変化が楽しめた。
少量の天ぷらであれば、まだ食べられるかもしれない。蕎麦も天ぷらも美味しい。
「お蕎麦食べたらお土産見ようよ!! ユーリとアイゼに買ってこ!!」
「そうだねぇ。何がいいか聞いとかなきゃねぇ」
「連絡は取れますかね」
「取れるでしょぉ。ユーリはともかくとしてぇ、アイゼなら連絡はつくだろうしぃ」
エドワードは緑色の蕎麦を啜りながら、
「ハルちゃんお蕎麦ちょっとちょうだぁい」
「あ、攫った!! この蕎麦攫い!!」
「このお蕎麦、生姜が効いてるのねぇ。今度来た時には黄蕎麦にしようかねぇ」
「狡い!! エドのもちょうだい!!」
「もう食べたぁ」
「じゃあカツ貰うね!!」
「あ!? 最後の1切れ奪ったぁ!?」
蕎麦とカツの強制交換によって、本日何度目か分からない喧嘩の火蓋が切って落とされる。何故かショウの脳内に、カーンという鐘の音が響いた気がした。
狭い店内にて繰り広げられる舌戦と取っ組み合いの喧嘩に、それまで静かだった店内が賑やかなものになっていく。2人の喧嘩を聞きつけた他の利用者が興味本位で店内を覗き込み、それから囃し立てながら面白がって店の中まで入ってくる。そんな調子で続々とお客さんが狭い蕎麦屋にやってきて、エドワードとハルアの喧嘩を娯楽感覚で観戦しながら蕎麦を啜っていた。
ショウは非常に申し訳なさそうに、唖然とした様子でエドワードとハルアの喧嘩を見守る狐耳の女性店員に謝罪した。
「先輩たちがすみません……」
「いえ、火事と喧嘩は極東の華という言葉もありますから大歓迎です。お客さんもこうして多くいらっしゃって――あ、いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ!!」
狐耳の店員も、忙しそうに次から次へとやってくるお客さんを捌いていく。店側にとっては嬉しい悲鳴なのだろう。ショウには全く分からない感覚だが、店側が出入り禁止を言い渡してこない限りはもう放っておくしかない。
チラリと隣の席を見やれば、ハルアの人差し指と中指がエドワードの鼻の穴に突き刺さり、エドワードの大きな手のひらがハルアの顔面を鷲掴みにしていた。互いに譲らない激戦状態である。これはもうショウの呼びかけも無駄に終わりそうだ。
放置されたままになっているハルアの蕎麦を少しだけ掬い、ショウはそっと自分の麺つゆに浸けた。黄色い蕎麦には生姜が練り込んであるようで、爽やかな味が舌全体に広がっていく。梅が練り込まれた蕎麦も美味しかったが、生姜も美味しい。
「ショウちゃん、オレの蕎麦食った!?」
「むぎゅッ」
啜った蕎麦がどこか変なところに入りかけた。見られていたとは不覚である。
「ご、ごめ、ハルさん」
「じゃあオレも蕎麦貰うね!!」
ハルアの箸が素早く動き、ショウのざるから赤蕎麦を攫っていく。そして自分の麺つゆに赤蕎麦を浸すと、梅特有の酸味が特徴の蕎麦を一気に啜った。
「すっぺ!!」
「梅が混ざってるからな」
「ショウちゃんも悪い子だねぇ、ハルちゃんのお蕎麦を攫うなんてぇ」
酸味のある蕎麦を一気に啜って口を窄めるハルアに、エドワードが「お茶を飲みなよぉ」と湯呑みにお茶を入れてやっていた。それまで喧嘩をしていた雰囲気とは全然違う。
喧嘩はいつのまにか曖昧な結末を迎えてしまったが、利用客は大いに楽しめた様子だ。ぱらぱらと疎に拍手が起こり、エドワードとハルアは自分たちが原因であることに気づかず真似して拍手をするという謎行動を起こしていた。
ちなみに、代金はちょっとだけ安くなった。
《登場人物》
【ショウ】虐待の影響でまともな食事をしたらお腹を壊すという悲惨な状況を繰り返していたが、最近では改善されてきた。1人前なら完食できるが、量が多いと残してしまうほど胃の許容量は少ない。
【エドワード】好き嫌いなく何でも食べる上に、問題児切っての大食漢。肉料理などタンパク質をたっぷりと摂っている影響か、身長は高いし筋肉質。食べ物があるだけ食べ続けるので、食べ放題の場合は店が潰れる。
【ハルア】エドワードの影に埋もれがちだが、意外としっかり食べることが出来る。基本的に好き嫌いなく食べるのだが、お粥は食べた気がしないのであんまり好きじゃない。2人前程度なら余裕で完食できる。