第4話【異世界少年と大衆浴場】
「わあ……」
目の前に広がる湯煙温泉郷の光景に、ショウは赤い瞳を輝かせた。
更衣室の暖簾を潜った先にあったのは、瓦屋根が特徴的な建物の群れである。空に向かって突き出た煙突からもうもうと真っ白い煙が噴き出し、微かな硫黄の匂いが鼻孔を掠める。
土産屋や食事処が建ち並び、着物姿の店員たちが大通りを行き交う客を呼び込んでいる。店員たちは全員揃って狐耳と狐の尻尾を装備しており、ピコピコもふもふと耳や尻尾が揺れていた。
等間隔に並べられた脚の低い長椅子は、歩き疲れた客たちが休む為に設置されたものだろう。景観を重視する為に番傘も置かれ、和風な街並みと合致していた。
「凄いねぇ」
「人がたくさん!!」
「人気と言っていただけあるな……」
お揃いの浴衣に着替えたエドワード、ハルア、ショウの3人は湯煙温泉郷を見渡して感嘆の声を上げる。
極東地域で人気のある温泉地域とは聞いていたが、大通りは利用客で埋め尽くされん勢いだ。いくつも建ち並ぶ土産屋に大勢の客が詰めかけ、食事処は長蛇の列が形成されている。
これでは温泉で癒されるどころの話ではない。人混みに酔ってしまいそうだ。
大通りを犇めく利用客を眺めるエドワードは、
「これだけ多いとぉ、温泉も入れないかもしれないねぇ」
「でもたくさん温泉があるみたいだよ!!」
近くに設置された湯煙温泉郷内の地図を見上げるハルアが、施設内の建物を指で示しながら言う。
数多くの土産屋や食事処は人目のつきやすい大通りに並び、温泉施設は領土内の入り組んだ場所にあるようだ。湯煙温泉郷の領土はかなり広く、いくつもの温泉を抱えた『大衆浴場』や外が見えるように設計された『露天風呂』など種類が豊富である。
温泉も薬効があるものだけではなく、蒸し風呂や岩盤浴、足湯なども揃えてある模様だ。香油を使ったマッサージ屋、耳掻き、垢擦りなどの美容に関する施設も充実している。全てを巡っていたら1日だけでは足りない。
大衆浴場だけでも5つほどはあるので、これならどこか1箇所ぐらいは空いているだろう。
「どこの温泉に行こっかぁ?」
「たくさんの種類がある場所がいいな!!」
「それなら『さくら屋』という施設が良さそうだ。湯煙温泉郷の温泉施設の中で最も種類が豊富とある」
地図の説明を読み上げれば、ハルアが「じゃあそこに行こう!!」と決定を下した。種類が豊富とあるが、どれほど種類が存在しているのか楽しみだ。
そもそも温泉自体が初めての経験である。元の世界では何度か見かける機会はあったものの、風呂に行けば叔父との情事の痕跡が見つかってしまうから風呂は人目につかないように入りたかった。
はぐれないように、とハルアに手を握られるショウは、さくら屋と看板を掲げる温泉施設を目指して湯煙温泉郷へと足を踏み出した。
☆
湯煙温泉郷で最も温泉の種類が豊富と謳われているだけあって、本当に種類が多かった。
「凄い種類だ……」
「そうだねぇ」
「人も多い!!」
広大な『さくら屋』の男湯に、3人の声が反響する。
見渡す限りで温泉の数は10を超すだろうか。広さや深さも様々なものがあり、温泉の効果を説明する立て看板がそれぞれの浴槽付近に設置されている。
洗い場の数も多く、湯煙のせいで曇った鏡に向かって利用客たちが黙々と髪を洗っていた。中には幼い子供を連れた父親らしき利用者もいて、今すぐ走り出したい衝動に駆られている我が子を懸命に押し留めながら髪の毛を洗ってやっていた。
「どこから行く!?」
「まずは髪と身体を先に洗っちゃおうねぇ」
「洗い場もちょうど3つ揃って空いてますし、いいですね」
今すぐ浴槽に飛び込む勢いのあるハルアの首根っこを引っ掴んだエドワードは、彼を洗い場へ連行していた。「あとでじゃダメ!?」とハルアが騒いでいたが、残念ながら無視されていた。
それぞれの洗い場に設置された椅子や風呂桶は木で作られ、触ると独特の温かみがある。洗髪剤や石鹸などが等間隔で置かれ、髪にいい成分が何たらと長ったらしい説明が瓶に書き込まれていた。
いつも使っている洗髪剤と種類は違うが、特に洗髪剤に対する拘りはないので元から設置されているものを使おう。――この話題を聞いたら、アイゼルネ辺りが発狂しそうなものだが。
ショウは洗い場の椅子に腰を下ろすと、
「…………」
「…………」
「え、何よぉ2人とも。俺ちゃん何かやったぁ?」
ちょうどショウとハルアの間に挟まれる位置の洗い場を利用するエドワードは、大きな手のひらに洗髪剤を出しながら問いかける。
現在は風呂場なので、ショウたちも他の利用客も全裸である。持ち込める装備品と言えばタオル1枚ぐらいで、それ以外は完全に生まれたままの状態だ。肌の色や体格など、普段は布で隠されているものが露わになる。
そんな訳で、エドワードの彫像めいた肉体美も惜しげもなく晒されていた。普段から筋トレをしてばかりいるだけあって、彼の鋼の肉体は惚れ惚れするほど美しい。他の利用客もエドワードの筋肉に熱視線を注いでいた。
対するショウは、そっと自分の身体を見下ろしてみる。
貧相、あまりに貧相である。エドワードのように胸筋はないし、腹筋も割れていないし、どこもかしこもヒョロヒョロのガリガリである。鶏ガラと表現された方がまだいいかもしれない。
そっと自分の貧相すぎる胸板に手をやり、それからエドワードの立派な胸筋と見比べてみる。こっちが絶壁ならあっちは巨乳だ。精神を酷く削られる。
「エドワードさんと比べたら俺なんて爪楊枝……」
「え?」
「ショウちゃん、大丈夫だよ。オレも爪楊枝の仲間入りだよ」
色々と察したらしいハルアがそう呼びかけてくるが、
「ハルさんも裏切り者だから信用できない……」
「何で!?」
「自分の身体を見てから言ってほしい……」
洋服の上からでは分かりにくいが、ハルアもそれなりに鍛えられている。エドワードのようにバッキバキではないが、腹筋もそれなりに割れているし男らしく筋肉がある。見せる為の筋肉ではなく、動く為に特化した筋肉と言えようか。
ムッキムキなエドワードと比べると見劣りしてしまうが、それでもハルアは細マッチョと呼んでもいい部類だ。爪楊枝代表のショウでは太刀打ちできない。
頼れる用務員の先輩から手酷く裏切られたショウは、顔を覆ってシクシクと泣いてしまった。
「こんなお粗末な身体ではユフィーリアを魅了できない……貧相だって笑われてしまう……嫌われたくない……」
「そんなことないと思うけどねぇ」
「うん、オレもそう思う」
真剣な表情で頷くエドワードとハルアは、ポンとショウの肩を叩いた。
「大丈夫だよぉ、ショウちゃん。まずはたくさん食べて太ってからだよぉ」
「最近だとお腹のお肉もついてきたのですが……」
「その調子だよ!! ショウちゃんはつける為の筋肉がないんだから、まずは標準体重に戻すのが先決だよ!!」
「そうだろうか……」
「焦って鍛えてもいいことなんてないんだからねぇ。何事も時間が大切なんだからねぇ」
エドワードとハルアに励まされ、ショウはちょっと元気を取り戻した。せっかくの日帰り旅行を潰すところだった。
「俺ちゃんはぁ、ショウちゃんの長い髪が羨ましいけどねぇ」
「そうですか?」
「癖のない髪っていいよねぇ。艶々だしぃ、触ってて気持ちいいもんねぇ」
わしゃわしゃ、と洗髪剤で頭を洗うエドワードは、
「俺ちゃんは癖毛だから短くしてるだけだよぉ。伸ばしたら癖が出ちゃうからねぇ」
「それは知りませんでした」
「ハルちゃんは動く時に邪魔だから短くしちゃうけどねぇ」
「長いと引っかかったりするからね!!」
わしゃわしゃーッ!! と勢いよく洗髪剤で髪の毛を洗うハルアだったが、唐突に「目に入った!!」と騒ぎ始めた。髪の毛がモコモコとした泡で包まれているからか、洗髪剤が垂れて目に入ってしまったようだ。
隣のエドワードが「何してんのよぉ」と呆れながら、風呂桶に溜めたお湯をハルアの頭からぶっかけていた。おかげで頭のモコモコ泡はすっかり流され、ハルアの目も窮地を脱した様子である。
ショウも早速、自分の髪を洗おうと洗髪剤を手に出すと、
「お兄ちゃん、肌綺麗だねぇ」
「え?」
反対隣の洗い場を利用していた老人が、風呂場の熱気で赤く染まった顔をこちらに向けてくる。
濁った眼球が、ショウの薄い身体を舐めるように見回してきた。中途半端に抜け落ちた黄ばんだ歯がニィと歪んだ唇から垣間見え、皺くちゃになった指先をショウの太腿めがけて伸ばす。まさか触ってくる気か。大衆浴場で堂々と痴漢できるとはいい度胸である。
ショウの雪のように白い肌に老人の指先が触れるより先に、エドワードの太い腕が伸びて老人の手を掴んだ。
「お爺ちゃん、この手は何よぉ?」
「な、何だお前!! 離せ!!」
「離す訳ないじゃんねぇ」
容赦なく老人の手首を掴むエドワードは、ドスの効いた声で言う。
「係員に突き出してやろうか、え゛?」
「ひ、ひぃッ」
老人は顔を青褪めさせてエドワードの手を引き剥がそうと暴れる。
それでも体格差がある。見ての通り、エドワードは筋肉ムキムキの巨漢である。対する老人はショウに負けず劣らずガリガリで、腹だけが異様に突き出た典型的な樽腹となっていた。
爪を立てて手を引き剥がそうとする老人をヒョイと吊り上げたエドワードは、
「は、はな、離せ、離せ!!」
「大人しくしてないと浴槽に沈めンぞ」
「…………」
「はい、大人しいお爺ちゃんは好きよぉ。豚箱に叩き込まれたくなけりゃ抵抗しないようにねぇ」
大衆浴場の利用客による視線をものともせず、エドワードは不埒な利用者を引き摺っていく。「ハルちゃん、ショウちゃんと一緒に待っててねぇ」などと間伸びした口調で言いながら、彼は老人を連れて大衆浴場から撤退した。
「あのお爺さん、半殺しにされてないといいが……」
「ユーリに言ったら尻に氷柱を突っ込まれるどころの話じゃなくなるね」
「ご老体にはきつい拷問だ……」
エドワードが利用者の老人を半殺しにしないことを密かに祈りつつ、ショウは洗髪剤を髪に擦り付ける。鼻孔をくすぐる花の香りに、先程までの悍ましいやり取りが薄れていくような気がした。
《登場人物》
【ショウ】鍛えてもあんまり筋肉がつかないし、贅肉もつかない。体質ゆえである。
【エドワード】羨ましいことに鍛えれば鍛えた分だけ筋肉がつく。筋肉は裏切らない。
【ハルア】意外と鍛えられているが、鍛えても変わらなければ食べても変わらない。