第7話【叔父と義兄】
『お掛けになった番号は、現在使われていないか、電源が入っておりません。番号をお確かめの上、もう1度お掛け直しください』
スマートフォンから流れる電子音声は、そんなことを告げていた。
東蓮二は呆然と立ち尽くす。
薄暗いリビングにはゴミが散乱し、衣類も脱ぎ散らかし、パンパンに膨らんだゴミ袋が部屋の隅に山を築いている。見るも無惨に荒れ果てたリビングに、妻の桔梗が項垂れた様子で椅子に深く腰掛けていた。
先程まで繋がった通話が、途端に繋がらなくなった。しかも、繋がった先は死んだ兄がいる場所だと。
「……ねえ」
頭を抱えていた妻が、蓮二へ呼びかける。
「あいつはどこに行ったの」
「お、俺が知るかよ!!」
蓮二は「クソ!!」と悪態を吐いてスマートフォンをソファに叩きつけた。
今まで散々可愛がっていたのに、急に姿を消した甥。少し虫の居所が悪くて、殴り飛ばして家から追い出したら忽然といなくなってしまった。
財布も持たず、かろうじて身につけていたのは携帯電話だけだろう。型落ちのスマートフォンで、居場所をいつでも確認できるように位置情報アプリも仕込んだ。それはもう使い物にならなくなってしまったが。
どうしてこうなった?
「兄貴がいる? じゃあまさか」
甥は、死んだということか。
自分の知らない場所で、野垂れ死んだのか。
電話口で聞こえた強気な姿勢を崩さない甥の喋り口調は、丁寧ながらもさながら兄を彷彿とさせる凛とした印象だった。その声を聞いた蓮二は忌々しさに吐き気を催しながらも、どこか興奮していたのだ。
「違う違う違う違う違う違う違う違う……」
死んだのではない、どこかに消えただけ。いいや誘拐されたのだ。
鶏ガラのように痩せ細ってはいるが、整えれば見違えるほど綺麗になる。あの兄の血を色濃く受け継いだ子供なのだ、どこぞの馬鹿野郎が甥を誘拐したに違いない。
ああ、一刻も早く取り戻さなきゃ。愛しい兄の子供なのだから。
「兄貴……」
蓮二の視線は、棚に飾られた家族写真に向けられていた。
そこに映り込んでいたのは、綺麗な着物に身を包んで微笑む蓮二の母親だ。そして隣には黒髪赤眼の中年男性が顰めっ面で佇み、母親の肩に片手を添えている。母親の膝には幼い蓮二が座り、カメラ目線で笑いかけていた。
そして少し離れた場所に立つ、綺麗な少年。艶やかな黒髪と宝石の如き色鮮やかな赤い瞳、少女めいた顔立ちには能面を想起させる無表情が貼り付けられている。せっかくの家族写真なのに、今すぐ帰りたいと言わんばかりの態度だ。
東菊牙――蓮二の義理の兄であり、今も愛憎を抱く相手である。
(俺より優秀で、才能があって、周囲からの期待も高くて)
母親の再婚によって出来た義兄は、文武両道を地で行く人だった。
頭脳明晰、運動神経抜群、容姿端麗、品行方正。蓮二に持っていないものを全て授かり、それ故に憎んだ。こんな優秀すぎる兄と比べられて過ごす自分が惨めだった。
でも、同時に愛していた。いつかこの綺麗な義兄を組み敷いて暴いてやろうと考えていたのに、あっさりと恋人を見つけて結婚してしまうのだから余計に蓮二は狂った。
(だから殺したのに)
離れていくなら殺せばよかった。
あの綺麗で完璧な義兄を殺したのは、紛れもなく自分だ。
仕事の帰り道に歩いていた義兄を車で轢き殺した感覚は、今でも忘れていない。蓮二の全身にこびりつき、思い出すだけで興奮してしまう。
あの義兄を殺したのは自分だけだ。他の誰でもない、最期をこの手で作り上げたのは自分なのだ。
――ぴんぽーん。
間抜けな呼び出し音が家中に響き渡る。
「誰かしら」
妻が椅子から立ち上がり、インターフォンの受話器を取った。
「はい」
『宅配便でーす』
「今出ます」
何だ、宅配便か。
誘拐された甥が帰ってきたのかと期待したのだが、拍子抜けである。紛らわしい時間帯に訪れるなど、空気の読めない業者だ。
印鑑を握りしめて玄関に向かう妻の背中を見送り、蓮二は忌々しげに舌打ちをする。それからソファに叩きつけたスマートフォンを拾い上げると、
「ぎゃッ」
妻の短い悲鳴と、肉を叩きつけるような激しい打撃音。
玄関へ通じる扉の向こうから真っ赤な液体が飛び散り、妻の甲高い悲鳴が聞こえる。「たすけッ」だの「いやッ」だの耳障りな声だ。
やがて静かになったその時、外側から扉がゆっくりと開いた。薄汚れた家のフローリングを踏みつける血塗れの靴が見え、それから地面に届くほど長く伸ばされた艶やかな黒髪が蓮二の視界に映り込む。
顔面をボコボコに腫れ上がらせた妻を荷物のように引き摺るのは、髑髏のお面を装着した神父だった。装飾品のない神父服に痩身を詰め込み、胸元では錆びた十字架が揺れている。
「久しいな、蓮二」
耳朶に触れた、冷たい声。
神父は、顔面を覆っていた髑髏を取り外す。
その下から現れたのは、少女めいた顔立ちと赤い瞳。装飾のない神父服が相手の白い肌をより際立たせる。
そんな、どうして、ここに。
「あ、兄貴……」
蓮二は思わず尻餅をついてしまった。腰が抜けてしまったのだ。
死んだはずの義兄が目の前にいる。不吉な衣装を身につけた状態で、髑髏の仮面を装着した死神みたいな格好で、蓮二のことを地獄に引き摺り込もうと迎えにきたのだ。
思わず這いずって逃げようとする蓮二だが、
「逃げるとは何事かね」
「ぎゃッ」
顔面を蹴飛ばされた。
激痛が顔を中心に襲いかかる。鼻っ面に叩き込まれた義兄の足は、的確に蓮二の鼻を骨折させた。痛みで悶絶している蓮二の髪を掴み、義兄はさらに蓮二の顔面を殴る、殴る、殴る。
頬骨が痛み、歯が弾け飛び、顔中が殴られてボコボコに腫れ上がっても殴られ続けた。痛くて苦しくて言い訳も何も出来なくて、蓮二はただ股間を膨らませながら愛憎を抱く義兄からの暴力を受け続けた。
「気持ち悪い」
殴ることをピタリと止めた義兄は、顔中を腫れ上がらせた蓮二を解放する。顔が痛くて動くこともままならず、張り詰めた【自主規制】が今にも弾けてしまいそうだ。
ああ、これほど興奮できることがあるだろうか。あの殺してしまった義兄が、再び蓮二の前に戻ってきてくれたのだ。これ以上に幸せなことなんてない。今は自分だけを見てくれている!!
ゴミでも見るような冷たい視線を寄越してくる義兄は、
「まあ、これ以上は私の手が汚れてしまうからこの程度にしておこう」
義兄の足が蓮二の膨れ上がった股間を踏み潰し、
「この愚弟が。私の命よりも大切な息子に虐待をしてきたらしいな。その恨みは3度殺したところで晴れんぞ」
「ひ、はは」
「何がおかしい」
冷たい目をする義兄を見上げた蓮二は、
「息子、息子……そうだなぁ、いい声で鳴いたよ」
恍惚とした表情で義兄の足を掴み、
「だって兄貴は死んじまったから、代わりはあの息子ってのしかいねえんだからな!! 一生懸命に兄貴の真似をして俺のを」
「もういい、喋るな」
蓮二の腕を振り払った義兄は、今まで以上に冷たい瞳をくれていた。それがまた、蓮二を興奮させる為の材料でしかないのに。
馬鹿な義兄だ、今まで虐待の内容を知らなかったのか。
顔の似ている甥を、義兄に見立てることは蓮二の中では常識だった。憎しみを抱く義兄に似た甥を暴力で屈服させ、組み敷いて悦楽に浸った。あの義兄が涙を流しながら許しを乞うてくる姿を想像して、何度も何度も殴って蹴って虐待した。
その様子を語ってやろうと思ったのに、義兄は蓮二の側頭部に強烈な回し蹴りを叩き込んだ。
「少し眠れ」
――――ぷつんッ。
☆
次に目が覚めると知らない場所に放置されていた。
身体が動かないので、かろうじて視線だけを自身に向ける。
衣類はひん剥かれ、下着も取り払われて、生まれたままの状態で硬い地面に転がされていた。しかも全身を白く光る鎖が縛り付けており、猿轡を噛まされている。ついでに妻も同じような格好で、同じように光る鎖で締め上げられて、同じように猿轡を噛まされて放置されていた。
首だけを動かして周囲を見渡せば、
「起きたかね」
顔を覗き込んでくる、義兄の姿があった。
縮み上がるほどの無表情で、義兄は蓮二の腹を蹴飛ばしてくる。2度、3度と衣類という盾がなくなった贅肉だらけの蓮二の腹をただ無言で蹴飛ばしてきた。
胃液が込み上げてきて、堪らず猿轡の隙間から吐き出してしまう。汚い吐瀉物が蓮二の顔面を汚して不快感が増した。
「まあ、この程度で君を罰することにはならない訳だが」
義兄はそう言って、背後を振り返った。ちょうど誰かが来たのか、蓮二には見せない綺麗な笑顔を向ける。
「ああ、来てくれて助かる。ユフィーリア君」
「いきなり呼ばれて何だと思ったけど……いや本当に何だ、その、えーと、変態ども?」
義兄に笑顔を向けられたのは、銀髪碧眼の外国人みたいに綺麗な女だった。
透き通るような銀髪に色鮮やかな青い瞳、高級な人形を想起させる顔立ち。肩だけを剥き出しの状態にした特殊な形の黒装束を身につけ、雪の結晶が刻まれた煙管を咥えて蓮二に訝しげな視線をくれてくる。
何故、義兄がこんな訳の分からない女に笑顔を向けるのか。それだけで蓮二の腸は煮え繰り返りそうになった。
「これは私の愚弟だ」
「愚弟? ああ、ショウ坊の叔父ってあれか」
「いかにも。まあ、私とは血の繋がりはない訳だが」
義兄は綺麗な笑顔を浮かべて、銀髪の女の肩を馴れ馴れしそうに叩く。
「ユフィーリア君。身勝手なお願いだと重々承知しているが、彼らに終焉を与えてくれ」
「おう」
「理由は聞かないのかね?」
「大体理解しているからいいわ」
銀髪の女は、雪の結晶が刻まれた煙管を一振りする。
どんな手品を使ったのか不明だが、女の手には煙管から銀製の鋏が握られていた。螺子が雪の結晶の形をした、綺麗な銀色の鋏である。
その銀色の鋏をくるくると弄びながら、
「大方、ショウ坊の虐待に対する恨みを晴らす云々だろ」
「それもあるが、2度と私の前に現れてほしくないという理由もある」
「なるほどな」
銀髪の女は理解したように頷き、
「輪廻転生しねえもんな、終焉すると」
「それに、私の記憶からもこの愚弟に関する全ての情報は消え去る。輪廻転生もせず目の前から消えてくれて、私の記憶からも消去されれば一石二鳥な訳だが」
イキイキと話す義兄に、蓮二は絶望した。
兄の中から自分の姿が消える。記憶も消えてしまう。
愛する兄に覚えてもらえないのは、そんなの悲しすぎる。殴られる以上の拷問だ。
「ソイツはいいや、最高の拷問だな」
銀髪の女は爽やかな笑顔で応じ、
「じゃあ、断ち切っちゃお」
軽い調子で女は銀製の鋏で、蓮二の何かを断ち切った。
――シャキン。
意識が潰える。
手足の感覚がなくなって、この世界から消えていく恐怖心が襲いかかってくる。蓮二がこの世界から消えれば、兄の中からも消えてしまう。
そんなの嫌だ、嫌だ、嫌だ。
(兄貴…………)
――ぷつんッ。
《登場人物》
【蓮二】菊牙の義理の弟にして、翔とは血の繋がらない叔父。職業はトラックのドライバー。各地を転々と引っ越すが、外面だけはいいので甥を虐待していることに気づかれなかった。
【桔梗】蓮二の妻。職業は風俗嬢。菊牙に一目惚れをし、近付く為に蓮二を利用することにした。しかし当の本人はあっさりと恋人を見つけて結婚してしまったので、少しでも近づく為に蓮二と結婚を果たす。
【菊牙】指定暴力団『東家』次期当主。つまり若頭。義弟のことは鬱陶しいゴミとしか認識していない。愛する妻との間に生まれた息子を溺愛している。
【翔】菊牙の息子。父親が死んだ事で本来なら祖父である『東家』現当主に引き取られるはずが、葬式のどさくさに紛れて義弟の蓮二に連れていかれる。つまり誘拐された。誘拐された果てに虐待まで受けたが、叔父夫婦がこの世から永遠に消えたことを彼は知らない。