第1話【問題用務員と猫化変身薬】
突然だが、もふもふがほしい。
「あー……」
ユフィーリアは写真集を眺めながら、誰もいない用務員室でため息を吐いた。
エドワードとアイゼルネは購買部へ買い物に出かけ、ショウとハルアは副学院長の設計・開発したドラゴン型魔法兵器のロザリアと遊びに行ってしまった。この場にはユフィーリアただ1人だけであり、非常に平和な時間がヴァラール魔法学院内に流れている訳だ。
暇や退屈が嫌いなユフィーリアは自分だけ取り残されたことに若干の不満を覚えたが、最近買ったばかりの写真集を読んでいないことに気づいて表紙を開いた次第である。題名は『ねこねこ☆ぱらだいす』である。
あとはお察しの通りだ。
「もふもふー……」
左右の頁はどこを切り取っても猫、猫、猫だらけである。黒猫に白猫、ぶち猫にさび猫、長毛種から短毛種に毛の生えていない猫までたくさんだ。この世の猫の天国である。
ユフィーリアは猫好きである。犬か猫のどちらが好きかと問われれば、かなり熟考した上で猫と答えるぐらい猫が好きである。いや犬も好きなのだが、猫の方に軍配が上がっているのだ。
日々の問題行動のおかげで学院長のグローリア・イーストエンドから説教され、精神的に疲れている時にこの猫の癒しは最高である。猫の愛くるしさは人間にはない癒しがある。問題行動で説教に関しては完全に自業自得だが、そこは棚上げだ。
デロンデロンに蕩けた表情で「かぁわいいー」と呟くユフィーリアは、
「いいなー、猫触りてえなァ。出来れば長毛種の可愛い猫がいいなァ」
可愛らしく動き回る写真の猫たちに魅了されるユフィーリアは、雪の結晶が刻まれた煙管を咥えて「よし」と頷く。
いなければ、作ってしまおうじゃないか、可愛い猫。
ここはヴァラール魔法学院、魔女や魔法使いを養成する世界最高峰にして唯一無二の教育機関だ。加えてユフィーリアは魔法の天才とも称される魔女である。猫に変身する魔法も魔法薬の調合方法も当然ながら頭の中にある訳である。
「早速、魔法薬学実践室に行って……」
準備するのは猫化する魔法薬だ。
☆
今日は誰も利用していないのか、魔法薬学実践室は無人の状態だった。
雑な文字で『用務員の使用を禁ずる』などという内容の張り紙が存在する扉を魔法で遠慮なく開け、ユフィーリアは薄暗く埃っぽい臭いの室内に足を踏み入れた。
広々とした教室に置かれたのは机ではなく、使い古された大釜である。基本的に魔法薬学の授業は魔法薬の調合を学ぶので、調合方法を記録する為の筆記用具は必要だが机を必要とはしない。全て魔法で解決すれば問題はないのだ。
壁沿いに設置された棚には腐敗防止の溶液に漬け込まれた眼球や脳味噌などが並べられており、他には魔石などの綺麗な鉱石や枯れた草花などが瓶に詰め込まれている。これらは全て魔法薬の材料になるのだ。
「ね、ね、猫っと。猫化の魔法薬」
誰もいないのをいいことに自作の歌を口ずさみながら、ユフィーリアは慣れた手つきで棚から魔法薬に使われる材料を取り出していく。
髭のようなものから茶色く萎んだ花、桃色に光る鱗粉など様々な種類の材料が集まった。瓶に入った状態で台座に並べ、ユフィーリアは大釜の前に立つ。
雪の結晶が刻まれた煙管を一振りすれば、大釜の下に青色の炎が灯った。それから魔法で水を大釜の中に投入してから、沸騰するまで待つ。
「まずはこのアネロギーの花をすり鉢に」
ユフィーリアが最初に取った材料は、茶色く萎んだ花である。見た目は百合の花に似ているが、花弁の中心から突き出た触手のような部分がうねうねと波打っている。
アネロギーの花は崖などの危険な場所に生える魔法植物であり、採取が極めて面倒だ。変身系の魔法薬を作る際に必ず投入される素材で、枯れていない状態であれば花弁がまるで鏡のように煌めいているのだ。
ただ、ちゃんと生きている状態のアネロギーの花は触れただけで気が狂うほどの痒みに襲われるので、使用する際は絶対に萎んだ状態で使わなければならないのだ。
「押し潰してー」
すりこぎですり鉢に放り入れたアネロギーの花を魔法で押し潰しながら、ユフィーリアは大釜の状態を見る。
「お、良い感じに沸騰してきた」
大釜の中に投入された水は熱され続けてお湯となり、表面がグツグツと沸騰していた。ちょうどいい頃合いである。
ユフィーリアは続いて髭のようなものが詰め込まれた瓶を手に取ると、中身を1本だけ取り出す。
今回調合する『猫化変身薬』に必要な猫の髭である。種族を指定したい時はその該当する相手の身体の一部分が必要になるのだが、今回は種族を指定しないので特に選ばずに猫の髭を使うことにする。
猫の髭を使えば、この魔法薬をぶっかけた相手を「まあ変身したらこんな感じだろうな」って感じの猫にしてくれるのだ。長毛種でも短毛種でもいいのでとにかく猫をもふもふしたい。
「猫の髭を投下っと」
グツグツと煮える大釜へ猫の髭を投入し、ユフィーリアは「次に」と桃色に輝く鱗粉の瓶を手に取った。
「桃色ムカデの足の粉末をパラパラっと」
変身薬の類は変身した相手の感情や本能などに引き摺られやすいのだが、それを防ぐのが桃色ムカデの足の粉末である。この材料は着付け薬などにも使われるものなので、匂いを嗅いだだけでも我に返るほどの強烈な臭いだと聞く。
実際に臭いを嗅いでみたが、吐きそうなほどの悪臭が残った。「おえッ」とちょっと吐きそうになった。何だったら口から出たかもしれない。
それからユフィーリアは他にも様々な材料を消えた大釜へ投入し、最後にアネロギーの花を潰して粉末にしたものを大釜の中に入れた。様々な材料が煮込まれた大釜の中身は、綺麗な橙色になっていた。
「〈混ざれ〉〈混ざれ〉〈等しく〉〈混ざれ〉」
ユフィーリアは大釜の上に雪の結晶が刻まれた煙管を翳し、くるくると大きく円を描くように回す。
煙管の動きに合わせて、大釜の中身がぐるぐるとかき混ぜられていく。
橙色の液体の中心に渦が出来て、見ているだけで引き込まれそうだ。ユフィーリアは天才なので「引き込まれました」など言い訳をして魔法薬の中に飛び込まないが、毎年新入生がそんな事件を起こすという話を聞いたことがある。
「〈境目はなく〉〈境界は曖昧に〉〈等しく〉〈混ざれ〉」
呪文を受けた魔法薬の色が、徐々に黄色へと変化していく。
「〈猫に変身〉〈薬品の対象者の容姿で判断〉〈猫へ変換〉〈自我はあり〉〈猫の言葉を喋り〉〈猫らしく猫であれ〉」
猫化の魔法薬に必要な呪文を唱えるユフィーリアは、
「〈時は1日〉〈日没まで〉〈猫の時は終わる〉〈制限を設定〉」
忘れてはならないのが、この時間設定である。ちゃんと時間を設定しないと、また解除薬が必要になってしまうのだ。もうあの腐れ狐に頭を下げるような真似はしたくない。
「〈混ざれ〉〈混ざれ〉〈等しく〉〈混ざれ〉」
次の瞬間だ。
――ッぽん!!
可愛らしい肉球の形をした煙を吹き上がらせ、魔法薬は檸檬色をした状態で完成した。これにて猫化変身薬の調合終了である。
ユフィーリアは魔法薬を飲用する際に使う試験管に檸檬色の魔法薬を注ぎ込み、軽く揺らしてみる。
色の変化もなければ匂いも悪くない。ちゃぷちゃぷと試験管の中を檸檬色の液体が揺れているだけだ。揺らした瞬間に色が変化したら失敗である。
「成功成功っと。いやー、あとは」
ユフィーリアは試験管に栓をしながら、
「誰を犠牲にするかな」
自分自身に癒しを与えてくれるということであれば、可愛いお嫁さんでありみんなのアイドルな女装メイド少年のショウにやってもらえばいい。自我を消すことはしていないので、猫の状態で可愛く甘えてくれるはずだ。
ただ最近、彼の好意が何故かちょっと怖い。普段はそんなことないのだが、下手なことをすれば手錠と足枷を持って迫ってきそうな勢いで怖いのだ。彼を変に猫化すれば、おかしなことが起きる可能性が高い。
絶対にやってくれそうな人物の選択肢を真っ先に外し、ユフィーリアは「あ、そうだ」と思いつく。
「グローリアにやってもらおう。アイツこの前変なお菓子を差し入れしてきたから」
以前、学院長のグローリア・イーストエンドから紅茶入りのクッキーを貰ったのだが、それが大層微妙な味だったのだ。美味しくもなければ不味くもない、手放しで称賛は出来ない代物だったのだ。
どうやら贔屓にしている貴族から貰ったお土産らしいのだが、何か怪しいブツが入っていそうだったので問題児であるユフィーリアたちに押し付けたのだとか。ふざけないでほしい。
ユフィーリアは悪魔のような笑顔で試験管を片手に学院長室へ向かおうとするのだが、
「お」
つるん、と。
華麗にその場で足を滑らせてしまった。
背中から倒れ込んだユフィーリアの後ろにあったのは、猫化変身薬が揺れる大釜である。
「ゔぁあああああッ!!」
火を止めていたからまだよかったが、大釜をひっくり返した影響で全身に魔法薬を被ってしまう。
ただでさえ苦手な魔法薬の味が口の中に入り込んできて、思わず「おえッ」と嗚咽を漏らしてしまう。本当に不味い。
ガランガラーン、とひっくり返った大釜が盛大に音を立てる。大量に出来た魔法薬が床に広がっていき、染み込んでいく。
「んー……」
モゾモゾと起き上がったユフィーリアは、
「…………にゃ?」
自分の手を見て、首を傾げる。
何か縮んでいる上に、もふもふの毛で覆われている。桃色の肉球もあった。
目の前には自分が今まで着ていた黒装束が塊のように脱ぎ散らかされていて、ふわふわの意味不明なものが視界の端に入り込んでくる。動くとそのふわふわのものまで動くので、おそらくあれは尻尾だ。
これは、もしかして。
「にゃにゃーッ!?」
慌てて立ち上がろうとするも上手くいかず、ふわふわの毛で覆われた手でぽんと濡れた床を叩く。
こんな異常事態でも魔法は使えるのか、ユフィーリアの目の前に氷で出来た鏡がメキメキと作られた。姿見程度の大きさで、表面がつるりとした氷はユフィーリアの現在の姿を映し出す。
そこにいたのは白い猫だった。純白の長毛種でふわふわの尻尾を揺らし、桃色の可愛い鼻と青い瞳が特徴的な愛らしい猫だ。
ぺたりと肉球となってしまった手で氷の鏡に触れたユフィーリアは、
「にゃにゃにゃー!?」(何でだああああ!?)
にゃーん、という絶叫が無人の魔法薬学実践室に響き渡った。
《登場人物》
【ユフィーリア】犬派か猫派かと問われればかなり迷った挙句に猫派と答える魔女。猫ならどんな種類でも好きだが出来れば長毛種を思う存分にブラッシングしてやりたい。この度めでたく猫になりました。何でや。