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メモリーオブペイン

一つ目の記憶 -忘却したこと-

作者: 狐囃子 星治

 町の大通りから少し外れた小道の先にその店はあった。

 明かりの乏しい店内には用途の分からない古物が並べられ、計らずも怪しい雰囲気を醸し出していた。

 その影響のためか立地のせいか、客が中に入ってくることは稀で、さらに品物を買っていった者など今までで両手で数えられる程度しかいなかった。

 カラン、カラン。

 「失礼します」

 そんな店に来訪を告げる鐘を鳴らして入ってきたのは少しやつれた様子の女性だった、本来ならばもっと美しい人なのだろう。

 また服装や装飾から身分がそれなりに高いことはすぐ察する事が出来た。

 「ようこそ、店主のメルルと言います。本日はどのようなご用件で」

 会計台に座り眠るようにジッとしていた少女は立ち上がり軽く会釈をした。

 「どうもご丁寧に、わたくしはマーニュと申します。あの、こちらでトラウマを治して頂けると聞いたのですが」

 女性は信じきれていないようだったが、同時に真実であってほしいという思いが声に込められていた。

 「半分は正解ですね」

 「と言うと」

 「私ができるのはトラウマの原因を見つける事と、解決の手伝いです。各々どのようにトラウマと向き合うのか、受け入れるのか塗りつぶすのか、それとも……。全てはお客さんが決める事なので」

 メルルは店の奥に作られたテーブル席にマーニュを案内し、二つのグラスに小麦色のお茶を入れて向かい側に座った。

 「話を聞きましょう」

 マーニュは頷くとお茶で唇を湿らせた。

 「わたくしには三年前に結婚した夫がおり、平穏な毎日を送っていました。それが先日、夫が友人から頂いたティーカップをうっかり割ってしまい、とっさにそれを隠してしまったのです。気が動転していたのでしょう。夫はわたくしの様子がおかしいと思ったようで問い詰めました。嘘は昔から苦手ですぐに見抜かれ、とても怒られました。当然の事ですね」

 そこで一度区切り「それから、わたくしは夫が恐ろしくなりました」と続けた言葉は震えていた。

 「とても優しい方なのは分かっています。わたくしが信頼を裏切ってしまった後でも夫は変わらず愛してくれています。それが分かっていても近くにいるだけで震えが止まらなくなるほど怖いのです。……このままでは夫に迷惑をかけてしまいます。どうか助けてください」

 怯えたその目には、同時にすがるような思いが込められていた。

 メルルは頷いた「良いですよ、でも私が出来るのは手伝いだけです。先ほども言いましたように」

 どこからか駆け寄ってきた黒い猫をメルルが抱き上げると、マーニュの目の前に広がる景色に突如として亀裂が入り、割られたガラスのように崩れ始めた。


 「それでは、深淵の記憶へ出かけましょう」


 * * * * * *


 マーニュは気が付くと小さな部屋の使い古されたベッドの中にいた。

 体を上げて視界に入るのは、すり減った絨毯とギッシリと本の詰め込まれた棚、ベッドの脇にある机や椅子は使い古されて傷だらけだった。

 「おはようございます」

 背を向けたまま声をかけたメルルは部屋の中の物を見て回っていた。

 棚の本はいくつか取り出すことができたが、表紙と紙がぴったりとくっついているようで開けず、他のほとんどは棚に書かれた絵のようで掴むことすらできなかった。

 「ええと、ここは何処でしょう……」

 「夢の中です、正確に言うなら夢を利用して汲み上げられたお客さんの深層記憶。ここはその中でも特に深く沈められている、トラウマの原因とかかわりの深い記憶です」

 マーニュは説明に納得し、改めて部屋を見回した。

 「ここは、わたくしが幼い時に過ごした自分の部屋です。たしか……棚の本は少しだけ手に取ってみたことがあるけれど、とても難しいことが書かれていたので、すぐに戻していたような気がします」

 ベッドから降りてところどころボヤケテいる本の背表紙をなぞり、幼き日のことを懐かしんだ。

 窓から見える外は真っ暗な闇に閉ざされているが不思議と部屋は明るく、また少しだけ温かい空気と花の香りが窓の隙間から入り込んでいた。

 「でもおかしいですね。それほどの衝撃をうけた記憶など無いのですが」

 「原因となる記憶の殆どは心を守るために固く閉ざされているのです。心に負った傷が深ければ深いほど、厳重に封印され意図して思い出すことは難しくなります。そして何かの拍子にその傷の影響がでたり、突如として断片的に思い出されたりするのがトラウマです」

 「お客さんの場合は前者ですね」といってメルルは部屋に一つだけある扉に手をかけた。

 その瞬間に部屋全体が小刻みに震え、建物のきしむような音が四方から響いた。

 扉から手が離されると揺れや音は収まり、再び部屋は静寂に包まれた。

 「どうやら開けたら“始まる”ようですね」

 「な、なにが、ですか」

 「トラウマの記憶が、ですよ。心の準備をお願いします」

 突然のことにマーニュは困惑した。

 思い出せないのに準備などできるはずがない、そのうえ震える体や恐怖を抱く頭がこれ以上は思い出してはいけないと大音量で警告を発していた。

 「……一つ、お聞きしてもよろしいですか」

 メルルは「どうぞ」とマーニュの方を見てたいった。

 「トラウマを乗り越えられなかったら、わたくしはどうなるのでしょう」

 「何も変わりません。目を覚ましたお客さんには、ここの記憶は残らずトラウマに悩まされ続けます。もちろん望むのであれば、今からでも目覚めることはできますし、再び厳重に封印して再発しないことを祈る日々を送ることもできます。どれを選んでもここでやっていることの記憶は残りません」

 真実だけを述べた言葉には何一つとして気遣いのようなものはなかった。

 マーニュが欲しかったのは一言の励ましの言葉だったが、トラウマの原因を前にしたときにそれがどれほど無意味で無力なのかをメルルは知っていた。

 だから嘘偽りのない真実だけを言うようにしていた。

 頭の中に浮かんでくる嫌な感情を抑え、緊張した面持ちでマーニュは自ら扉の前に立った。

 「お願いします」

 メルルは言葉が終わると同時に取っ手を掴み内側へと引いた。

 きしみながら開いた扉の向こう側には窓の外と同様の一色の闇が広がっていた。ただ一つ違うのは、こちらからは薄ら寒い不快な冷気が漂ってきていた。

 マーニュが一歩前に踏み出そうとしたとき、何も見えない闇の中から突如として伸びてきた手が強く頬を叩いた。

 続いて部屋に長身で白髪交じりの紳士が杖を突いて入り、軽蔑するような目でマーニュを見下ろして、もう一度叩いた。

 『お前は最低な娘だ』

 紳士は低く厳格な声で叱責した。

 『お前がやったことは町のドブ川に住むネズミよりも汚らわしい行為だ』

 決して怒鳴っているわけでもないのに声は部屋を震わせた。

 己の封じた記憶と対面したマーニュは、ただ怯えた顔で紳士を見上げていることしかできなかった。

 『こんな時ばかりは何も言わないのか。お前は私の信頼を踏みにじっておきながら、黙っていれば嵐は過ぎ去っていくとでも思っているのか』

 怒りを膨らませた様子の紳士は、今度は杖でマーニュの体を叩き始めた。

 何度も、何度も、何度も。

 叱責と蔑みの呪詛を繰り返しながら紳士の手が止まることは無かった。

 「……んさい。ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 マーニュは頭を守るように抱えてうずくまり、消えそうな声で繰り返した。

 『それだけか、お前の口はそんなことを言うためだけについているのか』

 「お願いです。もう、二度としませんから。言うことだってちゃんと聞くし、迷惑になることもやらない。いい子になるから許してください。お父様――」

 『ダメだ。ダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだ』

 恐怖に染まった目で見上げられた紳士は、壊れた機械人形のように不規則に首を何度も横に振り、先ほどよりも更に力を込めて杖を振り下ろした。

 “カン――。”

 メルルがいつの間にか持っていた杖で床を強く叩くと、その瞬間に紳士の姿は初めから無かったかのように霧散し、うずくまるマーニュの体にできたアザも消えてなくなっていた。

 「大丈夫ですか、お客さん」

 「……わたくしは」

 虚ろなマーニュの耳にメルルの声は届いていなかった。

 「わたくしは、悪い子なんです。大好きなお父様が大切にしていた本を勝手に外に持ち出した……、そして川に落ちたんです。知り合いの子と本の取り合いになって、それで勢い余って落ちてしまって。私は怒られるのが怖くて本を隠しました。でもお父様はとても頭が良かったから、すぐに私のしたことに気が付いて……。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――」

 感情の失われた顔から涙が流れ、話す声はうわ言のように抑揚が無かった。

 数えきれないほど謝罪の言葉を繰り返し次第に感情が戻ると、今度は瞳から涙がボロボロと溢れだした。

 「お客さんはどうしたいですか」

 そんなマーニュにメルルは容赦なく迫った。

 トラウマを作ったこの記憶を受け入れるか、放り出すか、塗りつぶすか、それとも封じるか。

 張り裂けそうな思いの中、こんがらがった頭で考え出された答え。

 「わ、わたくし、は――」

 マーニュの消え入りそうな声をメルルは聞き届けた。


 「目覚めの時間です」


 * * * * *


 閑古鳥が鳴く店の、少しだけ開いた窓から黒猫は入ってきた。

 「お帰りクロア」

 「やはり流行りの品も置かなきゃダメだな」

 黒猫は会計台で眠たそうにしていたメルルの言葉を無視し、開口一番に容赦なく言った。

 「えー、嫌だよ。最近のキラキラした物は苦手なんだ」

 「そんなこと言ってられる経営状況じゃないだろ。俺はともかく、お前は多少なりとも食わなきゃ生きていけないだろうが」

 「でも流行りの物を置いたからって、この立地の悪さじゃ意味ないんじゃないかなぁ」

 「やってみなきゃあ分からないぞ。だいたい、いつもお前は――」

 カラン、カラン。

 平行線をたどる予定だった経営方針の議論は来客を告げる鐘の音で中断された。

 「失礼します」

 「ようこそ、店主のメルルと言います。……本日はどのようなご用件で」

 「あの、こちらでトラウマを治して頂けると聞いたのですが」

 そう言って少しやつれた様子の女性は帽子を脱いだ。

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