032 良かった。その方が私も、気が楽だから
給食の後の昼休み、音楽教官室の前で手鏡を覗き込みながら、一刀斎は髪を大雑把に整えていた。
(こんなもんかな……)
髪を整え終わった一刀斎は、手鏡を内ポケットに仕舞い込む。
深呼吸して気持ちを落ち着かせた後、一刀斎は音楽教官室の扉をノックする。
「どうぞ」
アルト気味の声が、ノックに応えた。藤那の声である。
一刀斎がドアを開けて中に入ると、授業や部活で使用される、楽器や道具などが収納された棚、そして棚には納まらないので、床に置かれている大きな楽器や譜面台など、様々な物が一刀斎の目に映る。
音楽教官室は、音楽教師用の部屋ではあるのだが、音楽の授業や部活で使用される、楽器や道具の倉庫も兼ねた部屋なので、色々な物が置かれているのだ。
そんな音楽教官室の奥……窓の近くに置かれた、本棚の前にいた藤那が、一刀斎の方を振り向いて微笑んだ。
「御免ね、大事な昼休みに、呼び出したりして……」
室内に置かれた物を避けつつ、一刀斎は藤那に歩み寄る。
「いいですよ、どうせ暇なんで」
本来は遊びに費やされる筈の、大事な昼休みなのだが、今の一刀斎にとっては、藤那を手伝う事の方が、遊びよりも遥かに魅力的なのである。
「用事って……何ですか?」
問われた藤那は、一刀斎に歩み寄る。
「手伝って欲しい事があるの……鬼宮君にね。お願い出来る?」
少しきつめの香りが、一刀斎の嗅覚を刺激する。
何時もの香水と香りが違うなと、一刀斎は思う。
普段、藤那が愛用している、爽やかな柑橘系の香水は、セレーネという香水なのだと、一刀斎は以前、藤那に聞いた事があった。
今、藤那が漂わせている香りは、麝香に近い妖し気な感じで、爽やかさとは無縁である。
違うのは、香りの種類だけでは無い。
香りの強さも、普段とは明確に違っていた。
普段の藤那は、近くに寄ると僅かに香る程度にしか、香水をつけない。
でも、今の藤那は、近くに寄るよりも前に、はっきりと一刀斎に香りを意識させる程、強い香を身に纏っていたのだ。
「どうぞ、何でも頼んで下さい!」
「そう、良かった」
「――香水、変えたんですか?」
一刀斎は、気になる香りについて、素直に尋ねてみた。
「分かる? 今日のは特別製なの……特別な日だからね」
藤那は、一刀斎の目の前に立った。
藤那の身長は、一刀斎より二十センチ程高いので、一刀斎は見上げる形になってしまう。
「鬼宮君のお父様って、魔法少女の鬼宮惣左衛門なのよね?」
一刀斎は、こくりと頷く。
何故、そんな周知の事実を、今更になって確かめる様に、藤那が問うたのか、少しだけ不思議には思いつつ。
「魔法主義革命家達の手から、日本を守った魔法少女が、お父様だなんて……凄いね。友達とか、羨ましがるんじゃない?」
「そんな事、無いですよ。親父が女の子の格好でテレビとか出たりすると、色々と言ってくる奴もいるし」
「そういえば、今朝も校門で揉めてたけど、それが原因?」
「――見てたんですか?」
「刃向先生と一緒に、職員室の窓からね」
「あいつが朝っぱらから、親父の事で、色々言ってくるから、つい……」
暴力を振るった場面を、藤那に見られていた事に、一刀斎は気まずさを覚え、苦笑いを浮かべながら、言葉を続ける。
「親父が魔法少女なんかやってると、羨ましがられるどころか、嫌な事ばかりですよ」
「嫌な事ばかりって事は、一つじゃないんだ。他にも何か?」
藤那に問われた一刀斎の頭に浮かんだのは、警備隊の存在だった。
「魔法少女の家族を、テロから守る為だとかいう理由で、警備隊の人達が警備してくれてるんだけど、あれも正直……監視されてるみたいで、嫌ですよ」
警備隊員達は、上手く自分達の存在を隠して、鬼宮家の家族を警備している。
しかし、武術家の一族である鬼宮家の人間達は、並の人間よりも視線に鋭敏。
その鋭敏さ故に、なるべく迷惑にならぬ様に気遣いながら、警備している警備隊員達の視線と存在を、明確に察知してしまうのだ。
特に、惣左衛門に次いで、鋭敏な感覚を持つ、一刀斎の場合は……。
「警備の人達、今も鬼宮君の事、監視してたりするのかな?」
「警備の連中、学校の中には入って来ないから、今は監視されてないと思うけど」
「やっぱりね……」
藤那は、思った通りだと言わんばかりに、小声で呟いた。
「お父様の事で色々言われたり、警備が付きまとうのが嫌だって事は、お父様が魔法少女やってる事……鬼宮君は嫌なの?」
少し躊躇いがちに、一刀斎は領いた。
「良かった。その方が私も、気が楽だから」
そう言うと、藤那は一刀斎の鳩尾を狙い、肘打ちを放った。
間合いが密着している上に、速くて鋭い肘打ちであり、普通の人間だったら、急所である鳩尾を突かれ、確実に一撃で、気を失っていただろう。
しかし、一刀斎の動態視力と反射神経……体術は、並の人間のレベルを、遥かに超えていた。
藤那の右肘が鳩尾を捉える直前、一刀斎は身体の右側を後退させ、肘打ちを逸らす。
同時に、左手で藤那の右手首を掴み、一刀斎は関節を極めようとする。
藤那を攻撃しようと考えての行動ではなく、攻撃を受けた為、反射的に身体が動いてしまったのだ。
一刀斎の意図を先読みした藤那は、一瞬で右手を引き戻しつつ、身体を高速で回転させ、強烈な後ろ回し蹴りを放つ。
長身の藤那が放つ回し蹴りは、当然の様に間合いが広い。
後方に飛び退いて、何とか蹴りの直撃をかわした一刀斎は、壁を背にして、防御の為に身構える。
一刀斎の表情は、驚きと焦りが入り混じっている。
突然、藤那が襲い掛かって来た事に、驚いた一刀斎は、頭の中が混乱したまま、藤那に問いかける。
「いきなり、何するんですか?」
藤那に襲われた事にも驚いたのだが、藤都の武術の技量の高さにも、一刀斎は驚いていた。
藤那の繰り出す技の、鋭さと速さは、並の格闘家や武術家のレベルを、遥かに超えていたのだ。その事が、一刀斎には信じられなかった。
一刀斎が藤那と知り合ってから半年弱の期間、藤那は一切、自分が武術に通じている事を、一刀斎に気付かせなかった。
つまり、藤那は一刀斎に対し、完璧に自分の実力を、隠蔽していた事になる。
敵の実力を知る能力が、戦いにおいて重要であるのは、孫子の兵法にも記されている、戦いの基本。
逆に言えば、自分の実力を完璧に隠す能力も、重要だという事になる。実力者である程、自分の実力を隠す技術に、長けているのだ。
一刀斎に対し、完璧に実力を隠し通した事実は、藤那が相当な実力者である、証と言える。
無論、藤那が放った技を見ただけで、一刀斎には藤那の実力の高さは、察せられたのだが。