スパゲティ・ボロネーゼ
王国騎士団の執務室には重苦しい空気が流れていた。その空気の発生源は、史上最年少で騎士団入りを果たした稀代の剣の使い手、アレックス・クラフだった。その彼は今、有休をとった分、仕事の穴を書類整理で埋めなければならなかった。しかし、その表情が暗いのは山のような書類の数のせいではなかった。なにせ、想いを寄せている者に、その好意が欠片とも伝わっていないからだ。直接的に言っても、プレゼントという小道具を使っても、この想いは一向に伝わらなかった。もはや、どうしたらいいのかわからず、険しい表情のままアレックスは髪をぐしゃりと片手でかき混ぜた。形の良い唇の隙間からはギリリと不穏な歯ぎしりの音が聞こえている。そのただならぬ空気に、騎士団の者達は不安げにちらちらとアレックスに視線を送っている。しかし、その険しすぎる顔に声をかけることができないでいた。悩みぬいた末に、アレックスの胸にようやく答えが落ちた。エマに好意が伝わらず、誤解させてしまっているのは、わかっている。しかし、何もしないでいては埒が明かない。アレックスは決意に満ちた表情で書類の山と向かい合った。なるべく早くに、この仕事を終わらせてエマに会いに行こう。そして、伝わるまで何度だって想いを告げよう。
結局、エマの家に行けるようになったのは、とっぷりと日が暮れてからだった。夜に未婚女性の家を訪れる非常識さをアレックスはわかっていたが、それでもエマの所に向かった。扉を開ける前から何やら良い香りが部屋の中から漂ってくるのが分かった。酸味のある深い香り。これはトマトだろうか。少し戸惑いながらも、扉を三度叩く。やがて扉が開かれ、エマが顔を出した。何故だかわからないが、妙に座っている目をしている。どうして彼女が決意に満ちた表情をしているのかはわからないが、思っていたよりもすんなり部屋に通された。手土産として買った焼き菓子の詰め合わせを渡そうとしたら、くっ、物で釣る気ですか、などとよくわからないことをぼやきながら警戒心丸出しの顔で押し返された。これは今までの料理の礼だ、言って再度彼女の手に持たせた。妙に座っている目は変わらないが、唇の端が緩んでいる。どうやら喜んでもらえたようだった。エマは料理を作るのが好きなようだから、贈り物は華美な装飾品より菓子のほうがいいだろうと考えて正解だったようだ。
「……晩御飯、食べましたか、騎士様?」
「晩御飯?いや……まだ、だな。」
仕事を終わらせるなり、エマの家に走ったのだ。そのような暇はなかった。そう答えると、何故かエマの目が不穏に輝いた。
「うちで食べていきませんか!?」
「え、いや……。」
「大丈夫です!!今日は前と違って、自信作ですから!!」
食い気味なエマに若干戸惑いつつも、相手の厚意を無下にするわけにもいかないと、アレックスはわかった、と頷いた。エマは顔を輝かせるっと、勢いよくキッチンに向かって駆けだしていった。やがて運ばれてきたのは、ごろごろした具入りの赤いソースのスパゲティだった。スパゲティなら食堂でも頼むからなじみがある。しかし、目の前にある物は、食堂のトマトソースに野菜かすが入っているだけの物とは違い、細かく刻まれた野菜や肉が入っている。エマに促され、フォークを手に取り、くるくると麺を絡めるとさっと口に運んだ。途端にガツンとしたコク深い渋みと、トマトの爽やかな酸味が舌を襲った。ガーリックの風味が口内に豊かに広がる。具を噛みしめれば、野菜の甘みとじゅわりとした肉汁があふれ出す。雑味などはなく、焦げないように丁寧に炒められた野菜なのだとすぐわかった。表面が少しざらついている麺は、風味豊かなトマトソースとよく絡み、するりと喉を通り抜けていく。エマは向かい側の席に座り、じっとこちらの反応を伺っているが、空腹であったため、こうなったら、食べ終わるまで止まらなかった。やがて、皿いっぱいに盛り付けられていたスパゲティはすぐになくなってしまった。アレックスは吐息を漏らした。
「とても、美味しかった。」
心の底から噛みしめるようにして言うと、エマはキランと目を光らせた。若干得意げに小さく胸を張っている。
「ふふふ……今日のスパゲティ・ボロネーゼは、かなり気合入れて作りましたから。」
「そうか……これは、スパゲティ・ボロネーゼなのか。おれの知っている物とはずいぶん違うから驚いた。」
「ワインもずっととっておいた年代物のいいやつ使いましたし、野菜もお肉も今日とれたての新鮮な奴だし、パスタは生麺使いました!!」
さらに得意げにエマは胸を張った。いくら良い食べ物であっても、エマの料理の腕が無ければここまで美味しい物にはならなかっただろう、と思ったが得意げにしているエマが微笑ましく言葉を飲み込んだ。唇を緩めながらエマの様子を見ていると、彼女はずずい、と身を乗り出してきた。
「どうですか?私の料理への情熱わかってもらえました?」
鬼気迫る迫力である。若干ではあるが目が血走っている。アレックスはようやく理解した。エマは自信作の料理を食べてもらうことによって、騎士の勧誘を諦めてもらおうと思っているのだ。アレックスはエマに向き直った。
「エマ殿の料理への情熱は十二分に伝わったし、理解もした。」
ぱっとエマの顔が明るくなった。だが、とアレックスは言葉をつづけた。
「エマ殿にも知っておいてほしいことがある。その……惚れているんだ。」
さっとエマの顔色が変わった。しかし、ここで言葉を止めずさらに畳みかける。彼女が言葉を発する前に言わなければならない。
「凛々しい姿を一目見た時から、心を奪われてしまった。」
だから、交際を……と続けようとしたが、エマが突然勢いよく立ち上がったことによって言葉は宙に消えてしまった。バターンと椅子が床に倒れてけたたましい音をたてたがエマはそんなのお構いなしだ。
「私の剣術に惚れ込んでいただいたのはわかりました!!」
「エマ殿、話をき」
「でも、私、この程度で諦めませんから!!」
「いや、だから、話を」
「次に来てくださる時までに、騎士様の気力をぽっきり折るような物凄い逸品を、作り上げておきますから!!」
「……。」
アレックスは半眼になってエマを見つめ、小さくため息をついた。こちらとてこの程度で諦めるつもりは毛頭ない。