キノコパイ
エマの朝は早い。まずは、食料の買い出しから始まる。市場に日が昇る前に出かけ、新鮮な、肉、魚、乳製品などを仕入れ、それをロバに乗せて、来た道を戻る。料理に使う食材を全部仕入れるわけではない。ハーブやキノコ、ベリーなどの食材は自分でダンジョン探索の際に、自分で採取したりする。野菜は無農薬の新鮮なものを自分の畑から収穫する。それを家に持って帰ったところで、朝食の調理を始める。鍋で温めた牛乳にチョコレートを数欠片入れ、かき混ぜる。その片手間に、大きな白パンをナイフで切り分け、そのうちの一切れを軽く火であぶる。表面が茶色になったところで火から外し、自家製バターを一塗り。チョコレートが完全に溶け、ホットチョコへと化した牛乳をマグカップに移し、パンを皿にのせ、ようやく一息つける。椅子に腰かけ、さっそく、ホットチョコに口をつけた。
「ふはぁ……。」
気の抜けたような声と共に息を吐き出す。カカオ独特のかすれたほろ苦さと牛乳のコクが口の中いっぱいに広がる。続いて勢いよくパンを口に運ぶ。火で炙ったため、さっくりとした触感と、小麦の味が引き立っている。
「うっまー。」
もはや顔面の筋肉など役割を果たしていない。あっという間に朝食を食べ終わってしまった。うららかな日差しが窓から入り、空には青空が広がっている。小鳥のさえずりが心地よく耳に響いた。最高な一日の始まりだ。
「本当、この世界、最高……。」
エマ、いや定塚恵麻はそうつぶやいた。この世界は恵麻が夢中に遊んでいたスマホゲームの世界だ。『ボックスガーデンキングダム』というほのぼのした日常生活系のゲームだ。プレイヤーは自分好みのアバターを作り、そのアバターを王国内で自由に生活させるライフアドベンチャー型ゲーム。アバター以外にも他の住人が百人程度おり、その住人と自由に交流でき、時には恋に落ちたりもする。畑仕事に精を出したり、発掘調査に携わったり、料理を作ったり、自分の店を持ったり、何をしても自由なうえに、生活しているだけで王国からお金がもらえるシステムなのだ。現実世界ではありえないレベルの暮らしやすさだ。その自由さとのんびりとした世界観にやみつきになり、課金をするほど入れ込んでいたこのゲームをいつものように寝る前に遊んでいたら、気づいていたら寝てしまっていた。目が覚めたら自分のアバターとそっくりな容姿となってこの世界の草原で爆睡していたのだ。今思い出しても、あれは乙女的に死ねる経験だ。
「こんなことになるのなら、アバターの見た目にも課金しておけばよかったなぁ……。」
テーブルに頬杖をついて、透き通るような青空を眺める。新緑の牧場に白い雲とのコントラストが目に眩しい。恵麻は、ここに来てしまった日から最初の三日間は死に物狂いで元の世界に戻る方法を探していた。しかし、王立図書館の文献を探っても、道行く人に片っ端から聞いてみても、何一つ手掛かりは得られなかった。そして、気づいてしまったのだ。この世界が元いた世界よりもずっとずっと暮らしやすいことを。もともと課金するほどこのゲームに夢中になっていたのだから当然と言えば当然だ。順応能力の高い恵麻は、現在はエマとしてこの世界で生活している。この王国の民として生活しながら、のんびり元の世界に戻るための手掛かりを探せばいいか、と今日もお気楽なエマはのんびりと椅子から立ち上がった。向かう先はまたもキッチンだ。ここにまぁまぁの額のお金をつぎ込み、小さな一軒家にはふさわしくないほどの立派な設備が整っている。包丁とまな板を手に取り台座に置くと、エマは貯蔵庫のあたりでごそごそと何かを探し出した。
「あった、あった。」
それは昨日採ったばかりのモリーユとホワイトマッシュルームだった。独特の土臭い香りが鼻孔をくすぐる。森のルールに従って、全部を根こそぎとるのではなく、その場に生えているもののうちの七割がたを採取してきた。それと一緒ににんにくも手に取ると、エマはその場を後にした。鼻歌を機嫌よく歌いながら、キノコを細かく刻み、ニンニクも小さく刻む。熱したフライパンにバターを一固まり落とすと、ニンニクをさっと炒める。
「うー、この時点でもうおいしそうだわ……。」
まだ具材をろくに調理していないにもかかわらず、既によだれが垂れそうだ。まだまだこれからだと慌てて気を引き締め、キノコもフライパンに投入し焦げないように炒めた。部屋の中いっぱいにキノコの豊潤な香りが広がり、エマの顔はさらに緩んだ。続いて今日手に入れたばかりの新鮮な生クリームと、とっておきの白ワインを加え、とろみが出るまで炒め続ける。その間に、いつ使おうかとため込んでいたパイシートを取り出した。それを皿の上に広げると、出来立てほやほやのキノコクリームを落とした。さらにその上に削ったチーズをパラパラとまいた。クリームの熱でとろけたチーズが白いソースと絡み合っていく。それを確認した後、卵を割り、卵黄のみをパイ生地の余った部分に塗り付け、別のパイ生地を上にかぶせる。包丁で飾りの切れ込みを入れ、もう一度卵黄を塗ったら、オーブンに投入だ。
「焼きあがるまでの間に、洗濯物を洗っちゃおうかな……。」
オーブンの温度を調節すると、エマは寝室に向かった。小さなベッドから白いベッドシーツを引きはがし、両腕に抱えて玄関を目指した。今日は良く晴れているから洗濯物もよく乾くに違いない。玄関の扉を開けようとドアノブに手をかけた瞬間、それは勢いよく外に向かって開いた。
アレックス・クラフは、騎士服の襟を正すと、コンコンと礼儀正しく木製の扉をたたいた。しかし、返事はない。気を取り直して、再度叩いてみたが、やはり返事はなかった。返事がない理由を頭の中で考える。本人の不在か。それとも物盗りにあったか。あれだけ剣の腕の立つ娘だ。その可能性はないとすぐに打ち消す。もしくは、部屋の中で倒れているのかもしれない。娘の華奢な体つきを思い出し、自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。無礼を承知でドアノブを引っ付かみ、勢いよく扉を開いた。途端に、部屋の中から真っ白な塊がぼふっと胸の中に飛び込んできた。剣を抜く暇もない、一瞬の出来事だった。得体のしれない物体に一瞬身をこわばらせてしまったが、その中に埋もれている見覚えのある小さな頭を見つけて目を丸くした。
「エマ……殿?」
名を呼ばれた少女は、ぷはっと声をあげて物体の中から顔を出した。そして、すぐにこちらの存在に気付き目をぱちくさせた。何度もまばたきを繰り返している様子は小動物のようだ。昨日の勇猛果敢な姿が嘘のようだった。
「……騎士様?」
どうやら、覚えてもらえていたようだ。しかし、アレックスは、さらに体をこわばらせた。先ほどの発言で、自分が彼女に名乗ってもらっていないというのに、名前を知っていることを示したことに気付いたからだ。これでは、無礼にも勝手に女性のステータス欄を覗いたことを知られてしまう。しかし、少女はそれには気づかなかったようで、よっこいしょ、と掛け声をかけると姿勢を正した。それによって、彼女が埋もれているのは、腕いっぱいに抱えた白い布なのだと気づいた。
「よければ、てつだ……。」
「え、本当ですか!?助かりますー!!」
遠慮のない動作でぼふっと音を立てて腕いっぱいに布を載せられた。見た目よりもあまり重量はなかった。なんだか花のような石鹸のような良い香りが布から発せられているが、あえて気にしないように努力した。少女に導かれ、家の外に置いてある大きなたらいに布を入れる。
「ありがとうございます騎士様。本当に助かりました!!」
「いや、大したことはしていない。」
「お礼にお茶でもどうぞ!!」
「え、いや……。」
妙に押しの強い娘にぐいぐいと背中を押され、家の中に通される。こじんまりとした部屋は、程よく整頓されているが、生活感の感じられるものだった。家具などから見るに、どうやらこの家に一人で住んでいるようだった。しかし、それよりも部屋に足を踏み入れた途端に、香ばしい香りが鼻孔をくすぐった。半ば強制的に木製の小さな椅子に座らされ、アレックスは落ち着きなく視線をさまよわせた。あまり女性の部屋を無遠慮に眺めるのも失礼だと分かっているのだが、どこに目を向ければいいのかわからないのだ。
「騎士様、キノコは食べられますか?」
「き、キノコ……?」
キッチンでごそごそとなにやら準備している少女に突如声をかけられ、動揺した声音で返答してしまう。キノコと言われても特に好き嫌いはなかった。
「特に好きでも嫌いでもない。」
「じゃ、食べられますねー。よかったー。」
どっこいせ、という掛け声とともに、少女がオーブンの取っ手を下に引いた。途端に部屋いっぱいに香ばしい香りが充満した。その匂いに、唐突に空腹を覚えてしまう。そんな自分に戸惑いを覚えた。今まで自分は食べ物に固執するような人間ではなかったからだ。この匂いは人間としての本能を直接的に呼び覚ますような強いものだった。
「はい、どうぞ。熱いうちに食べてくださいねー。」
ことり、と小さく音を立てて、皿がテーブルに置かれた。皿の上には切り分けられた一切れのクリームパイがのっていた。思わずごくり、とつばを飲み込んでしまう。パイの表面は黄金色に照り輝き、切れ目からはとろりとした白いクリームが零れ落ちていた。気づけば、自分の手が勝手にパイを掴み口に運んでいた。さくり。軽やかな音が響いた、じゅわり、と口いっぱいにキノコとバターの豊かな風味が広がる。シコシコした歯ごたえのキノコとサクサクとしたパイ生地が食感にアクセントを添えて何とも言えない。はっとして手元を見ると、もうパイはなかった。今の一瞬で、自分がすべて食べてしまったというのか。
「お口に会いました?」
にこにこと少女がこちらを見つめている。それに対し、空になった皿を見つめ、もごもごとおいしかった、と伝える自分が情けない。まさか、食欲に負けてしまう日が来るとは思わなかった。
「これ、昨日ダンジョンで採ったキノコを使って作ったんです。」
その言葉にはっとした。そうだった。ここに来たのは、パイを食べるためなどではない。彼女に用があってきたのだ。その場で姿勢を正すと、少女はきょとんとした表情を見せた。
「エマ殿。貴女にお願いがあって今日はここに来た。」
少女は戸惑いながらもこくりと頷いた。こんなイベントこのゲームにあったっけ?などと少女はぶつぶつ呟いているが、それどころではない。アレックスの額にぶわりと汗が浮かぶ。何を隠そう、人生で初めて恋に落ちてしまったのだ、この少女に。今まで自分よりも強い女性に会ったことのないアレックスは、その可憐かつ凛々しい勇姿に一目ぼれをしてしまったのだった。いてもたってもいられず、使える人脈をすべて使ってエマの家を探し当て、こうして尋ねたというわけだ。唇が震えそうになるのを抑え、口を開く。
「エマ殿。」
「は、はい……?」
「き、騎士……」
(などという堅苦しい役職の男に思いを寄せられるのは嫌かもしれないが、恋人に)
「……に、なってくれないだろうか……!!」
少女はぽかんとしている。その表情を見て己の失態を悟った。緊張しすぎて、言いたいことの半分も言えなかった。もう一度言いなおそうとしたら、それよりも早く少女が口を開いた。
「わ」
「わ……?」
「私、確かに、能力値は無駄に高いですけど、それは料理の材料を無料で採ってくるために、ダンジョンに行きまくっただけです。」
「え……?」
「ダンジョンに行きまくっていたら、勝手に身体能力が高くなっただけです。剣とかも我流だから、私、超弱いです。」
少女は青い顔でまくし立てた。なぜかはわからないが必死の表情である。
「騎士だなんて、面倒くさ……じゃ、なくて、そういうかっちりした仕事、私みたいなちゃらんぽんな人間には無理です。絶対に無理です。世界終わります。」
「勝手に世界を破滅に導かないでくれ。い、いや、落ち着いて……。」
「とにかく!!騎士にはなりません!!」
だんっと勢いよく少女がテーブルをたたいて啖呵を切った。アレックスは己の犯した間違いの大きさにようやく気付きだしたところだった。