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【エーファイ】⑨

 「嫌なものは嫌だぁ・・・」と家を追い出された幼い真季が泣く。イラブー汁の海蛇が食べられなくて母親に口答えしたことで喧嘩になり、真っ暗な夜空の下に一人ぼっち。涙と鼻水が止まらない。

 「海蛇なんて気持ち悪い、ニガナはだって苦い・・・」と家を追い出されても自分の気持ちを曲げずに真季は意地を張り続けるが小さな心は寂しさに襲われる。そして少しずつ怖くなって小さな体は小刻みに震える。「もう嫌だぁー・・・」とかがみこんだ真季。下を向いて鼻水をすすりながら、小さな手で何度も目から零れ落ちて来る涙を拭いていると「大丈夫、大丈夫」と真季に語りかける声が聞こえる。その声に驚いて顔をあげると両目の端に皺がいっぱいあるおじいさんが月明かりを背にして中腰の格好で真季を見ている。夜の暗闇の中でもよくわかるほど日に焼けた皮膚。寅也おじいに比べるとすこし小柄で、かなり細い。脂身のない筋肉が体を覆っていて硬くて強そうだったが、おじいさんのまわりの空気はとても柔らかくて包み込まれる感じがした。白い無精髭をはやして、月の光がその髭を印象的に照らした。

 「大丈夫、大丈夫さ。まーきーはいい子だね」とおじいさんは小さな真季の頭を撫でた。「なんでわたしの名前を知ってるの、おじいさん?」と真季が聞くとおじいさんは、くしゃくしゃの笑顔で「おじいは何でも知ってるさ」とだけ言って真季の左手を握って立ち上がった。

 「ちゃんとまたこのお家まで送ってあげるから、おじいの秘密の隠れ家に来て少しお休みしようね」

 真季はそのおじいさんの声の優しさに涙をぬぐって小さくうなずく。そしておじいさんの手を握りながら真っ暗な夜の中、集落を抜けて東海岸の方に向かって一緒に歩いた。月が雲に隠れた時でもおじいさんの姿は真季の目にははっきりと見える。なぜかおじいさんに手を握られていると暗い場所も怖くなかった。海の音を近くに感じる。雑草がキレイに刈り取られた細い道を歩き続けると木で作られた小さな小屋があった。屋根の上にススキやクバ、他あらゆる葉っぱを積み重ねていて、月が淡い光で小屋を照らす。真季はその小さな小屋の中をおじいさんと一緒に覗いた。木の舟と漁師道具がそこには保管されていて、小さい小屋だと思ったけれど、中はかなり広く木の舟が一層すっぽりと入っている。海はすぐそこの岩場の向こう。舟を運ぶための小さな木製の台車のようなものも中にある。小屋の前の空き地から海に繋がる道の両脇にある大きなガジュマルの木の枝と小さなモンパの木の幹を結んでハンモックもかかっている。

 「まーきー、この舟の中で少し眠りなさい。そしたら元気になってまたお家に帰れるさ。おじいが海で使っていたモーフギンという毛布で作った羽織があるさ。これを着ればどんなに寒い海の風でも大丈夫だったよ。これをお布団にして寝なさい」とおじいさんは真季を大事に毛布にくるんで舟の中に寝かせて、添い寝をしてくれた。そんなに長い時間眠った訳ではない。短い時間だけどおじいさんの腕の中で毛布の暖かさと一緒に安心して眠った。目が覚めた時には母親と喧嘩したことも、夜ご飯を食べられずお腹が空いていることも忘れていた。「まーきー、もう起きたね?」と添い寝してくれていたおじいさんは半開きの目をこすりながら真季に向かって笑った。「おじいは、まだ眠たいけど、お家まで送っていこうね」と二人は舟小屋から出て月の光の照らす方角へ一緒に手を繋ぎながら歩いた。


 真季は小さい頃何度かこのおじいさんに連れられて、その舟小屋で眠ったり、遊んだりした。年を重ねるとともにおじいさんに会わなくなったけれど、その小さな舟小屋に仕舞われた舟の中に体を委ねていると安心できた。舟で仮眠を取ると頭の中がスッキリして物事に前向きになれる。暑い夏の日は海近くの木にかかったハンモックの上で寝たりした。木の葉がちょうど日陰を作ってくれて、海風が気持ちよく、空の上、雲をベッドにして寝ている気分にすらなった。この場所は誰にも知られたくなかった。真季だけの特別な場所にとっておきたかったから、家族にも内緒。久高島に来る度に真季はこの場所を訪れる。この小屋に来る時はいつもそのおじいさんが手を引いて歩いてくれた道を通るようにしている。そしたら、またあの白い無精髭のおじいさんに会えるかもしれないと思って・・・。一体誰なんだろう、あのおじいさんはと思いながら。


 久高島に来る度に真季が集落からいなくなる時間があると昔から龍太は思っていた。でも、海かどこかに行ってのんびりしているのだろうと深く考えたことはなかった。龍太は空き地を見回す。真季は一体どこに消えた?まさか空に飛んでいったとは思えない。龍太は頭を上げ、顎をあげられるだけあげて自分の真上にある空を見た。そこにもちろん真季はいない。そんな馬鹿な発想がありえないことを確認した後、視線を落とした先の野原に人が草を踏んだ跡があるのに気づく。徳仁港を背にする方角。歩くのも大変だろうと思うほど鬱蒼と草が生えているけれど、人が通った名残りが微かな細い道になってどこかに続いている。真季は、この場所の奥へと消えて行ったんだと龍太は確信する。龍太は唾を飲み込む。そして、慎重に息を殺す。抜き足、差し足、忍び足で踏みしめられた草の上をなぞるようにして歩く。足を進めると、頭より高かった草も少しずつ低くなり、小さな御嶽ぐらいの空き地に辿り着きそうになった。雑草の高さが低くなるに連れて、龍太は身を屈め、最終的にはほふく前進の形になる。草が鼻の穴にささり、蚊が目の前を飛び回る。進む度に痒さが増す草ぼーぼーの緑色密集地帯。くしゃみを我慢し、音を立てずに気配を押し殺して地面を這いながら前進する。太陽の光を浴びて鮮やかに輝く何万本の雑草の微かな隙間から目の前のぽっかりと開いた空間を見つめると小さな空き地の筈なのに大きく見える錯覚に陥る。暑すぎて蜃気楼を見るに似た感覚で目を凝らすと海のそばに生えるガジュマルと小さなモンパの木の間に吊るされたハンモックに包まれて昼寝をしている真季が見えた。龍太は静かに大きく息を吸い込み、少しずつ鼻から吐いた。思わず鼻息が荒くなってしまうのを懸命に抑えている。

 (なんでまーきーはこんな場所を知ってるさー?)

 龍太は考えを張り巡らせる。でも、わからない。まあいいやと龍太はすぐに諦める。今はこの場所を隅々まで観察するのが先決な気がする。龍太はハンモックから視線を少し手前に戻す。そこに小さな木造の小屋があった。木で作られたその小屋は雨をよけるために多くの草や葉っぱが覆いかぶされている。雨を受けたそれらの草や葉が小屋の屋根に沿って斜め下に向けては雨を流す構造になっている様。その屋根を見ただけでこの木造小屋には雨風にさらして風化させてはいけない何かが大切に保管されている雰囲気がある。

 (あっ)

 龍太は思わず声を漏らしそうになったのを奥歯でなんとか噛み締めた。その小屋から舟の頭が少しだけ顔を出している。雨に濡れないギリギリの先っぽが龍太の目の中に飛びこんできた。

 (サバニだ・・・。サバニがある・・・)

 龍太は抑えきれない興奮をなんとか沈める努力をする。真季はハンモックに揺られ安心しきって昼寝をしている。そよ風に混じって、寝息が聞こえる。とにかく起こす訳にはいかない。真季が起きて、ここを離れるまでじっとしていなければ。そして真季がいなくなった後にあの小屋の中を見に行かなくては。


 龍太は自分の体を少しずつ真季が通ってきた小道から遠ざける努力をする。うつ伏せの姿勢のまま少しずつ横に動いていく。顔のまわりに蚊が飛びまわっているけど追い払うこともできない。真季の眠りは静かだった。小さい頃から真季が夢にうなされているのを何度も見てきているから、余計にそう感じる。よほどこの場所は真季にとって居心地の良い空間なのだろうと龍太は思う。でも、誰が真季にここを教えたのだろう。寅也おじい?いや、違う。真季にサバニの場所を教えたら、龍太にも喋ってしまう。寅也おじいは真季には教えない。真季も寅也おじいに内緒でここに来ていたに違いない。他に誰?思い当たる人はいない・・・。龍太は色々なことを考え込みながら辛抱強く待ち続けた。一時間半程経っただろうか。「うーん」と声を漏らしながら真季はハンモックの中で体を伸ばす。眠りから覚めたその声を聞いて、龍太は頭を低くして地面につける。

 「はー、すっきりした」と真季は爽やかに独り言を言う。ここに来て一眠りすると頭の中が空っぽになる。鼻の奥の方から頭のてっぺんに向けて風が通る感じで、悩んでいたことも何もかも軽くなる。相変わらず不思議な場所だと真季は思う。そしてハンモックから降りて右手の拳で両肩をコンコンと交互に叩き、凝りがほぐれたことを確認し、おばあの家に戻ろうと龍太の隠れている方向に振り向いた。

 (まずい、見つかる)と思い、龍太は微かに動いてしまった。草が揺れる。でも、風で揺れるような自然な動きではない。

 「うん?」と真季は動いた草を数秒見つめたが、「まだ寝起きだから何か寝ぼけてるのかな」とその不自然さをひとまず流した。そして、一つ大きなあくびをしながら草むらの中の細い一本道を慣れた足取りで戻っていく。

 (助かったぁぁぁぁ)と龍太は左頬を乾いた土につけながら心の中で絶叫した。そして鼻の穴から凍りつきかけた息がぬるくなって微かに漏れた。そのまま5分近くその体勢で真季が戻ってこないのを確認し、龍太はゆっくり起き上がった。顔体いたるところ蚊や虫に噛まれたが気にならない。心臓がドキドキする。小屋の中にあるのは間違いなく寅也おじいの、いや龍太のご先祖様の男達みんなが使っていた久高島鮫漁師一族のサバニだろう。興奮が抑えきれない。息を吸うリズムがすこしズレて過呼吸気味になる。龍太は胸に手をあて深呼吸を繰り返す。


 小さな木製の舟小屋のまわりはちょっとした空き地になっているが、元々はここがサバニの修理などをしたりする作業場だったのだろう。寅也おじいが亡くなってからこの小屋のそばで作業するものがいなくなったために辺り一面雑草が高く生い茂っている。遠くから見たらここに舟小屋があるなんて誰にもわからない。それでも舟小屋の屋根を覆う草が新しいのは真季ができる範囲で手入れをしていたからだと思う。空き地もところどころ雑草を手で抜いた形跡がある。舟底にたまった海水を搔き出すユートゥイという道具が小屋の入り口に置いてあるのは、真季が雨の後などこのサバニの舟底に溜まった水を搔き出していたからかもしれない。根が真面目で、自分がいる空間は気持ちよくあって欲しいと思う真季らしい。真季は昼寝に最適な場所をキレイにしていただけのつもりかもしれないが、それが結果として鮫漁師一族のサバニを守ることになっていた。ハンモックが吊るされている木と木の間は、舟が海に降りて行く道だとわかる。太陽に焼けた木々の葉や草の匂いが充満するこの場所で海への道から潮の香りが届いてくる。龍太は潮の香りに向かって足を進める。そして、木と木の間の海の扉をハンモックを持ち上げて開いては、下をくぐって岩場の合間の砂浜に向けて更に進んでいく。自分の体の中に流れる血が何かを思い出そうとしている。きっとそれは遠い昔からこの道を通って海へと出て行った海人の記憶。龍太はその血を受け継いでいる。砂浜に埋もれた足の裏で感じる何か懐かしい感触。この道を進んで海に出る事に違和感はない。むしろ自然。血液が色々なことを思い出そうとしている。興奮しているからか、血の巡りがよくなって汗ばんだ掌が少し赤い。そんなことを思いながらしばらく海を見つめた後、龍太は後ろを振り返る。そして緊張しながら来た道を戻る。空き地に戻ってきては息を飲み込んで舟小屋の前にしゃがみながら中を覗き込む。サバニに触れる。黒く光る舟。木が腐らないように遠い昔より何百回と鮫の脂を塗り続けられたサバニは黒く黒く輝く。サバニの横には丸い木が一本、帆柱が本体から外されて置かれている。そしてそのサバニの帆柱にかける帆が舟の中に置かれている。木綿の生地が豚の血で真っ赤に染められている。豚の血で染めると強度が強くなりどんな風でも捕まえられる。

 「昔、おじいが言ってたとおりだ、真っ赤な帆・・・」と龍太は帆の生地を触りながら呟く。この帆から温かい太陽の匂いがする。雨の多い沖縄。でも水分を含むことなく木綿の生地はキレイにサバニの中で折り畳まれていた。雨に濡れたら真季が太陽の下で干していたのだろうか。

 サバニの中にも脇にも漁師道具がたくさん置いてある。鮫と戦う大きな銛、魚を突く小振りな銛、魚を捕る網、釣り竿、海で寒い時に羽織る毛布でできた上着。クバの葉で作った編み笠、海に潜る木製の水中眼鏡ミーカガン。道具箱の中に何種類かの刃物や船の修理道具。取った魚を入れる篭。水を入れる丸い瓶。そして舟を漕ぎ、舵を取る櫂になるエークが6本。舟底に入った海水をかき出す垢とりユートゥイ。龍太は一つ一つの漁師道具を手に取り、寅也おじいが酔っぱらいながら語ってくれた舟道具の使い方を鮮明に思い出す。龍太はサバニを撫でる。愛おしそうに優しく撫でたり、嬉しくてパンパンと叩きながら撫でたり、自分の手垢をこすりつけるようにしつこく撫でたり。小さい頃からこのサバニを一目見たかった。何度も何度も夢に見てきた。今日ようやく鮫漁師の一族のサバニと会えたこの感動をとにかく舟中撫で回しながら表現する。そして撫でながら「おじい、このサバニは龍太がもらうよ」とサバニに語りかける。この舟には海で生きた先祖の魂が眠っている。海への扉からそよ風が吹いてきて龍太のまつげを揺らす。龍太はサバニを撫でながら海の方角を一瞬見つめる。


 火曜日に海に出ようと龍太は心に決める。明日日曜日の午後糸満に帰る。それからバレないように航海に出る支度をして、火曜日に学校に行くフリをして久高島に来て、ここから舟を出そう。もちろん一人で。龍太はサバニの細部を記憶にとどめ、小屋の中にある漁師道具を一つ一つ確認し、海に出るイメージを頭の中に作り始めた。「何事もイメージトレーニングが大事、大事」と独り言を言いながら口元が自然とにやけてしまう。海が好きで好きでしょうがない男の子。まだ海の怖さなんて何も知らない。海に出られるという興奮が龍太の心をときめかせる。龍太はその興奮を持て余し、少し頭を冷やすために海に向かってもう一度歩いた。太陽が世界を輝かせ、波は寄せては引いていく。龍太は水平線を見つめる。あの向こうにも世界は続いているらしい。そこを見てみたいと純粋な好奇心で思う。そして雲が生まれる場所から兎を飲み込んだ蛇を捕まえてきて、富おばあに食べさせてあげたい。それが元気になる方法だとアカララキの石は言った。龍太は石が語ったその言葉を100パーセント、何の疑いも混じりっけもなく信じ始めている。人は水平線の向こうに何があるかを想像する時、遠い遠い古代の昔から大胆でありえない発想をしがちな生き物。


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