【エーファイ】⑥
龍太は夢の中であそこの名前を思い出そうと、記憶の片隅の奥の方に落ちている忘れかけの言葉を一つ一つ探していた。でもなかなか見つからない。思い出せないあの名前・・・。寅也おじいが生きていた頃、何度もおじいと手をつないであそこに行った。あそこの後ろに小さな飼育小屋のようなものがあり、そこには島のおばあ達が穫ってきたイラブー海蛇が何十匹もいる。寅也おじいは、よく龍太をそこに連れて行き、小屋の前で一緒にしゃがんでは長い時間二人で中の蛇をじーっと見ていた。そうやって寅也おじいは孫の龍太の男の子としての胆力を鍛えようとしていた。蛇を見たくらいでキャーキャー言うような柔な男にはなって欲しくない。ましてや、ゴキブリを見たくらいでその場から逃げ出すような肝っ玉の小さい男にはなって欲しくない。それが例え高温多湿の南国沖縄で生まれ、すくすくと育ったどでかいゴキブリであったとしても。そんなおじいの哲学が、龍太を何度も「バイカンヤー行くか」と誘わせていた。思い出した、あそこはバイカンヤーという名前の物置みたいな一軒家。身近にありすぎて名前が思い出せなかったさーと龍太は寝言を呟く。そして大好きなおじいと一緒に過ごした思い出を夢に見て眠りながらニタニタとほくそ笑んでは嬉しそうな顔をする。バイカンヤーはイラブーの薫製小屋。おじいと一緒に、何回か見たことがあるイラブーの薫製作業。おじいの友達とその親戚が薫製作業をしているところに顔を出すとその友達おじいは「おお、龍太、よく来たさー。それでこそ久高の男だ。猫の手も借りたいくらい大忙しだから、手伝ってくれんねー?」と大きくて分厚い手で龍太の髪の毛がくしゃくしゃになるまで頭を撫でて話かけてきた。「いいよ」と応えるとその友達おじいは龍太に雑用の指示を出しながら、自分は次から次へと毒を持っている海蛇を怖がることもなく手に取る。イラブーの首元を左手で抑えて、切り株のような木の上に蛇の頭を置いてはスパナを振り下ろして頭を潰す。命を頂く。
「かわいそうだけど、ごめんねー」と何匹か頭を潰す度に死んだ蛇に向かって語りかける友達おじい。命を頂く有り難さと向き合えるから零れる言葉。頭を潰したイラブーだがまだ自立神経の動作が止まったことに末端の神経は気づいておらず胴体は気ままに動き続ける。友達おじいは撲殺したイラブーをたらいに投げ込み、リレーのように今度は親戚のおばあ達が水を張ったそのたらいの中で血を洗う。その後、お湯が煮えたぎる釜の中に蛇を投げ入れる。龍太はその連携プレーに見とれる。一度目の湯通し。数秒間熱湯に投げ込まれたイラブーをもう一人のおばあが取り上げて、たわしと手で体がふやけている間に皮を剥ぐ。そして、皮を剥がれた海蛇は再び男の手に戻ってくる。ここが寅也おじいと龍太のお手伝いの出番。蛇のお腹に入っている糞や老廃物や卵などを体外に出す作業。寅也おじいと龍太は皮なき蛇を受け取ると蛇の頭を握りしめてはお尻の方に向けて絞り出すように手を動かした。すると肛門からぴゅーっとウンチやらおしっこやら卵が出てくる。結構臭い。「おじい臭い」と龍太は寅也おじいに言ったことがあった。すると「なんねー、これくらいの臭い。龍太もたいしたことないさー。鮫はもっと臭いぞー」と返して来た時がある。龍太は驚きながら目を見開いて「鮫?あの人を食べちゃう鮫?」と聞くと、寅也おじいは龍太の顔を覗き込んで語った。
「そうさー、龍太。おじい達の一族は普通の魚を取る漁を皆と一緒にやったりもするけど、本業は鮫漁師さ。鮫と戦って、戦いに勝ったら、巨大な鮫の肉やフカヒレを売って、肉をミンチにしてかまぼこにしたりしていたさ。鮫肌の皮が欲しい人達もいっぱいいて、鮫は捨てるところがない訳よ。それに鮫から取れる油はおじいのサバニに塗ると舟が元気になって長持ちするさー。鮫の油をサバニに塗ると木が腐らない訳さー」
小さな龍太は、蛇のウンチを絞り出す作業をしながら鮫について考えた。テレビで見たことあるし、絵本や図鑑でも見たことあるけど、鮫に人間が勝てるとは思えなかった。
「おじいは鮫は怖くないの?」と龍太は聞くと、寅也おじいは意外な表情で龍太の顔を見た。小さくて澄んだ瞳が二つまっすぐに自分を見つめて、可愛らしいことを聞いて来る。ベテラン漁師として数々の修羅場をくぐってきた寅也にとっては忘れていた感覚。そんな素直で、純粋で、素朴な質問をしてくる幼い龍太がたまらなくいじらしくて龍太の顔に向けて水鉄砲のようにして蛇のウンチをかけた。
「えい、いやだ、おじい、何する?臭い」と龍太は目をつぶったまま大声を出した。おじいはしまった、いたずらが過ぎたと思って、慌てて自分の着ているシャツの裾で龍太の顔を拭いて「大丈夫か、龍太?ごめん、ごめん」と謝りながら聞くと「うん」と龍太は頷く。龍太の顔を拭き続けながら寅也おじいは鮫について思いを馳せながら言う。
「それは怖いさ。鮫は怖い。自然は怖い。人間はとてもかなわないさ。でもその怖さに打ち勝たないと生きていけないから、生きるために怖くても戦うわけさ。鮫も人間も生きるために必死さーねー。生き残るためにお互いの命をぶつけあって、生き残った方がありがたくその命を頂く訳さ。そしてもらった命が自分と家族の命を明日に繋いでくれる。おじいは今までたくさんの鮫の命をもらってきたからさ、いつかおじいが鮫に食べられる日が来ても全然後悔はしない訳さ。鮫への恩返しと思って諦める。それは本当にお互い様さ」
龍太は寅也おじいの話す言葉の意味が幼すぎて全然わからなかった。そして静かに黙りこんでしまった。何か言葉でおじいに伝えたいけど、それをどう伝えていいのかわからなくて黙るしかなかった。おじいはその龍太の顔を見て嬉しくなる。真っすぐな瞳でこちらを見てくる。自分の孫は肝がしっかりと座っている。何か困難があっても、打ち勝てるかどうかはわからないけど、少なくともこの子にはその恐怖と向き合うだけの勇気はある。逃げたりしないと、おじいは龍太の表情を見て思った。自分の孫が可愛いあまりの贔屓めに見た過剰評価ではないと、鮫と向き合い戦い続けた漁師の勘でそう思う。龍太はおじいがとても難しいことを言うから、何を喋っていいのかわからなくなったので、もくもくと蛇のウンチ出しを続けた。おじいも可愛い孫の龍太の隣でニコニコしながら蛇を握りしめて作業を続けた。
寅也おじいと龍太が体内から老廃物を出し終えた蛇達は再びおばあ達の元へ。表面を水で洗い、再び熱湯沸く釜の中へ。一度目は皮むきのための湯通しだが、二度目は本格的に茹でる。そして湯に入ってしっかりと煮えた蛇達は下ごしらえを終えて釜から出され、火が入ったバイカンヤーで7日間かけて真っ黒になるまで薫製にされる。
朝日を浴びながら龍太は久しぶりにバイカンヤーの前に立つ。バイカンヤー裏のイラブー小屋に足を進め、小屋の前でしゃがんでは金網の編み目から中を覗く。中には海蛇が40匹ほどうねうねと動いている。皆元気で活きがいい。何匹かが首を立てて龍太の目を見つめては口をあけてぺろぺろと舌を出してきゅーっと鳴く。龍太もその蛇達の顔を見つめて口を開けてぺろぺろと舌を出してはハロー、元気〜?と言いながら蛇の挨拶に応える。色々な角度から小屋の中を覗いて隅から隅まで確認したけれど兎を丸呑みにしたようなイラブーはいない。太い蛇は太いけれども何かを飲み込んでお腹まわりが膨れている蛇はゼロ。もちろん小屋には鍵がかかっている。開けて中を確認することはできない。でも、龍太はその鍵の在り処を知っている。小さい頃に薫製の手伝いしている時、島のおじいが鍵をどこにしまっていたかを見ていた。多分鍵は今もあそこにある筈。とはいえ、鍵を開けて中を見るまでもなさそう。バイカンヤー裏から表の広場に戻ってくる。薫製作業が行なわれていないバイカンヤーの前はとても静か。そして、最近知ったことを思い出す。すぐ隣の久高殿の前でイザイホーと呼ばれる神女になる儀式が行なわれていたことを。バイカンヤーと久高殿の前には、龍太が立っているとても小さな広場しかない。そんなに大それた儀式が行なわれていたなんて想像すらつかない。その久高殿とバイカンヤーの裏の森の中でイザイホーの期間中、神女になる女達は夜が来ると眠り、祖先と一体になる夢を見る。富おばあも鶴子おばあもイザイホーの参加者。満月の夜に目の前のこの森で寝たことがあるのだと思うと何か不思議な感じがする。龍太は、その森の木々を数分見続け、物思いにふけった後、改めてバイカンヤーを見た。「ここには兎を飲み込んだ蛇はいない」と龍太は断言して、おばあの家に戻り、富おばあの様態を布団の脇で正座をして見つめた。両親も真季も糸満に帰る支度をして少し慌ただしい家の中。でも龍太はそんなことを気にもしていない。ただ静かに衰弱した富おばあの顔を見つめながら、あの頃寅也おじいが言っていたことが今なら少しわかる気がすると思う。命のやり取りについて。そして、命を明日に繋ぐために打ち勝たなければならない恐怖について。富おばあの命は少しずつ削られている。でも、富おばあの精神力はまだ生きることを諦めてない。そんなオーラーをうふおばあが発しているように龍太には感じられる。ただの都合のいい思い込みかもしれないけれど、でも微かな希望は目の前にある。富おばあの顔を見ればわかる。思い込みじゃない。自分の目は確かに微かな希望を見ている。その希望から目を背けてはいけない。逃げてはいけない。何のために寅也おじいは、龍太に強い肝っ玉を授けてくれたのか?ハブよりも強い毒を持つ海蛇イラブーも沖縄の巨大ゴキブリも怖いと思ったことはない。鮫はまだ出会った事がないからわからないけど・・・。龍太は、富おばあの手を軽く握りしめ、「兎を飲み込んだ蛇を見つけるから待っててね」と帰り支度を終えた両親が玄関から龍太を呼ぶ中、小さな声で誰にも聞かれないように富おばあの耳元で語りかけた。もちろん反応はない。でも握った富おばあの手はまだ温かい。間違いなくまだ生きていることに安心して、龍太はお昼前のフェリーで家族とともに糸満に帰った。




