【グゥキマーイのティルル】⑪
富おばあの意識が回復してからちょうど一ヶ月経った週末、不思議なことが起きた。真季と龍太は毎週末久高島に来て、富おばあや鶴子おばあから久高島や沖縄の昔話を聞く。両親がついてくることもあれば、姉弟だけで来ることもある。だいたい午前中に軒先であったかいさんぴん茶を飲みながら、色々な話を聞いて、お昼ご飯を食べてから島の散歩に行く。鶴子おばあが来る時もあれば、富おばあと真季と龍太の3人の時もある。富おばあは観光ガイドさんのように何も知らない真季と龍太を色々な場所に案内しては、久高島の歴史や御嶽の由来などを丁寧に教えてくれる。御嶽は男子禁制のため龍太は入れないけれど、富おばあは真季を連れて入って伝統儀式の説明をしたりした。そして真季と一緒に御嶽の中でお祈りをして出てきては、真季が龍太に感想を教えてくれる。夕方、久高殿の前の小さな広場で真季に聞かれるがままに富おばあはイザイホーの祭りの様子を毎週のように詳しく教えてあげて、また3人で踊り出す。一度だけ最後のイザイホーで神人になった鶴子おばあが広場に来て、4人で一緒に踊ったこともある。富おばあの意識が回復してからそんな風に一ヶ月を過ごしてきた後の土曜日の夕方、久高殿前の広場で五十代後半と思われる女性と四十代半ばと思われる女性が真季達に声をかけてきた。
「あの・・・ここで午年の今年、三十六年ぶりに復活するイザイホーの練習をしているというのは本当ですか?」
そう聞かれた3人は????????という状態で頭がクエスチョンマークで一杯になる。何のことやら、言われた意味が頭にさっぱり入って来ない。富おばあも真季も龍太もそれを聞いて思考停止状態で呆気に取られる。練習?まさか遊んでいるだけなのに。そして、富おばあが二人の顔を見て、あっと声を漏らして「皆実ちゃんと渚ちゃん」と二人の名前を呼んだ。二人ともそれなりに年を取って容貌が変わってしまってわからなかったけれど、小さい頃の面影は残っている。島で育った女の子で、久高の男以外と結婚をして島を出ていった。すると、声をかけられた二人も目の前にいるおばあが小さい頃遊んでくれた富おばあだと驚きながら気づく。
「富おばあ、まだ生きてるのー?もうすぐ100歳じゃないの?」
「だからよー。ついこないだひ孫のお陰で死にかけたところを蘇った訳さー。お化けと変わらんよー」と、富おばあが昔と変わらずに優しい表情で朗らかに笑うと、皆実ちゃんも渚ちゃんも懐かしさのあまり泣き出してしまった。富おばあが二人の頭をよしよししてあげる。昔と変わらない。富おばあが慰めてくれる。
「実は、風の噂で今年は三十六年ぶりにイザイホーが行なわれて、今、久高島で練習が始まっているって聞いた訳さー。だから浦添で近所に住んでる渚ちゃんに連絡して、絶対にその練習に参加させてもらおうって言っていたの」
その皆実ちゃんの言葉に渚ちゃんが涙を拭きながら頷く。渚ちゃんが声を震わせ話す。
「私達、久高に生まれて育ったのに、島の男以外と結婚して、子供も産まれてとても幸せだけど、いつも心のどこかで後悔していたさ・・・。私達が久高の男と結婚していたら、もしかしてイザイホーは途絶えることなく今も続いていたんじゃないかって。久高のこと、故郷のことは忘れたことないのに、いつも久高のことを思う時、島を出たことに対する罪悪感を感じてきたさ。私は故郷を捨てたって・・・」
「イザイホーは、おばあちゃんの霊力を孫娘達が引き継ぐ儀式でしょ。おばあちゃん達の魂を受け継ぐことで神人になって祈りの記憶を未来に繋いでいく役割を担っていく訳じゃない。でも、イザイホーが途絶えてしまって、私達は大好きだったおばあちゃんの祈りの記憶を受け継ぐ機会を失ってしまった。ニライカナイにいるおばあちゃん達も宿るべき孫娘の体に降りて来られなくて浮遊しているかと思うと申し訳なくて・・・」
渚ちゃんと皆実ちゃんが語る言葉に富おばあも真季も龍太も軽いショックを受けた。島を出て行った女達は今でも心のどこかで島を出たことが正しかったのかを迷っている。久高島を代表する十二年に一度の神事を途絶えさせてしまったのは自分達なんじゃないかと。その二人の気持ちを目の前にして、なんとかならないものかと思いながらも、富おばあは二人に伝えた。
「ごめんねー、イザイホーの練習をしているんじゃないよー。ひ孫達がイザイホーについて知りたがるから、イザイホーの時に踊った踊りを一緒に踊ってみて教えているだけさ」
その富おばあの言葉に、皆実ちゃんと渚ちゃんは納得したけれど、遊びでもいいから踊りを教えて欲しいと富おばあにせがんでくるので、富おばあは根負けして優しく頷いた。踊る人が三人から五人になった。そして、皆で楽しい時間を過ごした後、月が照る夜の下、皆実ちゃんと渚ちゃんは子育ても家事も一段落しているので、来週末も久高島に来るから色々と教えて欲しいと富おばあに訴えて帰って行った。
翌週末、真季と龍太は当たり前のように久高島に渡った。いつものように鶴子おばあの家に行くと、皆実ちゃんと渚ちゃんが既に鶴子おばあの家にあがってお茶を飲んでいる。その光景に真季と龍太は無言で顔を見あわせた後、思わず笑ってしまう。毎週末久高島に通う仲間が増えている。そして、決まった儀式のようにさんぴん茶を飲んで、お昼ご飯を食べて、久高島をお散歩する。メンバーは5人に増えている。夕方、海から届くそよ風を気持ちよく体に受けながら、久高島に昔から続く踊りなどを富おばあから皆で習う。踊っているとまた声をかけられた。今度は3人。富おばあは全員を覚えている。島で生まれ、島で育ち、島を出て行った女達。皆実ちゃんと渚ちゃんと全く同じ気持ちを長年心に抱えながら、風の噂を聞いて帰ってきた。久高以外の男と結婚し、島を出てしまってけれど、故郷久高島を忘れたことは一度もない。土下座しても、嫌がられても、絶対にイザイホーに参加させてもらえるように覚悟を決めて島に戻ってきたという。ただの遊びだと富おばあはその3人にも伝える。でも遊びでいいから参加させて欲しいという強い願いを聞き届け、富おばあは皆に久高殿の前の広場で踊りを教える。さらに翌週末の朝、真季と龍太が久高島に渡ると、鶴子おばあが庭で頭をぽりぽり掻いている。増えた3人のメンバーが富おばあの話を聞きたくて、さっそく軒下に腰を降ろしていた。真季も龍太も鶴子おばあと同様に頭をぽりぽり掻く。一体何が起きようとしているのか・・・と3人は苦笑する。
「まーきーと龍太を出雲にサバニで行かせるようないたずらをしたのはアカララキの神様さ。そして、また何かイタズラしようとしている。神様のイタズラだから仕方ないけれど、神様のイタズラに振り回される人間は大変さー」
鶴子おばあはそう呆れた気持ちを吐露しながらも笑っている。そして風の噂とやらを聞いて島に戻ってきた女達は増え続け、12名になった。最後に真季と龍太の母、月子が同じように夕方の久高殿の前にやってきた。13名。
富おばあは頬に手をあてて考え込む。きっとアカララキの神様が流した風の噂とやらで島で生まれ、島で育った女達が帰ってきた。その女達は三十六年ぶりのイザイホーに参加したいと心の底から思っている。久高以外の男と結婚して島を出たけれど、久高島で生まれ育ち、久高の血を継いでいることに違いはない。皆、自分達のおばあ、久高島を守ってきたおばあ達の祈りの記憶を引き継ぎたいと主張する。でも第二尚氏三代目の王様尚真王が定めたイザイホーを行なう上での厳しいルールを守るのであれば、もう祭りは行なえない。第二尚氏王朝が作り上げたノロ制度におけるイザイホーを担える神職者の地位を受け継げるものは既に絶えた。そして、久高島の男と結婚したものでなければ神人になる資格はないとしたルールも越えることはできない。でもその厳しい掟を一方的に課した第二尚氏王朝は終焉を迎えて既に久しい。久高島の、久高島による、久高島のためのイザイホーがあってもいいのではないかという考えが富おばあの頭をふーっとよぎる。それは琉球王府ができるまえの久高島の原点に帰るということ。大切なのは久高の血を引く女達が自分達のおばあちゃんの霊力をその体に引き継ぎ、島を守り、家族を守り、自然を拝み、神様を拝み、久高の血を少しでも受け継いだ一族を守護していく存在に変わること。この13人の女は島を離れた。でも、どこにいても島を思う気持ちは変わらないと言う。この13人の女達に祖先の霊力を引き継ぐ儀式を行なってもいいのではないかと富おばあは思い始める。それは琉球王府が定めたイザイホーではない。もっと小さくて、地元愛に満ちた、日本中のどこでも行なわれているような小さなお祭り。でも、内容は太古の昔から受け継いできたイザイホーと何ら変わるものではない。富おばあは久高殿の前で、皆に踊りを教えた後に無意識に小さく呟いた。
「小さなイザイホー・・・」
今までのイザイホーは琉球王府の権力を神の力で支えるためのとても大きな祭りだった。そのため戦前戦後、そのイザイホーが開催される度に見物人が押し寄せ、学者が集まり、マスコミが取材したがった。でも「大きなイザイホー」はもういらない。地元で行なう、島のための小さなイザイホーで島の女達が祈りの記憶を少しでも未来に繋いでいければ、それは「大きなイザイホー」を開催するよりも意味のあること。富おばあは思う、自分は「小さなイザイホー」を取り仕切るためにひ孫達に命を救われたのではないかと。
悩んだ末に、富おばあは島で神人を引退した70歳以上のおばあ達に集まってもらった。そこに鶴子おばあもいる。富おばあは島に戻ってきた久高の女達の話をする。そして彼女達が救われない罪の意識を抱え苦悩していること、大好きだったおばあ達の魂を引き継げなかったことを悔いていることを伝えた。何人かのおばあが富おばあに思いのたけを語る。
「私達島に残った女達は、いつからか島を出て行った女達のこと考えないようにしていたかもしれないねー。だから、そんな風に思っていたなんて知らなかったし、考えたこともなかったさ」
「確かに。久高島にとって一番大事なのは格式ではなくて、古代から女達がおばあの魂を引き継いでいくことで、未来に繋いできた霊力さ。今のままではその霊力は空に浮いたまま、地上に戻ってくることができないさーね」
「島を出ても、島の外から久高島を守っていくこともできるさ。琉球王府は、久高島のノロ達が島を出てくるのを嫌がった。他の地域のノロとの間で揉め事があったら困るし、王府の神秘性を保つためにも島の男と結婚して、島から出ない女達を神人にする必要があったんだろうけれど、もうそういうしがらみから解放されてもいい頃かもしれないさーね」
「イザイホーが途絶えてからノロ制度がなかった王府以前の形に久高も少しずつ戻っているさ。ノロ職を継がずに、ムトゥヤ(元家)を継ぐことで今は神人にさせているさ」
意見は白熱した。でも、皆、長年生き延びて色々と苦労をしてきたおばあ達ばかり。会話の節々に優しさと温かさ、そして気品がある。富おばあが最後に締めくくる。
「琉球王朝を守護するための大きなイザイホーは途絶えたさ。王朝がなくなった後も1978年までやり続けたんだから立派なもんさ。上等。もう大きなイザイホーは十分役目を果たしたさ。後は、久高島と久高島の血を引く人間達をこれから先の未来に渡って守護していく女達に霊力を授けてあげなければならないさ。島を出た女でも、島を出た男でも、皆それぞれの場所で故郷を思っている。今年は午年。次の午年には、ここにいる私達、ほとんど死んでるさーね。若くて美人だった私達を男達が口説いてくれたのは遠い遠い昔の話さー」
富おばあがそういうと、皆、お腹を抱えて笑った。確かに12年後、自分達はもう生きていないだろう。いつまでも若い気持ちでいるけれど、死は明日自分達を迎えに来てもおかしくない。そして、死ぬ前にもう一度イザイホーをやりたいと皆思うようになった。島に戻ってきた女達に祖先の霊を宿し、祈りの記憶を繋いでいく。これがきっかけで過疎化した島に少しずつでも人が帰ってくるかもしれない。そこにいたおばあ全員の目が生き生きし始めた。富おばあがひそひそ声で皆に話しかける。皆、耳に手をあててその小声を聞く。
「イザイホーをやるとなると、マスコミや研究者が昔みたいに大勢来て、大騒ぎになるさ。イザイホー復活とか絶対新聞とかに出るさー。もうこの歳になってうるさいのは疲れるから皆、内緒で準備しましょうね。今回からは小さなイザイホーだから」
内緒というところがいい。子供の頃から秘密を共有するのはいつだって楽しい。おばあ達の顔がいたずらな好きな少女のように若返る。
そして旧暦の午年十一月十五日から満月の四日間。新暦だとちょうどお正月休みがあけた未年の仕事初めの一月五日から一月九日。引退した神人達がプロデュースした、島に帰ってきた女達のための内緒の小さなイザイホーが本当に行なわれたのかどうかはわからない。ただ、沖縄本島と久高島を往復するフェリーは、二隻とも故障したということで一週間ほど運行を停止していた。久高島に渡りたければ、なぜかはわからないが安座真港にとまっている糸満籍の漁船に合言葉を伝えて、その合言葉があっていれば漁船が島まで連れていってくれるという不思議なことになっていた。その糸満漁船は何度も久高島と安座真港の間を往復した。久高の血を受け継ぐもの達が内緒話を聞いて、島に帰ってくる。過疎化した神の島は再生しようとしている。龍太の一家は新暦の年末年始を久高島で過ごし、そのまま久高島に滞在していた。久高島の漁港に船をつけてくれるヤギ。何度も往復してくれる。龍太は漁港に立ちヤギに向かって、「無理なお願いを引き受けてくれてありがとう」と伝える。ヤギは「海人仲間だろ。気にするな」と笑い飛ばす。そして、冷たい海風にくしゃみを一つした後に龍太に言う。
「もう一往復行かないと。小さな漁船で乗せきれなかった車椅子のおばあと中年のおじさんがあっちで待っているからさ。寒いから先に島まで送ってあげるっていうのに、順番は守るって言い張るさーね。どんな状況でも筋を通す。順番は順番。そういうの気持ちいいさーね」
「待って、じゃあ、俺も車椅子を漁船に乗せるの手伝うからさ。一緒に行く」
龍太がそう言って漁船に乗り込もうとするとヤギは両手を広げ、龍太の乗船を止める。
「合言葉は?」とヤギが聞くと、龍太はにやけた。合言葉は龍太が考えて内緒で伝わっていったのに。「スサノオ」と龍太が言うと、ヤギは笑顔で龍太を船に迎え入れてくれた。
【グゥキマーイのティルル】完 — エピローグに続く




