【グゥキマーイのティルル】⑨
普通の日常が帰って来た。太は市役所に出勤し、長い休暇をもらったことを上司と同僚に詫びた。そして、真季と龍太は月子に伴われ学校の先生に不登校を詫びに行く。登校拒否が多い現代。学校に来ないまま義務教育を終える、もしくは高校を中退する子供が多い中で、復帰したいと親と一緒に謝りに来る子供達を拒む学校はない。両手をあげて、これから頑張っていこうと応援してくれる。龍太は中学の校長先生と担任の先生の前で、「出来心で家出してしまって、ご迷惑をかけました。すみません」と頭を下げた。真季も同じように高校で「長い間学校をお休みしてすみませんでした」と詫びた。担任の先生が真季の表情を見て少し驚く。「真季ちゃん、大分顔色良くなったね。体調はいいの?」と聞かれ、真季は確かに龍太と一緒に旅に出てからサーダカンマリの体調不良を感じなくなっている自分に今更ながら気がついた。航海の最中は体調不良になっている暇なんかなかった。今を生きるだけで精一杯だった。無我夢中だった。でも、そういった事を経験したことで、小さい頃から悩まされた体調不良は気づけば体のどこにもその影を潜めていないことを真季自身が知る。霊に取りつかれても、今はその霊に自分の体を好きにさせないだけの養った気力と体力がある。真季は、担任の先生の言葉に頷く、「これからは頑張れると思います」と。
中学校に復帰した放課後の帰り道、龍太は糸満漁港まで歩いた。糸満公設市場を通り、漁師町の匂いを吸う。お昼までにほとんどの仕事を終えてしまった市場内の鮮魚店が後片付けにお店の床に水を撒き、モップで汚れを磨く。アーケードを歩き、広場のベンチにおじいとおばあが座ってゆんたくしているのを見る。あのおじいも昔は漁師だったのだろうか。あのおばあはおじいが取ってきた魚を篭に入れて、頭の上にのせて那覇まで売りに行っていたのだろうか。そんなことを思いながら、龍太はアーケードに飾られた絵を見る。糸満ハーレーの光景が大きな絵になっている。青い海、青い空、大観衆に囲まれたサバニに乗った男達が一心不乱に力をあわせて舟を漕いでいる力強さ。龍太は思わずその絵に見とれる。そしてそのまま足を進ませて、糸満漁業協同組合の建物の中に入っていく。2階建ての古い建物。龍太は階段をのぼり、受付のそばにいた事務員のおばさんに「上原清さんいますか?」とヤギの本名を伝えてとりついでもらおうとお願いする。おばさんは、「清さん、さっき漁船の手入れするって階段おりていったけれど」と教えてくれたので、ありがとうございますと龍太は頭を下げて自分も階段を降りる。港には漁を終えた船が眠るようにして休んでいる。龍太はコンクリートで頑丈に作られた港の地面の上を歩いていく。いつもヤギが船を停めている場所まで行くと、ヤギは船の上で漁師道具の手入れをしていた。龍太は、ヤギが手を休めて自分のことに気づいてくれるのを待った。やぶけた網を直していたヤギは大きな穴を一つ繕い終えて顔をあげた。龍太が漁港のコンクリートの上で屈んでこっちを見ている。ヤギは龍太の目を見て微笑む。こっち来いとヤギは何も言わずに龍太を手招きする。龍太は小さく頷いてヤギの船に乗る。久しぶりにヤギの目の前に座ると、ヤギ独特の潮と汗、魚にまみれた臭いがした。シャワーを浴びてもこの体臭は落ちないんだろうと龍太は思う。太陽の下で海と闘い続けてきた漁師の匂い。ヤギは毛穴の奥まで海の男。龍太はそんなヤギを尊敬する。ヤギは龍太を船に招き入れた後、龍太を気にすることもなく、網の目を一つ一つ点検して破けているところがないかの確認作業を続けた。龍太はヤギが作業する姿をただじーっと黙って見ている。しばらくして作業を続けるヤギに向けて龍太は「助けてくれてありがとう」と伝えた。ヤギは視線を網の穴に落としたまま、鼻で少し笑った。龍太からそんなことを言われると思ってみなかったとでも言うかのように。
「仲間だろ。当たり前のことさ」
ヤギはそう言いながら網の手入れを続ける。龍太はそのまま黙ってヤギの仕事を見つめる。全ての穴を塞いだ後、ヤギは立ち上がり、龍太の肩を叩いて、「みんなに元気な顔を見せてやれ」と一緒に来るように促した。龍太はヤギに伴われながら、糸満漁師達にお礼の挨拶に行く。皆、あまり多くは語らないけれど、心から龍太の無事を喜んでくれているのがわかる。海の男達の笑顔を素直にカッコイイと龍太は思った。そして日が暮れて、龍太は漁港を後にして家に帰るべく歩き出す。航海をしながら見た空と今見上げる空は何か違う気がした。その夜空を見ながら龍太は改めて思う、普通の生活に帰ってきたんだと。
当たり前の生活に戻ると全てがリズム良く動き、アッという間に時が経ってしまうことに真季と龍太は驚く。朝起きてから朝食を食べてトイレに行って、歯を磨き、登校して授業を受けて、放課後を過ごし、帰宅して夕食を食べるといつの間にか寝る時間が来ている。その日常生活の小気味良いリズムに乗せられるようにして、週末がすぐにやってくる。バイカンヤーの薫製作業が終わる土曜日。太は皆を連れて安座真港まで車を走らせる。だんだん島に行くことが家族の日常の恒例行事になっていく。でも嫌じゃない。故郷の島に家族皆で帰れる幸せを改めて噛み締める。慣れた段取りで久高島へのフェリーに乗り込み島へ渡る。真季はフェリーの上から海を眺めて「楽チン♪♪」と笑う。海で丸一日遭難した経験が脳裏に蘇っては文明が発展するのも悪くないと思い直す。龍太はその真季の言葉を聞いて笑うしかない。苦しんだからこそ、この人間の進歩をあらためて凄いと思える。龍太にしても真季と同じ気持ちだけれど、でも、サバニはサバニでいいもんだとも龍太は思う。
徳仁港にフェリーは接岸し、一週間ぶりの久高島に降り立つ。そのまま鶴子おばあの家に荷物を置いて、富おばあの寝顔を見つめる。表情は穏やか。安心して、家族一同皆で久高殿に向かって足を進ませるとバイカンヤーの扉が開いていて、その前で薫製済みの蛇を取り出す作業が始まっていた。青いシートを地面の上に敷いて、真っ黒になった蛇を取り出し煤を払う作業をおじいとおばあが行なっている。龍太達が近づくと、おじいが「ああ、鶴子さんに皆、無事に薫製は終わったけれど、不思議なことがあるもんさ」と首をかしげながら話かける。「こんなこと初めてだよー」と隣のおばあが不思議がる。
「普通、薫製にしたら蛇の体は真っ黒になるさー」とおじいは皆に伝えた後、一度バイカンヤーの奥に入っていき、蛇を取り出し戻ってきた。真季と龍太が出雲から連れてきた蛇は、真っ黒どころか薫製された後、真っ白な体になっていた。その蛇の姿に真季も龍太も口を開けて唖然とする。おじいは白い体についた黒煤を落としてくれた後、その蛇の薫製を真季と龍太に手渡してくれた。
「摩訶不思議なことがあるもんさー。本当にこの蛇でスープ取ったら富おばあも元気になるかもしれないさ。イラブー料理が上手な鶴子おばあに料理してももらったらいいさー」
真季と龍太はその長い体を二人で持った。そして鶴子おばあの顔を見る。鶴子おばあは笑顔で二人の視線に頷いた。真季と龍太は釜だし作業をしているおじいとおばあの手伝いをしようとするけれど、おばあは「もうほとんど終わっているから、手伝いはいらんよ。早くその蛇持って帰って、富おばあを元気にしてあげなさい」と言ってくれる。その言葉に甘えて、白い蛇を大事に抱えて家に戻る。
鶴子おばあは早速台所でいつものイラブー汁を作る準備にかかる。月子が手伝う。今までは蛇が嫌だから手伝ってこなかった真季も台所に立つ。太と龍太は遠目から3人の仕事を観客として見守る。台所のシンクに水をためて、白い蛇をしばらく水に浸ける。その後、器にいれた酢と小麦粉を混ぜたドロドロの液体を蛇の体につけてタワシで擦り、煤を落とす。そして、一匹の蛇を適当にまな板の上で6等分にしてお湯を張った鍋の中で沸騰させてアクを取る。一度お湯を捨ててあらためて水を張った鍋の中に蛇を入れて2時間程火にかける。鶴子おばあは始めの一時間は火のそばにいたけれど、後の一時間を月子と真季に火の番をまかせて商店に豚肉を買いに行き、畑から汁に入れる大根や野菜を取りに行く。龍太は鶴子おばあについていき、買い物と野菜の収穫を手伝う。鶴子おばあが龍太とともに一仕事を終えて台所に戻ってくると丁度いい頃合い。一度鍋から蛇を取り出し、まな板の上でキレイに同じくらいの長さに切りそろえ、頭と尾を切り落とす。胴体から骨と腸を取り除き、先ほどまで蛇を煮ていた鍋に水を足し、改めて丸切りされた蛇の体を入れて煮たてていく。ここからが長い。約8時間、蛇の身を柔らかくし、かつ出汁を取るために炊き続ける。鍋の中の水分が蒸発していくと水と泡盛を足す。月子と真季は鶴子おばあに指示されるがままに火加減を見ながら、水と泡盛を鍋の中に足して行く。蛇のエキスがどんどん煮立つ鍋の中に凝縮されていくのがわかる。そして夜が深くなっていく頃、鶴子おばあが火を止めていいとOKサインを出したので真季は火をとめる。イラブー汁を作るのにこんなに手間がかかるとは全く思っていなかった真季。その苦労に対して、今まで食わず嫌いだった自分が少し情けなくなる。
「後は明日の朝までそのまま寝かせておけばいいさー。明日の朝になったら野菜と肉を入れて、汁をもう一炊きして完成。朝ご飯に頂こうね」
真季は鶴子おばあの声に頷き、イラブー汁を作るためのイラブー漁、薫製作業、下処理の手間暇、そして炊き続けるためのガス代の凄さを振り返る。この古代より続く最高級薬膳料理のスケールの大きさを初めて実感する。太も龍太も改めて大好物のイラブー汁を作る過程を見て驚く。皆、薫製を終えた蛇が白くなってバイカンヤーから出て来た後はずっと緊張していた。あの蛇の汁を作るのに失敗は許されないとドキドキしていた。そして鶴子おばあがOKを出してくれた時、皆ほっとした。これから夕食を作る気にもなれずに皆で港の食事処に向かう。簡単に夕食をすませて、皆、ぐっすり眠った。そしてあっという間に朝が来る。
鶴子おばあが台所に立つ音が聞こえて、真季は慌てて布団から起き上がる。それに気づいて月子も起き上がり、二人とも洗面台で顔を洗って身だしなみを整えて台所へと向かう。騒がしい物音が聞こえて、太も起き上がる。ただ龍太はよだれを垂らして眠っている。太は、龍太を起こしてやる。出雲から一緒にこの久高島までやってきた蛇の運命の一部始終を見逃したくはないだろうと気遣う。父親に起こされて、龍太は寝ぼけながら布団を出る。そして、太と龍太で家族皆の布団をたたみ、洗面台で顔を洗って台所の端の観客席に陣取る。女性陣は手際よく昆布を結び、たっぷりの野菜の下準備を終え、豚肉を切る。それから新たに準備した食材をこれでもかというぐらいに一晩寝かした蛇のエキスたっぷりの鍋に入れて火にかけた。蛇の出汁に新たな旨味が加わっていく。ふたをした鍋の隙間から食欲を刺激する美味しそうな香りが立ち上り、家中に広がっていく。龍太は思わず唾を飲み込んだ。鶴子おばあは鍋のふたを外して汁を確認する。お玉で何度か鍋の中をかきまわして一口味見をし、「上等」とだけ短く言って、ガスの火をとめた。あの八雲山で出会った兎を飲み込んだ蛇のスープが出来上がった。太と龍太は、慌ててテーブルを畳の上に出して、箸やコップを用意する。鶴子おばあは、その鍋から5人分の蛇の身と汁をよそおい、たきあがったご飯とともに食卓に並べるように指示する。そして、最後に富おばあのために蛇のスープだけをお椀に取り出して真季に渡した。皆、一度食卓についた後、隣部屋に寝ている富おばあの元に自然と集まる。龍太が富おばあの体を起こして、真季がその口から少しずつあの蛇のエキスを喉の奥に流し込む。小さなお椀一杯分を富おばあの胃に流し込んだ後、真季はふと思う。スープだけじゃなくて蛇の身も食べてもらいたいと。おばあの家にミキサーがあるのは知っている。台所に足を進ませ、ミキサーを取り出した。そして鍋の中から蛇の身を取り出し、スープと一緒にミキサーにかける。これなら流動食。噛まずに食べられると思い、ミキサーの中からお椀にうつす。改めて富おばあの側に駆け寄り口の中にスプーンで砕いた蛇の身を流し込む。喉の奥に届き、戻すことないのを見届けてから富おばあを布団に寝かせた。それから5人は朝食として出雲から来た蛇の汁を白米とともに頂く。真季は初めて蛇を食べる。食わず嫌いなだけだった・・・。勇気を持って食べてみたら美味しくてビックリする。食べ終えると脳内と心臓まわりの血管の内側を血液が勢いよく流れはじめる。体中がぽかぽかして、頭がスッキリする。お腹の奥から力が湧き上がってくるのを感じる。凄いエネルギー。もしかして、遠い昔から沖縄の人達も出雲の人達もエネルギーをくれる海蛇を追いかけて、捕まえるために海を行ったり来たりしたのだろうか。この八雲山の白蛇は別格で種類も違うかもしれないけれど、同じ蛇であることに変わりはなく、あの細く長い体で出雲と沖縄の海を泳ぎながら行き来し、陸にあがっても何週間も食事ひとつせずとも元気に生きている海蛇の生命力。古代から人間はこのエネルギー欲しさにサバニで蛇を追いかけたとは考えられないだろうか?と真季は直感的に思ったりした。富おばあはぐっすり眠っている。真季は出雲の白蛇の命をしっかりと食すことで受け継いだ。家族みんなで、残りの汁に浸かった野菜と豚だけを頂き、蛇の身とエキスはそのままにしておいた。これから毎食、富おばあに蛇の身をミキサーにかけて、汁と一緒に飲んでもらう。そして元気になって目を覚ましてもらわなければならない。日曜日の午後、龍太達は糸満に帰った。鶴子おばあが残りの蛇汁を富おばあに飲ませる役目を引き受けた。
 




