【グゥキマーイのティルル】⑧
目が覚めた時、そこに空はなかった。龍太はその事実に戸惑う。自分は日本海を西に向けてサバニを漕いでいた筈・・・。なのに、空のかわりに屋根がある。そこにあるのは見慣れた久高島の鶴子おばあの家の天井。龍太は不思議な感覚を味わいながらゆっくりと上半身を起こして、あたりを見渡す。間違いなく久高島の鶴子おばあの家。龍太の隣には富おばあが眠っている。龍太は、富おばあの鼻の下に手を持って行く。鼻息が指に当たり、間違いなくまだ富おばあの命は終わっていないことを確認する。その事実に龍太はほっとして、しばらく放心状態でぼーっとする。頭の中から眠気が消えていくまで2度大きなあくびをした。家の中には誰もいない。龍太は寝起きの体にようやく血が巡り始めたのを確認して、筋肉に力を入れて起き上がり、洗顔と寝癖を直しに洗面所に向かう。開いた目の端にこれでもかというくらいの目くそがついている。一体どれだけ眠っていたのだろう・・・。しばらく体を動かしてなかった証拠に、節々が凝り固まっていて動かす度にきしむ音を出す。一歩前に出るたびに微かな痛みを感じながら辿り着いた洗面所。鏡にうつる自分の顔。なんだかだいぶ久しぶりに自分の顔を見た。日焼けをして、少し痩せて引き締まった気がする。この日焼けした顔がサバニで出雲まで行った何よりの証拠のように思えるけれど、もしかして自分は長い間不思議な夢を見ていただけなのかもしれないと不安になる。どうして今、自分は海の上ではなくて久高島にいるのだろう?と龍太は濡らした髪をタオルで拭きながら考え込む。
龍太は寝間着を脱ぎ、ジーンズを履き、パーカーを着る。そしてスニーカーを履いて外に出る。玄関を開けた瞬間、太陽が眩しい。思わず目を閉じる。そしてゆっくり時間をかけて少しずつ薄目をあける。ずっと眠っていたからだろうけれど、強い日差しに慣れるまで時間がかかる。目が慣れてきたところで、龍太は久高島の景色を改めて入念に確認するように見つめながら一歩一歩確かめるように集落を歩く。すると集落の中心地である久高殿の方角から人の声が聞こえる。楽しそうに会話をしている。なんだろう?と龍太は思う。人がいるのなら、なぜ今自分が久高島にいるのか聞けるかもしれない。まだ頭の中ははてなマークで埋め尽くされている。龍太はその???の答えを求めて久高殿の広場に向かって歩いていく。
広場では、海蛇を薫製にする下準備が行なわれていた。両親も真季も鶴子おばあもそこにいる。海蛇の薫製作業を見学に来ていた久高島の子供達が龍太の姿を見つけて駆け寄ってくる。皆知っている、龍太がサバニに乗って大きな海に出て出雲というところまで行ってきたことを。子供達は龍太の手を取り、航海の話を聞きたがる。まるでヒーローを見るような視線で。自分の目を見て来る子供達の顔を見ていると、ああ、あの航海は夢ではなかったんだと思う。子供達に囲まれながら、両親の前まで歩いていき、「おはよう」と挨拶する。
「何がおはようね、この子は。相変わらず吞気なんだから」と月子は鼻息をもらし、呆れ顔で笑う。そして、少しの怒りをこめて、龍太に蹴りを入れようとするけれど、龍太はそれを軽くよけた。太はただ、ニコニコ笑っている。何がなんだかよくわからずに龍太は真季の顔を見る。真季は腕組みをしながら龍太の表情を見てため息を漏らす。弟はなぜ今、久高島にいるのか把握できていないという弟のアホさに気づく。真季は龍太に近寄り、右耳たぶをひっぱって、鼓膜に向かってこれでもかというぐらいに教えてやろうと思う。
「あんた、5日間、意識不明で寝ていたさ。山口県の萩市沖あいで高熱でぶっ倒れて。それは覚えてる?」
龍太は、痛たたたと呟きながら、確かに高熱で体中が熱かったことを思い出す。
「あんたが倒れてくれたおかげで、サバニは島根県の隠岐の島というところの近くまで流されていった訳さ。もう駄目だと思った時、ミラクルが起きたさー」
「はっ、ミラクル?何ねー、それ」
「糸満漁師の漁船六十三隻が私達を迎えにきてくれたさー」
「はっ?でーじ・・・というか、はっ?えっ?嘘・・・・」と龍太は呟きと瞬きを繰り返すが考えがまとまらない。しばらくその事実を信じられずにいた。真季はまだ耳たぶをつねっている。痛い。嘘じゃないのだろう。
「ヤギとか糸満ハーレーの仲間の漁師さん達?」と龍太は改めて真季に聞く。
「そうさ。私達がサバニで海に出たっていう噂を聞いた時からずっと探しまわってくれていたらしいさ。そして、出雲に無事について、美保関から西に向かって出航したという噂をまた聞いて、この季節の西航路はサバニだと厳しいって、黒潮と対馬海流に乗って、全速力で飛んで迎えにきてくれた。あんた、糸満帰ったら、皆にお礼に行かないといけないよ。後、出雲のジョーさん家族にも私が電話して無事に沖縄に帰ったこととお礼を伝えておいたから。あんたも落ち着いたら電話しなさい」
龍太は熱で眠り込んでいてそのミラクルに気づかなかった自分が恥ずかしくなる。それで全部繋がった、意識を失っていた期間のことが。夢ではなかったんだと改めて思う。真季はようやく事の次第を納得した弟の表情を見て大きくため息をつきながら耳たぶから手を離す。このお馬鹿な弟の姉に産まれてしまった自分の運命に呆れる。
龍太は改めて両親の顔を見る。真季から聞いて全てを知っているのだろう。怒りたいだろう、自分達が被った迷惑を。でも、それすら思春期や反抗期特有の子供が大人になる過程での特殊な時期の出来事として受け止めようとしている両親の表情。龍太は親の大きさを知る。乱暴な不良や暴走族やヤンキーになるのとサバニで海に漕ぎ出すの、親にしてみればどちらが良かったんだろう?と龍太は思う。考えがまとまらない龍太は、とにかく両親の前に足を踏み出し、「心配かけてごめんなさい」と頭を下げた。その姿を見て、太は目に涙を浮かべ息子の肩を優しく叩く。月子は、龍太の鼻をぎゅっと指でつまむ。それから二人とも龍太を抱きしめる。両親に強く抱きしめられる龍太は、痛いと口に出してしまいそうになったけれどそれはぐっと我慢した。それぐらい息子として我慢をしなければいけないぐらいのことはわかっている。その痛みに耐えている龍太の表情を見て真季はにやりと笑う。龍太の苦痛に満ちた表情にざまみろと舌を出す。
バイカンヤーに既に火は入っている。小屋から煙がもくもくあがっている。昔、龍太が手伝っていた頃とは違うおじいが蛇を扱っている。なんだかこの光景がとても懐かしい。寅也おじいと一緒にここで蛇のお尻から内蔵に溜まった糞や卵を肛門から外に出すお手伝いをしていた。龍太は久しぶりに作業を手伝いたくて輪に加わろうとする。そして、その輪の中心に出雲で捕まえた蛇が入った篭を見つける。龍太は思わず真季を見る。真季はその龍太の視線に苦い顔をして力なく頷く。真季の目に寂しさが宿っている。龍太は、あの出雲の八雲山で出会った蛇も今日薫製にされるのだという事実をごくりと飲み込んだ。龍太は無言だけれど聞きたいと思っているのだろう、蛇の気持ちを。そう真季は察して龍太に近づく。それは、自分が何度も自分自身に問いかけ、蛇にも問いかけた、「本当に、ここで死ぬつもりですか?」と。その度に蛇は真季に言う。
「脱皮不全になった私は生きている事自体が苦しいの。再生できない私を殺して、体内に溜まった不純なものを全て取り除いて、火で燻しておくれ。そして、その火の中で残った私の体を意識を失った神人に与えなさい。そうすれば、その神人はしばらくの間は生き返る。私の最後の生命力を全てその神人が受け継ぐ。その神人にいずれ死がおとずれ天に昇る時、私は一緒に帰る、魂の故郷に。そしていつかまた再生しよう・・・」
真季は何度も何度も蛇のその意志を聞いたと龍太に伝える。龍太は篭の中を覗く。長い旅を経て少し弱った蛇を見る。蛇は龍太の目を見る。その真っすぐな視線に龍太は自然と頷く。蛇の顔をよく観察する。脱皮不全になった苦しみが無数の皺になって顔の表面にじみ出ている。これ以上生きれば、体内の不純物が膨張し続ける体と硬直した皮膚の間で苦しみだけが増えると蛇は龍太に目で訴えかける。生きる事に疲れ切ったという表情の蛇神様。龍太は蛇の意志を直接確認し納得する。
おじいやおばあ達が作業を進め処理された久高島の海蛇が次々と薫製になるべくバイカンヤーへと入っていった。その場にいたであろう50匹ほどの海蛇はあっという間に目の前から姿を消す。そして、最後に真季と龍太は出雲で出会った蛇を二人で篭から持ち上げて、薫製作業をするおじいに「お願いします」と覚悟を決めて渡した。おじいは静かに頷き、丸木の上で受け取った蛇の頭めがけてスパナを振り下ろした。きゅうという音を立てて蛇の頭は潰れた。脳を破壊された蛇は舌を出さなくなるけれど、その体は右に左にうねる。末端の自律神経が死に絶えるまで少し時間がかかる。おじいは血にまみれた蛇を釜でお湯を炊くおばあに渡す。おばあはぐつぐつ煮えた鍋に蛇を投げ込む。数秒間の湯通しを終えた蛇を皮むき担当のおばあ達が取り出す。そして、たわしでうろこと皮を落としていく。作業が終わり皮がつるりと剥き上がった蛇をもう一度釜の中に入れて、今度は本格的に茹でる。その後、茹で上がった蛇の柔らかい体から体内の糞や卵などの不純物を薫製前に取り出す作業に移る。龍太が小さい頃にやったことがある作業。蛇を薫製にする作業の輪にいる龍太は、昔と同じようにその作業を受け持つ。龍太は思い出深い出雲の蛇の体を受け取り、首元から尻尾の肛門に向けて蛇の胴体をしっかりと握りしめて体内に溜まっていたものを外に絞り出す。おなかを押して、肛門から出て来たものを龍太は掌に受け止めて眉をしかめる。小さい頃にお手伝いした蛇のお腹からはほとんどウンチしか出てこなかった。でも、龍太が手にしている蛇のお腹からは、ヘドロのようなドロドロヌメヌメした異臭を強烈に放つ黒い液体が大量に出て来た。まるで水道の蛇口をめいいっぱい開いたかのように勢い良く・・・。龍太の指の間から滝のように零れ落ちる黒い液体。龍太はその掌いっぱいを覆う液体を嗅いでみた。一瞬で理性が吹き飛ばされそうなほどの強烈な臭気が鼻の奥を通り、脳を機能不全に陥らせようとする。龍太はその液体に拒絶反応を示しのけぞった後、顔から離して何度か頭を振る。久高島のフレッシュな空気を鼻と口から同時に出来る限り多くの量を吸うように心がけた。真季はその目の前の普通でない光景に激しく鳥肌を立てた。その黒い体液にまみれた掌をよく見ると無数の小さい卵が・・・。一体これは何の卵だ・・・?と龍太は背筋が冷やりとするのを感じながらその卵を何もいわずに全て煮えたぎるお湯の中に捨てた。出雲で出会った不思議な蛇を苦しめていたものを掌の上で実感として感じ、あらためて蛇の顔を龍太は見た。顔はスパナで潰されているけれど、穏やかな死に顔に見えた。龍太はその死に顔を見届けた後、慌てて公民館まで走っていき、水道で手をキレイに洗った。一度空を見上げて雲を見る。出雲を思い出す。八雲山を思い出す。蛇神様の最後の表情は笑っていた。でも、苦しんできた時間があまりに長かったのだろう。顔中に疲労という疲労が滲み出ていた。きっとこれで良かったのだと龍太は洗った手をジーパンにこすりつけて拭きながら思った。
体内をキレイにされた出雲の蛇は他のイラブーと一緒にバイカンヤーで薫製にされるために整形される。とぐろを巻くもの、真っすぐな形のもの。真季は「まっすぐで」とおじいにお願いした。そして、蛇は皆、薫製にされるべくその体をバイカンヤーの中に安置される。台風が来ようが、地震が来ようが、これから7日間、この小屋で燻される蛇達。
「ちょうど来週の週末に来たら薫製になっているさー」
おじいが笑顔で教えてくれる。真季も龍太もその言葉に静かに頷く。間違ったことはしていない。あの掌で感じた大量のヘドロと寒気を感じる鳥肌ものの気味の悪い無数の卵。それを体内に抱え続けていただけでも苦しかっただろうと龍太は改めて思った。真季は何度もその苦しみの声を心で聞いた。7日間、キレイな体でバイカンヤーに燻されてあの蛇は身を清めるのだろう。体は死んだとしても魂はまだバイカンヤーにあるのならば、その魂は全てを汗にして流す気持ちいいバイカンヤーサウナで爽快な気分を味わっているかもしれない。薫製にされることであの蛇の魂は浄化されていくと信じたい、そう真季と龍太は祈る。




