【グゥキマーイのティルル】⑥
糸満漁師団は、5時間後予定通りに黒潮に乗った。流れに合せて北に取っていた進路を東に変えると船は倍以上のスピードで海流を飛ぶようにして進んでいく。船を操る漁師達の体には絶えず大きな力がかかり、その力を踏ん張って受け止めて操船していく。海流という速度制限なしのハイウェイを最高出力で走り続ける。15時を過ぎて日が少し傾きかけた頃、トカラ列島が目の前に見えて来る。ヤギは無線で指示を出す。
「黒潮の左端に寄っておけ。本流に乗ると紀伊半島まで一気に持ってかれる。俺達が行かなきゃいけないのは伊勢神宮の方向に向かって流れる海流じゃない。出雲大社の方。支流の対馬海流に乗らないと出雲には行けないさ」
皆、少し舵を左に切り、勢いよく前に進みながらも斜め左に向かって走っていく。太陽の色が少しずつ赤みを帯びて来た時に、宝島が右手に見えてくる。女神山が美しく夕日を浴びている。ヤギは右手で舵を握りながら、左手だけを顔の前に出して山に向かって拝む。どうかこの航海が安全でありますようにと。そして、無線で皆に伝える。宝島越えたら、対馬海流に続く支流と紀伊半島に流れる本流がくっきりわかれてくる。何が何でも支流にしがみつけと改めて指示する。西の空に太陽が沈んでいく。真っ暗闇の中、ライトを点灯した糸満漁師の船団のまわりをマグロやカツオが泳ぎ、イルカが海面をジャンプする。海の底に目をやるとジンベイザメの影が見えるような見えないような。太平洋のメインストリート。ヤギ達一向はその魚達に見送られるような形で本流から支流に船を進める。ヤギはGPSを確認する。間違いなく対馬海流に入った。糸満漁師達は一瞬足りとも休むつもりはない。引き続き全速力で船を前に進める。それでも黒潮本流に比べると対馬海流は幾分緩やかな流れであることに皆、少しほっとする。そして、あの黒潮を全速力で駆け抜けた事実に達成感を感じる。後はこの対馬海流の流れに乗りながら、真季と龍太のサバニを探す。どうか二人の目にこの掲げた大漁旗が見えますように。この大漁旗が広い海の上で少しでも目印になればいい。このド派手な大漁旗と日章旗を見てサバニの上から手を振ってくれれば間違いなく俺達はそのSOSを見逃しはしない。そう六十三隻の漁船に大漁旗を掲げさせた意味をもう一度思い出しながらヤギは握ったハンドルに力を込める。
真季は倒れた龍太を寝袋に押し込んだ。そして、タオルを海水に浸して、しっかりと絞り龍太の額に当てる。だけど、タオルの水分があっという間に蒸発して乾いてしまう・・・。龍太は命が沸騰するほどの熱を体内に持ってしまっている。少しでもその熱を冷まそうと真季は寝袋に包まれた弟の体中に海水をかける。びしょびしょになるけれど、水分を含んだ寝袋が全身を覆う冷えピタのように龍太の体中を冷やしてくれることを真季は念ずる。しかし、寝袋の表面に湯気があがる・・・。嘘・・と真季は目の前で起きている信じられない現象に冷汗をかく。龍太の顔から流れ出る汗の量が尋常じゃない。真季は意識をなくした龍太の口を開けて、水を飲ませる。このままこの勢いで汗をかき続けたら、体中から水分を失ってしまわないかと怖くなる。塩分がなくなると困るから、海水をすくいとり、真水で薄めて、龍太に飲ませたりもする。そうこうしている間に寝袋が乾く・・・。
「嘘でしょ・・・」と真季はつぶやきながら、再び海水をくみとって、龍太の体中にかける。そして抵抗できない現実を目の前にしながら、真季はサバニの上でただただ海流に流される。何度龍太の体を冷やそうとしても意味をなさなかった。真季は篭の中に入った蛇の顔を見る。助けて・・と蛇の目を見つめながら悲痛な思いで祈る。蛇は真季の視線を真っすぐに受け止めるけれど、何も話かけてはくれない。辺りは暗くなり、月が艶やかに輝き始める。何もできない運命を目の前にして、真季はただ月を眺める。月といえば兎。今頃、あの皮の剥げた兎はせりさんに飼われて元気にしているだろうか。少しは皮膚がはえてきてきれいな白い毛で覆われはじめただろうかと真季は思う。とても静かな夜の海。月を見て少し心が落ちつく。真季はその後、3度海水をくんでは龍太の体にかけた。何時間経っただろうか・・・夜の涼しさとともに龍太の熱はようやく少しだけ下がったように見えた。相変わらず汗の量は多いけれど少なくとも湯気は出て来なくなった。真季は少し安心して濡らし続けた寝袋から龍太を出して、着ていた服を脱がせてタオルで体を拭き、新しい服に着替えさせる。そして、ミルク屋のジョーが真季のために用意してくれた寝袋に龍太を入れ直す。それから、真季は濡れた寝袋を帆柱にかけて乾かし、サバニに積まれた食料と水が後何日分あるか確認する。この看病と漂流は長期戦かなと真季はため息をついて覚悟する・・・。服を着替えさせる時に抱きかかえた龍太の体の余熱が真季の腕に残る。
龍太は意識を失った世界で夢を見る。夜の海に溺れかけて苦しい。泳ぎは得意だから溺れる自分なんて考えたことがなかったけれど、海の力は人間のちんけな自尊心を粉々に打ち砕き、海の底にその命を引きずりこもうとする。龍太はその力に抗いながらなんとか海面に出ようとする。しかし、バタ足する足が痙攣してつってくる。なんとか動く上半身で体を浮かせようとするけれどうまくいかない。足下に目をやるとそこには光の届かない真っ暗闇しかない。体を動かして少しでも抵抗しながらなんとか浮き上がろうと暴れる。だけど努力はむなしく儚い。足首を掴まれて海に引きずりこまれる感覚を味わいながら龍太は顔を上げる。透き通る海の向こうに輝く小さな月が見える。光は龍太の目まで微かに届く。海の奥底に沈んでいく龍太は体にかかる水圧で口から空気を吐き出してしまい、体内の酸素を全て失う。海の底に沈んでいっているのに、意識は浮いていく感覚。苦しみが少しずつ中和されて、体が楽になっていく。自分の口から漏れた空気が泡になって水の中をのぼっていくのをとろんとした目で龍太は見る。あああ、死ぬのかなと思う。その運命を受け入れるしかないのかと思う。死ぬ前の最後の思い出にと思って見上げた海面。一艘のサバニが見える。そして、そのサバニから海底を覗き込んでいる男が二人いる。龍太は消えかけの力で「助けて・・・」と声にならない声を絞り出した。するとサバニに乗っていた一人の男が海の中に飛び込んでくる。大きな鮫のような体で水圧をものともせずに暗い海の奥底まで勢いよく潜ってくる。その泳ぎ方を龍太は懐かしく思う。そして自然とわかる、あれは寅也おじいだと。寅也おじいは鮫よりも早い泳ぎで龍太を捕まえ、自分の肺の中に溜めておいた空気を龍太の鼻をつまんで口から一気に龍太の肺に向かって吹き込む。そして、龍太の口を抑えたまま空気が漏れないように、龍太を抱きかかえ、自分は孫に全ての空気を与えた真空状態の体で海面を目指して昇っていく。龍太はただ寅也おじいの体に身をまかせる。懐かしい・・・。小さい頃に久高島の海で泳ぎを教えてもらっていた頃と何も変わらない。龍太の目からこぼれた涙が一筋、海水に混ざる。そして、二人は月明かりが反射する海面に顔を出す。寅也おじいはびしょびしょに濡れた髪の水気を頭を左右に振って飛ばす。そして泡盛の匂いがこびりついた年期の入った口臭で、「龍太、よく頑張ったさ。お前は久高の海人だ」と龍太の頭を乱暴に撫でて褒める。サバニを見上げると熊おじいがいる。熊おじいは龍太に手を差し伸べて、龍太をサバニに引っ張り上げる。それから優しく頭を撫でて、「お前は久高の誇りさ。いい男になった。いい海人になった」と皺だらけの笑顔で龍太に語りかける。
ついさっきまでの苦しみが嘘のように龍太の体内から毛穴を通して蒸発していく。汗をかくだけかききった。もう体に苦しみも熱もない。
龍太は、熊おじいと寅也おじいにサバニの上で出雲までのサバニの航海を自慢げに話す。そして、出雲についてからのことや戻る航路が大変だったことを全部話す。熊おじいと寅也おじいは、サバニに積んであったニライカナイ産の一升瓶の泡盛を飲みながら、可愛い可愛いひ孫であり孫である龍太の自慢話を酒のつまみに嬉しそうに聞く。熊おじいも寅也おじいもこんなうまい酒は飲んだ事がないという顔をして、何回も杯を交わす。ゆっくりと時が流れ、夜が終わり、朝が来て熊おじいも寅也おじいも海の上、サバニの舟上で気持ち良さそうに寝転んで太陽を浴びながら昼寝をする。龍太も一緒に昼寝をする。海人が3人、大海原で昼寝をする姿を太陽は微笑ましく見守ってくれていた。
真季は一晩眠らずに龍太の看病をした。とにかく脱水症状にだけはならないように定期的に龍太の口に水を少しずつ含ませた。時間とともに龍太の体からゆっくりと汗がひいていった。表情も穏やかになる。なんだか若干嬉しそう。意味不明。龍太の額に手をあてると高熱が嘘のように消えていた。まだ目を覚まさないけれど、鼻から漏れる寝息が命ある証拠。気持ちよさそうな顔をしている。何でだろう?何か良い夢でも見始めたのかなと真季は推測する。そして、真季は安心して大きく上半身を伸ばして、あくびをした。サバニは一晩流されて、今自分達がどこにいるのか皆目検討がつかない。ま、仕方ない。龍太が目を覚ましたら、また西を目指せばいい。太陽が昇る方角と沈んでいく方角がわかるのなら、なんとなくどっちにいけばいいのかはわかる。それに日本海は太平洋と違って、大陸と日本列島の間にあるから、流され続ければ、きっとどこかの陸地に辿り着ける筈と信じてみる。もう焦ってもしょうがないと腹をくくった時に、東の空から太陽が昇ってきた。真季はその事実にほっとする。昨日と変わらずに今日も太陽が空に昇ってくれた当たり前の奇跡に感謝する。大きな海に投げ出されて途方に暮れたけれど、世界はいつも通りの時を刻む。悲観しすぎることはない。そもそも久高島を出た時にこれくらいのことは覚悟してきたのだ。原点を思い出せば、今自分がどこにいるのかわからなくなっても、きっと行くべき場所を見つけ出せる。真季は昇り立ての太陽を見ながら、もう一度大きくあくびをする。溜まりに溜まった眠気が目の端に涙となって浮かぶ。目を擦って、少し眠りたいなと真季が思った瞬間、水平線に幻が見える。何かの見間違いだろうと真季は確認するように目を擦る。眠すぎて頭がボケたかと思うけれど、その幻だと思うものはまだ見える。両方のほっぺを同時につねる。痛い。結構痛い。水平線の向こうからその幻だと思うものが近づいてくる。真季は思い出す、旧正月の糸満漁港の光景を。ど派手に飾り立てられた大漁旗と日の丸の旗を天まで届きそうな長い棒にいくつも掲げている漁船の風景を。その漁船が何十隻も旗を掲げながら横一線に並んでこっちに向かってやってくる。船団はどんどんこっちに向かってくる。真季の鼓膜にエンジン音が聞こえ、人が船の上で叫んでいるのが聞こえる。幻じゃない。真季はまた瞳を涙で溜める。今度はあくびのせいじゃない。糸満漁港の漁師のおじさん達だ。ヤギの漁船が先頭を走ってくる。ヤギの叫ぶ声が聞こえる。真季はサバニの上に立ち上がって両手で大きく手を振る。ヤギは言葉にならない気持ちをただ雄叫びにして叫び、真季に向かって大きく手を振る。
「まーきー、待ってろよー。今、助けてやるからなー」
ヤギは涙目になりながら今、目の前にある奇跡に胸を震わせる。あの二人は生きていた。そしてその二人を見つけることができた。その感動に何度も涙を拭く。情にもろい糸満の海の男達は一様に皆、涙を流しながらヤギと同じ気持ちになる。そして、漂流するサバニの横に船をつける。ヤギは、サバニに飛び乗る。思わず、真季を強く抱きしめる。
「まーきー、よく生きていたさ。頑張ったねー」とヤギが言った後、緊張の糸が切れた真季はヤギの大きな胸に顔を当てながら大声を出して泣き始めた。怖かった気持ちが一気に感情の奥底から溢れ出す。ヤギはその気持ちを受け止めながら、背中を何度もぽんぽんと叩く。真季はヤギの胸で泣けるだけ泣いた。そして顔をあげる。涙を流し切った真季の表情はさっぱりしている。真季は鼻水をすすりながら龍太の側に行き、ヤギに眠っている龍太について話す。
「龍太、昨日の夕方に炎みたいな熱を体に抱えて大粒の汗をかきながら、倒れて意識を失ったさ。もの凄い高熱でずっとタオルに海の水つけたりして冷やしてもお湯になって蒸発する。とにかく海水をかけたりしてなんとか熱が下がるようにしたけどなかなか下がらんかったさ。だけど、さっきやっと熱が引いた。龍太がいないとサバニを動かせないから、そのまま海の流れに流されて一晩過ごした訳さ。まだ目を開けないけど、息はしっかりしているからちゃんと生きていると思う」
ヤギは真季の説明を聞きながら、真季の目を真っすぐに見つめて何度も頷いた。
「もう、心配しなくていいさ。後は、俺達がちゃんと二人を沖縄まで連れて帰るからさ」とヤギは真季の気持ちを落ち着かせる。
ヤギは真季を自分の漁船に乗せるために甥っ子に簡易梯子を船にかけさせた。甥っ子達が船上から手を差し出して真季の手を掴み、船に持ち上げる。ヤギはサバニの上で寝袋にくるまれた龍太を見つめる。一歩龍太に近づくとサバニは右に左に不安定に揺れる。よくこんな小さくて原始的な木の舟でこんな遠くまで来たもんだと、ヤギは呆れながらも、プライドをくすぐられる。糸満の海人と久高島の海人は、同じ海に生きる男としてライバルでもある。同時に誰よりもお互いのことをわかりあえる同士。ヤギは龍太を寝袋ごと肩の上に抱きかかえる。そして、久高島の海人の血はとんでもない天才を産んだもんだと心から尊敬し、久高島の海人の歴史に心からの敬意を払う。糸満も負けちゃいられないとヤギは心地よい敗北感に浸る。龍太を自分の船に積んだ後は、仲間の漁師に、サバニを運ぶために漁船とサバニをロープで結ぶように指示する。六十三隻の船を横に並べて日本海中探し回る覚悟だったけれど、海の神様のお導きだろうか・・・無事に二人を保護できた。ヤギは朝焼けに向かって両手をあわせて感謝の祈りを捧げる。柔らかい陽の光が航海の無事を祈る旗、日の丸を輝かせる。季節風が旗を勢いよくはためかせる。神様ってのはやっぱりいるなとヤギは六十三隻にはためく200を越える大漁旗を見つめて思う。ヤギの甥っ子達がサバニに乗り込んで荷物を漁船にあげてくれる。それを真季は船の上から受け取る。篭の中の蛇と目があった甥っ子は絶叫し、恐る恐る篭を真季に渡す。真季は篭を受け取って中を覗き込む。蛇神様と目が合う。舌をペロっと出した蛇神様はなんだか笑っている気が真季にはした。助けてとお願いした時、何も言ってくれなかったのは、こうなる未来を既に予知していたからだろうか。真季は蛇神様に向かって「神様、ありがとう」と小声で伝えた。蛇は左目を閉じてウィンクする。そして眠いのか、篭の中でとぐろを巻いて丸まって目を閉じた。真季は言い足りなくてもう一度「神様、ありがとう」と話かけたけれど、蛇神様は気持ち良さそうに寝てしまっている。




