【花指し遊び】⑤
龍が喉を鳴らすようにして雨雲がゴロゴロと鳴り続ける。猫が喉を鳴らすのとは迫力が違う。勢いよく降る雨。龍太の頭皮に当たる雨粒が時間とともに大きくなっているように感じる。真季は濡れて目に張り付く前髪をかきあげて、振り返って降りてきた山道を見上げた。木々が隙間無く生い茂り、生命の力が濃厚な緑に色づいている。そして地面に根を張った木の幹が自分達を取り囲んでいる。踏みしめるぬかるんだ大地は生きている。真季は生命の鼓動を足の裏に感じる。
「山が大きな大木だとしたら、私達がこれから更に降りて行くこの山道は根の国に繋がっているのかしら・・・」
山を降りれば降りるほど、地中深くに自分の存在が埋まってしまう感覚を真季は感じる。根の国・・・。真季が思いつきで呟いたその言葉がなぜか龍太の心に響く。なぜだかはわからないが、龍太はその根の国というところに行ったことがある気がする。否、それはとても身近な場所のような気もする。でも、なぜそう思うのかはわからない。龍太はよくわからないまま、「行こう、そのまーきーが言う根の国へ」と真季の背中を軽く押した。前に進もうと促した。真季も不思議な気配を感じるこの獣道の奥の奥に行かなければと足を一歩踏み出すけれど、次の一歩が出ない。立ち止まってしまう二人。これ以上、この山を下っていくことに不安を感じる真季の表情を見て、龍太が笑う。
「なんね、まーきー、怖い訳?」
龍太にからかわれるけれど、真季の心はこれより先に行くことの重みを感じて、そう簡単に行くべきかどうかを判断できない。龍太は鼻の頭を指でぽりぽりとかきながら、しばらく考え込んだ後に真季に話かける。どーでもいいことを。
「あのさー、寅也おじいが昔教えてくれたんだけど、鮫のおちんちんって二つあるんだって。おちんちんが一個もない女のまーきーに言っても意味わからんかもしれんけど」
真季は突拍子もないことを言い出した弟の顔を見た。こんな時にくだらない冗談を言うなんて信じられないと改めて弟を軽蔑しようとするが、下唇を出した龍太の顔がふざけながらもキリっとしている。どーでもいいかもしれない話を続けようとする龍太の顔には何か信念めいたものが薄ら浮き上がっている。
「きっと、鮫はおちんちん一個なくなっても後悔しないように生まれてきたんだと思う。でも、それは鮫だけじゃないさ、多分。基本、生き物はなんでもかんでも二つ持ってこの世界に生まれて来ると思う訳さー。保健体育で勉強したけど、女の人の卵巣は二つあるさ。目も二つ、鼻の穴も二つ、手も足も二つ、この世界を作った神様はきっと一つなくなっても大丈夫なように命に必要なものを二つずつ作ってくれた訳さ。長い歴史の中でいらないものは退化していって失ったものも多いけれど、それはここではないどこかの世界で使うために神様が大切に取っていてくれていると考えることもできるんじゃないかって寅也おじいに話を聞いた時に小さいながらずっと俺は思っていた訳」
「はっ、どういうこと?」
真季は眉をしかめる。弟は何を語り始めているのだろう。
「鮫と違って人間の男はおちんちんは一つしかないけど、一応ありがたい御金玉様は二つあるから鮫と同じで二個あると考えましょう。棒は一本しかないけれど、それは進化する上で御金玉様さえ二個あれば、棒を失わない限り二つあるのと変わらないと。だから棒は大事にしなきゃいけない、進化の過程で人間が一本あればなんとかなると思った訳だから」
「こんな場所で下ネタを姉に聞かせてどうしたいの?頭おかしくなった訳」
真季は弟の常識外れに呆れ果てて両手を広げる。雨に濡れ、雷の音を聞き、弟の下ネタに耳を傾けなければならない自分が馬鹿馬鹿しくなる。その姉に龍太は訴えかける。
「寅也おじいのその鮫のおちんちんは二つある話を聞いてから、ずっと人間が持っている二つあるものを考えていた訳さー。人間のおちんちんは御金玉様が二つあるから二つと考えてよかろうと。脳みそも右脳と左脳とあるさ。だけど、いつも一つ一番大事なものが二つないのは何でだろうと思っていた訳さ」
「なんね、その大事なものは?」と真季は声を荒げて龍太に聞き返す。
「心臓。左側にしかない。なんで人間の体で一番大切なものが左側に一つしかないんだろうといつも思っていた訳さ。もしかしたら遠い遠い昔、人間のこの右胸の奥にも同じように心臓があったんじゃないかって」
真季は思わず黙り込む。龍太が小さい頃からそんなことを考えていたなんて初めて知る。一応哲学的。でも子供の空想。馬鹿馬鹿しい。
「そして、俺は思った訳さ。右側の心臓は神様に預けているんだと。左側の心臓が止まって死んだ後、天国であるニライカナイに行って右側の心臓を返してもらって生きて行くんだって」
真季はその話を聞いて、弟が何を言いたいのか全くわからなかった。
「だから何ねー?」
「ということは、人間は自分らしく生きていいということさー」
「はっ?」
「右の心臓は神様が預かってくれている。神様はそれを左の心臓が止まった後に人間に天国で返してくれる。つまり神様が意図するところは、左の心臓が止まるまで自分が思うがままにがむしゃらに生ききりなさいと人間に伝えてくれている。否、むしろ神様は人間にその左の心臓の命を燃やし尽くせとプレッシャーをかけている訳さ」
真季は弟の常識外れの意見に右脳の奥が痛くなる。なぜこの弟の姉に生まれてしまったんだろう。真季が頭を抱えていると龍太は真季を追い越して獣道を歩き始めた。真季は慌てて後に続く。
「左の心臓は今を生ききるためにある訳さー。こんなところで立ち止まっていたらもったいないさー」
それが龍太の言いたいことだった。周りくどい。それを聞いて真季はなんだか悔しくなった。自分の前を歩いて行く弟が許せなくなって、追い越して自分が先頭にたつ。雨はどんどん勢いを増し、風が木々を揺らし、雷が空で唸り続ける。でも、もう真季は気にしない。山を夢中になって下って行く。迷いはない。なぜなら、この世界に生まれた時、右の心臓は神様に預けている筈だから、怖いものなんて何もない。