【エーファイ】③
久高島。沖縄本島東南端に位置する知念岬の東海上約6キロの所にある周囲8キロの小さな島。南城市知念にある安座真港からフェリーで約20分と気軽に訪れることができる島だが、気軽に訪れるうちなんちゅー(沖縄県人)はいない。むしろ「久高には行ってはいけない」と先祖代々教えられてきた家が多く、うちなんちゅーにとっては、近くてとても遠い島である。人口は270名程度。スーパーもコンビニもなく、島の一番高い場所でも17メートルと我々現代人が身近に感じている便利さは何一つない平べったい小さな島である。信号機すらない。このような田舎の離島は、時間の流れの中で人々の記憶から忘れ去られていく運命にある筈。しかし、うちなんちゅー達は自らの遺伝子の奥底に流れる記憶の水脈にこの島の存在を感じる。忘れることのない先祖より受け継いできた無意識の水流をたどるとそこに記憶が湧き出る泉があって、その中をのぞくと古代から続く神々への我々の信仰心が沈んでいる。琉球開闢の祖アマミキヨが天から降りて最初に作ったといわれる久高島は「神の島」と呼ばれ、いにしえの時代より悠久の時の流れの中で聖域としてうちなんちゅーの心の中に息づいてきた。久高島の土地は神様からお借りしているものとして考えられ、現在でも土地の私有が認められておらず、ひいては島にある自然は全て神様の所有物なので島外には持ち出してはならないという暗黙の掟がある。貝や石などを島の外に持ち出すと神の祟りがあると信じ続けられ、嘘のような話だが、現代でもその掟を破った観光客が交通事故にあい大怪我をするなど神の怒りに触れたとしか思えない事象が起き続けている。久高島の人間以外が島に入る時は事前に島の掟を勉強するなどの準備と、神と島とそこに住む人々を敬い、そして恐れる心を持たなければならない。聖域を荒らし汚せば全て自分の身に災いが降り掛かることを肝に銘じる必要がある。
糸満市から久高島へ渡るフェリー乗り場安座真港までは車で約30分ほど。龍太の父、地方公務員の太が軽自動車のハンドルを握り、港を目指しながら家族4人で沖縄南東部の海沿い、起伏の多い場所を通る国道を走る。右手に見える海は広く、そして美しい。龍太は、後部座席右側からぼーっと海を眺めるが、月子は助手席で居眠りをし、姉の真季は龍太の隣で七福神が船に乗っているイラストを壁紙にしたスマートフォンをいじり続けている。真季は昔から七福神のニコニコした顔を見ていると心が和むと龍太ならびに家族に熱く語る。たまの家族サービスのため、太は海沿いの国道331号線を一本山側の道に入って遠回りを思いつく。海を一望できる絶景観光スポットとして人気なニライカナイ橋を高台側から下っていくドライブを太はしてみたりするが家族は皆無反応。広くて青い海を見慣れているうちなんちゅーの月子は助手席で居眠りを続行し、龍太は特に感動もせずに海を眺め続け、真季はスマホをいじり続けている。太のむなしさここに極まれりという心境だが、無念さを噛み締める間もなくもうすぐ安座真港につく。真季は車中ずっとスマホを触り続けている。そしてそれを怒ることもできない自分がいると太は思ったりもする。真季は小さい頃から病気がちだったため、体調不良の時は家の外に出られなかった。体調の良い時はもちろん外で同年代の子達と遊ばせた。真季の友達が用事で遊べない時などは弟の龍太と遊んでいた。親としてできる限り真季を日光の下で遊ばせる努力はしたつもりだが、無理はさせられないためどうしても室内に娘を閉じ込めざるおえなかったのも事実。そんな真季と友達をつなぐツールが携帯電話やインターネットで、外に出られない日も真季が友達とのつながりを感じられる唯一の手段だった。また、家にいることが多いため、その環境下でいかに楽しんで心地よく生きていくかということを自然と考えるようになり、家電製品などへの興味は子供ながらにして大人の倍以上あった。まさしくデジタルキッズとは真季のことであり、かたや龍太は基本的に海で泳いで楽しければ、それ以外の物事への執着心が全くないといっていい程のアナログ坊や。同じ遺伝子を受け継いでいても似るとは限らない。
雲に隠れることなく東の空に太陽がむき出しになっている。その強い日差しが車のフロントガラスを通して月子の鼻の下と半開きの口の上にあたる。熱いのか、月子は指で無意識にその部分を掻いた。掻き終えて一旦また深い眠りに落ちたように思うが、やはりまだ熱いのか、日差しの強さに降参したかのように今度は左腕で目をこすりながら、大きなあくびをして、平和な眠りから陽の当たる世界に目を覚ます。「今どこ?」と月子が聞くと、太が答える前に真季が「もうすぐ港」とスマホを見ながら返す。携帯をずっと眺めていたから真季は自分が今どこを車で通っているかわかってないんじゃないかと思っていた太は、ささやかだが嬉しい気持ちにはなる。もしかしたら見ていないようで、真季はオヤジのささやかな家族サービスであるニライカナイ橋からの美しい空と海を見てくれていたかもしれない。そんな淡い期待が海からのそよ風のように車内に吹き込んできたかと思った時に、ちょうど安座真港についた。
駐車場に車を停め、軽自動車のトランクから大荷物を降ろす。島にはスーパーもコンビニもファーストフードも何もない。久高島に渡る時は島の親戚にあらかじめ電話をして、欲しいものを事前に聞く。だいたい安座真港に行く前に糸満市内のスーパーなどで色々と買ってから島に渡る。太の実家界隈のお隣さんのところに内地に行った孫達が帰ってきているというのを電話で聞いて、ケンタッキーでフライドチキンのパーティーバレルを一バケツ買って車のトランクに積んであったから車中には香ばしくて美味しそうな匂いがずっと充満していた。そんなものが喜ばれるの?というようなものが離島の生活ではとても貴重で皆から感謝される。
月子が慣れた足取りで家族全員分のフェリーのチケットを買いに行く。チケット売り場のおばさんとは顔なじみのため軽い雑談をかわして車に戻ってくる。太は両手いっぱいに荷物を抱え、戻ってきた月子が残りの荷物を子供に持たせようと真季と龍太に視線を投げる。そして月子の怒りのスイッチが入る。龍太は6キロ先の久高島まで泳いでいこうと服を脱いで車の運転席に投げ込んでいる途中だった。今回はゲンコツではなく、母の飛び蹴りが龍太のお尻の尾てい骨のあたりに入る。「ふおっ・・・」と龍太は声を漏らす。そして悶絶してうずくまる。真季はスマホの充電がなくなるのを気にして、携帯をいじることをやめ、安座真港の売店で売っている昔買ったクバの葉で作った内輪で自分の顔をあおいでいた。暑いのは嫌い。涼しいのが好き。そんな真季は母と弟のやり取りには特に関心をしめさずにいつものことといった感じで流していた。
「痛いさー」と龍太が涙目で言うと、月子はこめかみに血管を浮かび上がらせながら言い返す。
「あんたここから久高の間に深い海の溝みたいなとこがあって、そこの潮の流れが速いの知らんの?海流に持ってかれたら死ぬよ」
「知ってるしー、おじいに聞いた。風が強かったりすると信じられんくらいの高波になるって。でも今日は晴れてて、海は静かだから心配ないさ」と龍太が反論してくるのを聞いて、月子は龍太の股間を蹴り上げてやろうと思うが、将来かわいい孫が生まれなくなる可能性を考えてやめた。
「あんた、海が好きなのはいいけど、海がどれだけ怖いかまだわかってない。そのおじいだって海に出て死んださ」と母親が口にした瞬間、龍太は何も言えなくなる。「海でおじいが死んだ」という事実を龍太に突きつけると、龍太はただ黙って涙目になり、静かになる。月子自身、この言葉は言わないでおこうと思い続けながらも龍太に海の怖さを知らせるために言わざるおえない言葉になっている。「海でおじいが死んだ」という言葉を口にすると家族全員静かになり、口数が少なくなる。おじいだけではない、おじいの父であるうふおじいも、その前の一族の男達も海で命を落としている。龍太はトランクス一枚になった半裸姿に、改めて運転席からTシャツと短パンを取って着直した。そして大人しくケンタッキーのパーティーバレルを左脇に抱え、島酒の一升瓶が二本入ったスーパーサンエーの袋を右手に持ち、フェリーに向かって歩いて行く。
最近のパワースポットブームのせいか、もしくは時代が第六感を必要としなくなったせいか、逆にそのような目に見えない力に魅せられる人達が久高島行きのフェリーにちらほら。うちなんちゅーは久高には行きたがらないから県外の人達だろう。神の島とはいえ、生きていく上で資本主義経済に参加しないわけにはいかない。物々交換が化石となった今の時代に、お金を稼ぐ術としての最低限の観光はやっている。土地が私有化されていないため、大型資本がこの島にリゾート施設を作ることもできない。その必要もない。作れば神様に末代まで呪われる。港近くの島の南部住居地区以外は剥き出しの自然と神々を迎える御嶽のみ。むしろ人工的な手が入っていない、何もない空間が現代に残った奇跡として受け止められるのか?コンクリートで固められた地面の上に生きる都会から来た観光客に何かを問いかけるのだろう、我々の歩んできた文明は迷走してはいないかと。そんな哲学的な旅がブームであるのなら幾分か静かだろうが、実態は自己の幸運と幸せを祈る旅。むしろ観光客はパワースポット巡りを前にして興奮気味で騒々しい。外来からのテンションはやはり沖縄県に根ざしたものでないだけに地面から10センチほど宙に浮き上がっているようには感じる。観光が主要産業である観光立県である沖縄としては、一時的に重力を見失っている来訪者も笑顔で迎えるのが生業である。決して「あなた重力失っていますよー」とか「地に足がついてませんよー」と注意したりはしない。彼らにとって沖縄の青い海と空、そして南国の眩しい太陽の下にある世界は天国なのだ。天国にいる人間の耳に届く言葉は地上からは遠く、何を言っても仕方ないということをうちなんちゅーは肌感覚で知っている。だからお金だけ落として、そういう外来種は早く帰ってくれと思う。またこの天国の島に来たいと思うのならば、すこしは沖縄のことを勉強してまともな振る舞いができるようになってから来てねという淡い願いを少しだけ胸に秘めながら。残念ながら初めて沖縄を訪れる多くの人がなぜか上から目線。島文化に何度か接して沖縄と同じ目線になる観光客はどこでも歓迎されるのがいちゃりばーちょーでーカルチャー(皆兄弟)。龍太も来年高校入学というくらいの年になってそのズレには気づいている。とはいえ、そんなもんかな?としか思わない。まだまだ世界で起きていることで何が正しく、何が間違っているのかの判断はつかない。でも、どうやら現在進行形の世界情勢のメイントピックの一つが日本列島の南方に浮かぶ島、この沖縄だということも気づいている。なぜこんなにも太平洋地域に利害を持つ世界の大国達がこの島を欲するのか・・・。龍太には本土より文明が遅れた小さな島にしか思えないのに。海風が顔面に思いっきり当たる。海を見ながらこの島が背負い続けてきた運命をまじめに考えてみたりすると、お馬鹿な中学生ですら胸がつまる。沖縄戦で死んだ人達のことを思って、なぜ人間は戦い、殺し合うのだろうと考えたりもするけれど、遠い遠い昔から繰り返されてきた悲劇が今も終わらない事実に諦めを感じたりもする。
龍太以外の3人は船室の椅子に座って久高につくまでの短い時間を思い思いに過ごしていたが、龍太はフェリーの後方部オープンデッキで、船のスクリューがしぶきをあげて描いて来た港からの海上の道を立ちながらずっと見つめていた。そして、それに飽きると少し顔をあげ遠くを見つめ、安座真港の真上の山の上にある二つのどでかい岩に目を向けた。小さい頃からあの二つの巨岩が気になってきたけど、だんだん見慣れた風景に変わって、気にもならなくなっていると思ったりした。そんなことを思ったり思わなかったりしながら、フェリーは久高島の徳仁港に着く。港に着岸しようとしているフェリーの船内から、県外から来たと思われる観光おばさん二人が訛りのある音程で話す声が龍太の耳にかすかに漏れ聞こえる。
「徳仁港の徳仁って、今の皇太子の徳仁様と全く同じ漢字なのね。皇太子様の名前をつけたのかしら?」
龍太はおばさん達がしゃべっている内容の意味がわからず、世の中検討もつかない話題がいっぱいあるもんだなと思ったりした。徳仁港湾内に入るといつも思い出す、おじいとの水遊び。龍太のヒーロー、寅也おじい。港へフェリーが着岸作業を行なっている間になんとなくいつも空を見上げてしまう、そこに寅也おじいのマブヤーが浮いていないかと。でも浮かんでいるのは真っ白な雲だけ。「龍太ーっ」と船室から母親の声が聞こえる。港に着岸したから荷物を運べという意味を込めた言葉。龍太は慣れた様子で船室に戻っていく。
久高島の集落は港近くの島南部に集中するため歩いてすぐである。港から坂道を登り、診療所や小学校がある通りを真っすぐに進み、小道を奥まで入るとおばあの家に着く。
「ただいまー」と太が玄関先から声をかけるとおばあが笑顔で縁側に出てきて「おかえり」と迎えてくれる。そしていつもならその後ろにうふおばあがゆっくりと家の奥から歩いてきて「待ちくたびれたさー、さあさあ入りなさい」と出て来ては迎え入れてくれるのだが、今日はそれがない。いつもと違う空気感に一瞬戸惑いを感じる。皮膚に触れる違和感にどう対処していいのかわからないが、とにかく荷物を置こうと皆で家の中に入って一番座に荷物を降ろす。そのまま二番座の仏間を見るとうふおばあの富が真っ白いシーツの布団の上で少し汗を掻きながら眠っている。元々細身のうふおばあだが、以前見た時よりも痩せたなと龍太は思った。そして、この二番座の仏間で白いシーツの上で眠るうふおばあの姿を見て、龍太は寅也おじいの死を思い出した。同じように白いシーツの布団の上で、右腕から右肩、右胸を鮫に食いちぎられ出血性ショックで死んだおじいが同じ場所に二度と起きることのない眠りについていたのを。小さかった龍太は葬式を翌日に控えたおじいの体にしがみつき、ずっと泣き続け、「おじい、海で遊ぼうよ」と言い続けたのを覚えている。おじいが死んでから・・・海に行けばおじいに会える気がして泳ぎばかりがうまくなって気づけばもう中学三年生になる。おじいが教えてくれた平泳ぎとバタフライ以外にもクロール、背泳ぎも覚え、個人メドレーができる海人になった自分。クロールと平泳ぎであれば軽く15キロは泳げる。海で背泳ぎするとどこを泳いでいるかわからなくなるのであまり試した事はないけれど、体力を使うバタフライでも5キロは楽勝で行ける。体脂肪が限りなく0に近い体の骨まわりに筋細胞が分裂を繰り返した力強い肉がつく。龍太は自分の左胸で心臓が勢いよく収縮している音を感じることができる。でも、うふおばあの細くなった右腕に浮き上がる青い静脈の細さを見ると、また大切な人の死という受け入れがたい事実が差し迫っているように感じた。
「どうなの病状は?」と月子が鶴子おばあに聞く。
「よくないさー。急に悪化することはないけど、少しずつ少しずつ弱っていく感じ・・」
「お医者さんは診てくれているんでしょ?」
「久高の診療所の先生が診てくれているけど、この島じゃ精密検査もできないしね」
「なんで、本島の病院に行かせない?」
「富おばあは、島を出たくないって嫌がるさ。何度も那覇の病院に行くよう勧めたけど。富おばあは、島のおじいやおばあ達が体調崩して久高出て本島の病院行って、病状がよくなることなく皆そのまま「生きているうちにもう一度久高に帰りたい」と思いながらも帰れなくて・・・。死んでから遺体で葬式のために久高に戻ってくるのをずっと見続けているから。一度島から出たらもう死ぬまでここに帰って来られないのなら、久高で死にたいと言い張る訳さぁ。そして、たまに調子がいい時は、今でも神様やご先祖様にあなた達の健康と幸せ、島の平和を祈りたいって。海で死んだ男達の霊を慰めたいって御嶽を拝みまわりしたがるから必死になって止めるさ。安静第一。もう富おばあは、70歳の時に神女を引退したんだから、休んでって。私が島の神行事はやるからって。富おばあと違って、私には霊力が全然ないけど、これでも最後のイザイホーに参加して、主婦として神女の儀式は受けいてるからさぁって言って納得させるの。でもそんな私も2008年には70歳になってしまったから神人は引退したんだけれど・・・」
鶴子おばあの話を聞いて、月子も太も何も言えなくなる。昔と違って人口もだいぶ減ったこの故郷の島で、自分達のように島で育った子供や孫の世代が島を離れて生きていく。そうすると老人ばかりが残ったこの島で老人を介護しきれずに、自分達が生活する本島の病院におじいやおばあに来てもらってそこで看病することになる。でも人生のほとんどを過ごした島を離れるのはとても辛いことだろう。そして、故郷ではない場所で人生を終えるのは本意ではないだろう。そんな悲しみを人生の最晩年におくらせてしまう。時代のせいだと一言で言ってしまえばそれまでだが、なんとなく悔しい気持ちが胸にこみ上げてくるのを月子も太も言葉には出さずに感じていた。その思いを一度落ち着けた後、太は「久高で死にたいか・・・。そうだよな」と呟いた。自分の無力さと向き合うようにして、誰に語りかけるでもなく、むしろ自分自身に問いかけるようにして口から言葉がこぼれた。
その会話のやり取りを聞いて、龍太は(イザイホーって何だ?)と心の中で思う。決して口には出していない心の中の独り言なのに真季が喋り始める。
「久高の女が神につかえる巫女になる儀式。あんた、久高の血をひいててそんな有名なことも知らない訳?」