【花指し遊び】③
空は透き通るように青い。台風のあの巨大な雨雲は一体どこに消えてしまったんだろうと真季は思う。真季の目には小さな雲が三つ映る。そしてその雲は風に流されて小さな山の向こうに消えていった。真季と龍太はゆっくり温泉に浸からせてもらって疲れを落とした後、ミルク屋のジョーに連れられて出雲大社にやって来た。初めて来たけれど観光客の多さにビックリする。ツアー客の団体が3人の脇を通り、ご利益を求めて本殿へと急ぐ。なんだか目が血走っているおばさんもいる。神様もあんなに必死な形相でお祈りされても引いてしまうんじゃないかと真季は思う。3人はゆっくり参道を歩く。龍太はきょろきょろ周りを見ながら大きな神社の光景を興味深そうに観察している。確かに沖縄にはこんなに大きな神社はない。なんだか新鮮。沖縄は何もない空間である御嶽に向かって祈るけれど、内地の祈りの場は何だか規模が大きくて唖然とする。真季が歩きながら大和と琉球の文化の違いを感じている中、突然「あっ、兎」と龍太が参道の奥を指差して声を出した。そこには小さな兎の像とその兎に語りかける男の人の銅像がある。3人は足を進めながら銅像に近づき、ジョーが嬉しそうな表情で龍太にその銅像について説明する。
「龍君、あれは因幡の白ウサギの神話の銅像さ。あの兎を助けたのがこの大社に奉られている大国主様。遠い古代のその昔、まだ天皇陛下のご先祖様が高天原という空の上の天上界から地上に降りてくる前に、大国主様はここ出雲を中心に日本に大出雲王朝を築きあげたんだ。そして、その国を現在の天皇陛下のご一族にお譲りになった。国譲りの後に出雲王朝は滅び、その大国主様をはじめとする出雲族の人々の霊を慰めるためにこの杵築大社が作られた。あそこで兎に優しい顔で手を差し伸びられている大国主様は天皇陛下のご一族にこの国を譲られた後、霊界に隠れられた。そして霊界を司る神様として古代からこの世界に君臨されている。霊界にて目に見えないものを治められている大国主様はこの世の全てのご縁を操る力を持つ。だからここ杵築大社は縁結びの神様なんだ。だから、これだけ多くの人々が霊界に君臨する大国主様にお願い事をしにくる。とはいえ、縁結びの神様の由来を知る人はほとんどいないけれどね。もちろん出雲帝国があったことを知る人も少ない」
頭の中がはてなマークで埋め尽くされる。真季も龍太も初めて聞く話。天皇陛下のご先祖様が空から地上に降りてくるってどういうこと???霊界を司る神様の大国主様は偉い人なの?というか、滅んだって尋常じゃなくない???・・・と真季も龍太もジョーの話に色々と心の中で突っ込みを入れる。
「出雲王朝って初めて聞きました」と真季が言うとジョーは答える。
「あまり古代王朝が有名になったら困る人達が大勢いたのさ、昔は。だから時の権力者達が自分達の権力を守るために、その存在を隠すために色々と努力したということ。出雲王朝があったという歴史をこの世界から抹殺するためにね。ただ、歴史から出雲の名を抹殺した権力者達は出雲の神々の祟りにあって死んだんだ。その恐怖に震え、やむなく杵築大社を創建し出雲族の霊を慰めることで長い歴史の中で祟りにあわないよう祈り続けた訳さ。今は言論の自由も学問の発達もあって、歴史が好きな人たちなら古事記、日本書紀、他の古書を好きに読んで出雲を語れる。いい時代。考古学的な観点からも研究が進んで出雲王朝の話を遠慮なくできる社会。歴史における学問や科学的分析の進歩は土に埋もれた出雲族の霊達が現代の人達に私達のことを忘れないでと訴えかけているからかもしれないね」
小中学校で習った記憶のない歴史の一場面が突然目の前に現れたようで、真季は軽いショックを受ける。沖縄県人は本土の人間を今でも「ヤマトンチュ(大和の人)」と呼ぶ。その大和の歴史を学校で勉強するけれども、大和には大和で色々と複雑な事情があるのだと思った。しかも大和の前に出雲がある?「ヤマトンチュ(大和の人)」の前に「イズモンチュ?(出雲の人?)」がいたなんて・・・。そんなミステリーたっぷりの会話を交わしながら3人は拝殿に辿り着いた。大きなしめ縄がかけられており、その下をくぐってお祈りの順番待ちをする。しめ縄の巨大さに驚く龍太が口を開けて眺めているとジョーが語る。
「しめ縄は蛇の象徴さ。古代の人達は蛇信仰といって蛇を神様として扱っていた。昔から続く日本の祈りの歴史を深く見て行くと必ず蛇に辿り着く。蛇が脱皮していく姿を昔の人は生き返ったと思ったのかもしれないね。再生の神様として蛇を崇め奉った。しめ縄もそう。綱引きもそう。皆、蛇を信仰してきた遺産さ」
真季はそれを聞いて「え、沖縄って各地のお祭りで今も縄で編んだ綱引きが定番で、那覇市は何十トンもある大縄を何千人で引き合います」と伝えるとジョーは笑顔で答える。
「それは、琉球にはまだ蛇神様を奉る祈りの伝統が忘れ去られずにしっかりと人々の心に根づいている証拠」
蛇について話している間に拝殿の順番が回ってきた。ジョーが二人にお賽銭のための5円玉を渡してくれる。そして、「兎を飲み込んだ蛇が八雲山で見つかるように私も祈ってあげるからね」と二人にウィンクして、ジョーは二礼四拍手一礼をした。真季も龍太もジョーのお祈りの作法を見た後、同じように真似て「兎を飲み込んだ蛇を捕まえて久高島に持って帰り、富おばあが元気になりますように」とお祈りした。次のお祈りを待つ人がすぐ後ろに行列を作っているため、あまり時間はかけられない。そそくさと拝殿を後にして三人は本殿に向かう。その道の途中、数名のおばちゃんが本殿後ろにある小さな山を指差して「あれが八雲山よ。まあなんてご利益がありそうなお山だこと」とうっとりする。それを聞いて真季がジョーに質問する。
「ジョーさん、あの山に入れば兎を飲み込んだ蛇が見つかるということですか?」
「いや、あの八雲山は本家八雲山ではないよ。出雲王朝が滅んだ後、この杵築大社ができた後に大社裏の山をそう呼ぶようになったんだろう。目の前に見える小さい八雲山は昔は蛇山なんて名前で呼ばれることもあったそうだけれど、それも本家蛇山ではない。これから行く熊野大社というところの真後ろが古代からある蛇山。そしてその隣にある出雲の国を見下ろせる高い山が出雲王朝の初代王であるスサノオ様が住んでいた八雲山。本家はそっちで、これから蛇を探しに行くのもそっちの本家八雲山。ここ杵築大社は出雲王朝最後の王様の大国主様と出雲の人々の霊を慰めるだけのところであって、遠い昔はこの辺りに人は住んでいないよ。ここは古代の頃は海だったんだから。目の前にある山をいつからか蛇山と呼んでみたり八雲山と呼んでみたりしたんだろう。その左右の山が鶴山、亀山という名前。とにかく名もない小さな山になんだかありがたい名前をつければいいと考えたんじゃなかろうか」
真季も龍太もジョーが語ることについていけない。本家が出てきたり、滅んだ後に作られたものがあったり。どうやらこの出雲大社の存在というものはとてもセンシティブなのだということだけは鳥肌感覚で納得はできた。ミルク屋のジョーはもしかしたら反体制派の危険な男なのではないかと真季は思う。沖縄は沖縄で時に過剰で過激な抗議活動や反対運動をしている市民運動の人達が多くいる。でも、なぜかほとんど地元の人じゃないから不思議。沖縄の地元にも多様な意見があるのにオール沖縄と大声で連呼しながら自分達と異なる意見をことごとく無視してプロパガンダを押しつける人達もいる。テレビや新聞で繰り返される建前的で偏向的な報道と地元のおじさんやおばさんが本音で話していることの内容の違いにギャップも感じる。なんだか沖縄にいると嘘のような本当、本当のような嘘が入り交じっていて訳がわからなくなる。誰かよくわからないけれど理想論や平和論を振りかざしながら隠れ蓑にして裏で己の利益や利権のために動いている人達がうようよいるんじゃないかと何気ない時にふと思う。まー、とにかく沖縄というのは一皮むけば非常に複雑でとてもややこしいところだけれど、ジョーさんはあの人達と同じだろうかと真季は思う。ジョーさんが語っていることが危険思想でないことを祈る。でも、ジョーさんは違う気がする。稲佐の浜で出会ってから、ずっと真季と龍太の声に耳を傾けてくれている。人の意見をちゃんと聞いてくれる人なんだと思う・・・。あの人達は人の意見を聞かない。ジョーさんは自分の意見だけを主張して、押しつけて、他の人の考えを無視する人じゃない。他人の気持ちを黙殺したり踏みにじったりする人じゃない。兎を飲み込んだ蛇を見つけたいという現実離れした話でも、ニコニコしながら聞いてくれて、信じてくれて、真季と龍太の話を聞き終わった後、自分の気持ちを添えて言葉を返してくれる。しっかりと話を聞いてくれたジョーからかけられた言葉はすんなり心の中に入って来る不思議。ジョーさんが話していることは危険思想とはまた別の次元なんだと真季はなんとなく感じる。むしろかなり洗練された哲学に近いものだろうか。出会ってからずっとジョーの言葉には温もりを感じる。安心感がある。ジョーさんは普通の人が知らないことを知っているだけで、今生きている世界を転覆しようなどとは一ミリも考えていない筈。むしろ、今生きている世界をジョーさんは心の底から愛している。そんな風に真季には思えた。三人は本殿の前に辿り着く。ジョーがお祈りをし、二人も続く。姉がドキドキしながら真剣にミルク屋のジョーという人間について考えを巡らせているのに、隣にいる龍太は心の中でお祈りというものができないたち性質なのか祈る内容が小さく口から漏れてくるのが聞こえる。
「富おばあをもう一度元気にしてください」
全くこの弟の能天気ぶりというか不器用というか、お祈りぐらい心の中でやってよと真季は呆れてしまうけれど、口から漏れたピュアな気持ちを聞いて思わず微笑んでしまう。沖縄という南の楽園で生まれ育った男達は、なぜか女から怠け者の烙印を押されては尻を叩かれながら生きているけれど・・・いつだって気持ちだけは優しく、純粋。ピュアすぎて少し幼く見えることもある。それが沖縄の男の悪いところでもあるかもしれないけど、良いところでもあると真季は思う。龍太のつぶやいた祈りの言葉がこの出雲大社の神様に聞き届けられるといいなと真季は心の中で祈った。
三人は出雲大社を後にし、駐車場へと向かう。次から次へと観光バスが駐車場にやってきてはツアーガイドが多くの人間を引き連れて拝殿や本殿を目指す光景が目の前に続く。3人はジョーの軽自動車に乗り込み、一般道に出た。人の多さに眩暈がしていた真季は出雲大社を離れて少しほっとした。軽自動車はどんどん山の方へと向かって走っていく。朝、ジョーが家に連れて行ってくれた時と同じ方角。さっきは疲れ果ててぼーっとしていたので気づかなかったが、左側に海が見える。
「波の静かな海ですね」と真季がジョーに語りかける。
「海じゃないよ。湖さ。宍道湖って言うね。遠い昔は海だった筈だけど、斐伊川が運んでくる砂が埋まって外海との間に埋め立て地みたいな陸ができた訳。ちょうどその上にさっきの杵築大社が立っている感じかな」
湖・・・こんなに大きな湖があるなんてと真季は思う。龍太は疲れているのか、後ろの座席で首を何度も上下にかくかくさせながら居眠りしている。家族以外の人が運転してくれる車で居眠りするなんて相変わらず常識なき弟に真季はイライラする。海にいる時の弟は頼りになるけれど、陸に上がった途端いつものこのマイペース。呆れる。宍道湖を背にして山に向かって車を走らせた先に熊野大社という道案内の看板が見える。もうそろそろだ。真季は少し緊張する。車はハンドルを右に切り神社の駐車場に入った。車が曲がる時に龍太は頭を窓ガラスにぶつけて目を覚ました。車を停めてサイドブレーキを引き上げたジョーが「ここでも蛇が捕れるようにお参りして行こう」と言って二人を案内する。
出雲大社と違って熊野大社には観光客は3名しかいなかった。風に木々が揺れる大きな山と涼しげに流れる小さな川が目の前にあるせいか空気が澄んでいて冷たい。なぜか無口になってしまう雰囲気がある。
「ここはどなたが奉られているんですか?」と真季が聞くとジョーはよくぞ聞いてくれたと嬉しそうに答える。
「さっきの杵築大社は出雲王朝の最後の王様である大国主命。そしてここ熊野大社は出雲王朝を作った最初の王様スサノオとその奥さんとお母さんを祀った神社。大国主命はスサノオの子孫でかつスサノオの娘と結婚して出雲王朝を発展させた王様であり、その王朝をスサノオの姉の天照大神の子孫に譲ったお方」
ふーん、と真季も龍太も思う。初めて聞いた。教えてくれる人がいなかったら一生知らないままで死んだだろうと思う。とはいえ人間関係が複雑すぎてよくわからない。スサノオの子孫の大国主命がスサノオの娘と結婚して、スサノオの姉の一族に国を譲った???
「さ、本殿へお参りに行こう」とジョーに肩を叩かれて二人は神様の前に立つ。祈ることはただ一つ。出雲大社でお祈りしたことと変わらない。
「富おばあを元気にするために兎を飲み込んだ蛇を捕まえられますように」
お祈りが終わり、熊野大社の裏手の山を差して、ジョーが言う。
「あれが本家蛇山。そしてその左隣にあるのが本家八雲山。あそこに探している蛇がいることを願おう。今お祈りしたスサノオの神様は、ここ出雲に高天原という天上世界から降りて来られて、八岐大蛇という首が八本ある山ほどに大きな蛇を退治なさってこの出雲の国を収める王になられた。そのスサノオ様が住んでおられた八雲山にいけばきっと探している蛇は見つかると信じよう」
ジョーの言葉を聞きながら、真季も龍太も熊野大社裏の二つの山を見つめる。ジョーは何度も言った、ここが本家だと。その言葉を信じて本家蛇信仰の聖地へと思いを馳せる。
三人は再び軽自動車に乗り込んで県道53号線を少し進んで右に曲がる。ジョーは小さな集落の細い道を山なりにかけあがって草だらけの小さな空き地に車を停めた。目の前に「八雲山登山口 頂上まで920M」と書かれた木製の小さな標識がある。細い登山道が山頂に向かって続いている。ジョーがまず車を降り、真季と龍太が続いた。まわりは田んぼ。のどかな田舎の風景。
「ここが八雲山の裏登山道。山の向こう、表側は整備されているから観光客でも登りやすいけれど、人が通るところに蛇は近寄らないからこっちの裏登山口がいいと思う。そしてもし蛇を見つけられて下山する時は山を越えて向こう側を降りて、その麓にある須我神社という神社を訪ねなさい。神職のおじさんにミルク屋のジョーに連絡を取って欲しいと言えば連絡してくれる。そのおじさんは知り合いだから。すぐに迎えにきてあげる。もちろん蛇を諦めて山を下りて来てもいい。見つからないこともあるだろう。とにかく真季ちゃんも龍君も無理だけはしないように」
ジョーは真季と龍太の目をしっかりと見つめながら話した。真季と龍太は笑顔でジョーの語った言葉に頷く。龍太は大きく一つ深呼吸をした。そして軽自動車の荷台に積んであった自分達の荷物から蛇を入れる篭と泡盛の一升瓶を取り出す。ポケットには100円ライターを3個入れる。真季は言う。
「ジョーさん、本当にありがとうございます。出雲にサバニで来るのはいいけど、その後のことを何も考えてなかったことに改めて気づきました。出雲に行けばなんとかなるだろうと思っていたけれど、ジョーさんにあの海岸で出会わなかったらと思うとぞっとします。しばらく山に入って、兎を飲み込んだ蛇を探そうと思います。大国主様にもスサノオ様にもお祈りしたからきっと見つかると信じて。捕まえて、山の向こう側の麓の須我神社からミルク屋のジョーさんに連絡できるよう頑張ります!」
真季の目を見たジョー。雲のない空のように澄んでいる。ジョーは確信する。この子達がやろうとしていることを何も知らない人は子供の遊びのように馬鹿げたものと言うかもしれない。ただ、この世界には人間が文明を発展させていく上で忘れてしまったものがあまりにもあまりにも多くある。多くあり過ぎる。この子達にはそれが見えていて、それを純粋に信じる事ができる。奇跡を起こす力が備わっているのかもしれない。真季と龍太の澄んだ瞳を見ていると、この二人が八雲山に入って蛇を探そうとしていることが馬鹿げたこととはとても思えない。応援したくなる。そして、ジョーは軽自動車の荷台からリュックサックを取って、真季に渡した。
「さっき二人がお風呂に入っていた時におにぎりを10個握ってこの中に入れてある。後、温かいお茶が入った水筒も。うちにあった一番大きい懐中電灯も入れてある。電池もちゃんと一番新しいのに変えてある。これを持っていきなさい。そして、とにかく無事に山から降りてきなさい」
リュックサックを受け取った真季はジョーの優しさが目にしみて涙が溜まる。そしてありがたくそのリュックを背負う。その時、龍太が「あっ」と大声を出す。
「しまった。泡盛もってきて、蛇を酔っぱらわせて捕まえようと思ったけど、泡盛を入れる器がなかった・・・」
焦る龍太の鼻息の強さにジョーは笑いながら提案してくれる。
「おお、龍君。それなら車の中に小型の牛乳パックを洗って干した容器が7個か8個あるから持っていきなさい。真季ちゃんのリュックに入れてあげよう」
ジョーは車の中から牛乳パックを取り、真季が背負ったバックのチャックを開けて中に入れた。
「これで準備万端かな、真季ちゃん、龍君?」とジョーは二人の目を見る。
「はい、本当にありがとうございます。これで絶対に兎を飲み込んだ蛇を捕まえられる気がしてきました」と、龍太が引き締まった顔でジョーに礼を言う。惚れ惚れするほどの面構え。こういう男がまだ現代に残っていたかとジョーは胸が熱くなる。きっと古代にこの地で出雲王朝の築き上げた男達もこんな清々しい面構えだったろうと思う。
「行ってきます、ジョーさん。須我神社でまたお会いできるのを今から楽しみにしています」
その真季の言葉に、ジョーは何度も頷く。二人はジョーに背を向けて、八雲山の裏登山道をあがっていく。ジョーは、二人の姿が見えなくなるまで見送り続けた。