【花指し遊び】①
まだ夜明け前の島根県出雲市稲佐の浜。近くまで来ていた台風は結局島根までは来なかった。空気の中にひとかけらの湿気もなく爽やかなそよ風が吹く。稲佐の浜の駐車場に牛乳配達の軽自動車を停めて、海を見ながら毎朝一服するのが通称ミルク屋のジョーの日課。タバコの火をくゆらせて、波の音を聞き、心が落ち着いたところで牛乳配達に出る。元々は漁師だったけれど、船の事故で左足の膝から下を失ってしまい、義足になってしまったため、船仕事が難しくなった。昔から続く近所の牛乳配達屋のおじいちゃんに後継者がいなかったため、ちょうど失職中の還暦になったばかりのジョーが牛乳屋で働くことになった。牛乳配達をはじめてから早6年。今も漁師の頃と変わらずに海と朝日を拝んでから仕事に取りかかる。
台風は上陸しなかったけれど、今朝は台風が残した波が浜に入ってきている。タバコを吸いながら何を考えるでもなくいつもより大きい波をじっと見つめる。天気は穏やかだけれど、荒れた海の後遺症で潮が大きく寄せては引いていく。でもそれだけじゃない。何かいつもの朝と違う違和感を感じる。砂浜をよく見ると海蛇が何十匹も這っている。旧暦の十月十日に全国から八百万の神々が出雲にやってくる。日本全国で、神無月といって神様が地元からいなくなる月だが、そのいなくなった全ての神々が出雲に集まるので島根県では神在月と呼んでいる。その神様達を迎える上で先導として海蛇がまずこの稲佐の浜にやってきて、その後に海蛇に導かれた八百万の神々様をこの浜辺でお迎えすることになる。だからこの稲佐の浜で海蛇が取れた際にはその海蛇を神様の使いとして丁重にお祀りする。だが、旧暦の十月にはまだ早いこの時期にこれだけ大量の海蛇が浜に上がっているのはただことではない。ジョーは抑えきれない胸騒ぎの正体をつきとめるためにタバコを配達用軽自動車の運転席の灰皿に押しつけて、砂浜に降りる。義足の金属音が微かに鳴る。東の空から朝日が昇り始め、背後から海を照らす光が微かに差し込んでくる。それでもまだ辺りは暗くて砂浜の様子ははっきりとはわからない。稲佐の浜の真ん中にある大きな岩、弁天島。その岩の端に小さな舟の影が見えた。何かただならぬ雰囲気を弁天島の裏側から感じる。ジョーは肥満した体を揺らし、義足を砂浜に取られながら一歩一歩足を進ませる。時間は干潮で潮はひいている弁天島の裏、そこには砂浜に打ち上げられたサバニがあり、その舟内にボロボロになったゴミ袋を被って、海水でびしょ濡れになった少年と少女が眠っている。ミルク屋のジョーは夢でも見ている錯覚を感じながら、サバニに近づいた。サバニに手を触れてみる。湿った木の感触が指先に残る。夢じゃない・・・確かに実在している。サバニの中に視線を落とすと篭に海蛇が数匹入っていたため、きっとこのサバニに乗ってやってきたたくさんの海蛇達が砂浜でうようよしているのだろうとジョーは気づく。ジョーは朝日を背にしながら見ている目の前の光景が、何か神話の世界の風景のように思えて目を擦る。少年も少女もサバニから投げ出されないように足を木板に網や縄で縛っていて、その縛り目がこすれて血が出ていた。まさか台風の中、このサバニで海を渡って、この稲佐の浜まで流されてきたのか?とジョーは思わず自分の脳内で誰に尋ねるでもなく自分自身に問いかける。そんなことがありえるのだろうか・・・?元漁師だけに、この木の舟を見て一目でサバニとわかった。琉球の漁師達が世界の海をこのサバニで駆け巡り、その漁師達が置いていったサバニが一艘、島根県の美保神社にも奉納されている。目の前の光景に混乱しながら、現実離れした考えが頭の中に浮き上がっては脳内細胞にこびりついて離れない。ただ、そんなことよりもやらなきゃいけないことにふと気づく。とにかくこの子達を起こさないと・・・。そう思った瞬間、ジョーは急に慌て始めて、現実の世界に引き戻されながらまず真季の体を揺さぶった。
「おい、大丈夫か?生きているか?」
まだ眠いのか真季はむずかるが、動いたので生きていると確認できた。とりあえず一安心。次にジョーは龍太の両肩を掴んで揺さぶり、「おい、少年。起きろ、起きなさい」と耳元で叫んだ。龍太はその声に反応し、ジョーの背中から差し込んでくる朝日を眩しそうに見ながら目を開けた。
「ここはどこ?」と自分に向かって大声で語りかける大きな影に向かって龍太は聞く。
「出雲だよ。出雲の稲佐の浜だ」
その声を聞いた瞬間、龍太は反射的に飛び起きた。
「出雲?本当に出雲?」と龍太は逆にジョーの両肩を掴んで、大きな肥満体型をゆさぶりながら聞き返した。ジョーは呆気に取られながら何度も頷く。
「そうだよ、そう。そうだよ、少年。ここは出雲だ」
辿り着いた・・・サバニで出雲に。龍太はその興奮を抑えきれない。思わず跳び上がろうとしたが足にしばりつけた縄が龍太を転ばせる。龍太は「痛ててて・・」と転んだ体を起こして隣で二度寝をし始めた真季の体を揺すって、それでも起きないからおでこを何度もでこぴんしながら真季の耳元で叫ぶ。
「まーきー、出雲に着いたよ。早く起きれーーー。いつまで寝ているさー」
龍太が執拗に起こしにかかるので、真季は眠りを諦めて、ゆっくりと体を起こした。体の奥底に疲労が蓄積していて低体温とともにだるさを感じる。ぼんやりした脳みそのまま目を覚ました真季は辺りの様子を確認するために本能的に周りを見渡す。すると龍太の目の前に肥満体型で眉が垂れて、ニコニコ笑顔で、ほっぺが落ちそうな髭をはやしたお爺さんがいる。あれ・・・どこかで見た事があると真季は思った瞬間、「あっ、大黒様」と思わずジョーを見て呟く。スマホの待ち受け画面だった七福神の宝船の絵が脳裏に蘇る。
「いや、私は大黒様ではなくて、ミルク屋のジョーだよ、お嬢ちゃん。寝ぼけているのかな?こんなに太ったお爺さんが珍しいから思わず七福神の大黒様に見えてしまったのだろう」とジョーは満面の笑みで真季の寝言に反論した。
龍太もそれを聞いて、真季がスマホの待ち受け画面に宝船に乗る七福神の絵を設定していたことを思い出す。確かに目の前にいる肥満体型のお爺さんは、その七福神の中の小槌を持っている神様に似ていた。真季はじーっとジョーを見つめる。どうしても大黒様に見える。その真季の視線を笑いながら受け止めて、ジョーは歌う。
「なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな」
勉強嫌いの龍太はジョーが歌った俳句なのか和歌なのかわからない言葉のリズムを頭の中で繰り返す。あれ??・・・上から読んでも、下から読んでも同じ文字の並びなのは気のせい???龍太は真季を見つめるジョーの横顔を見つめる。
「そんな感じだったかな大黒様が乗っている宝船の絵に書かれている歌は?」とジョーが真季に微笑みかけると真季は「永き世の 遠の眠りの みな目ざめ 波の船の 音のよきかな」と現代語訳を無意識に返す。龍太は二人のやり取りの意味がわからず頭を掻く。だけどリズムだけは体に残る。上から読んでも下から読んでも同じに聞こえるのは偶然???真季が語った現代語訳の意味を考えようと龍太は試みるが脳みそがオーバーヒートして頭皮から湯気が出てくる。ジョーはニコニコ笑いながら、二人が死んでいなかった事実に安心して、「嬢ちゃんと坊ちゃんはどこから来たの?」と聞いた。真季は一瞬、警察に通報されて補導されるかと思って口を固く閉ざしたが、龍太があっさり答えてしまう。
「沖縄の久高島から来ました」
それを聞いたジョーは思わず細い目を見開いてビックリする。いや、愕然とする。
「やっぱりあなた達、琉球から来たのかい?そんなことはありえないと思ったけれど、まさか・・・。この辺りの年老いた漁師達は昔この辺りまで琉球の漁師達がサバニに乗って漁に来たのを爺さん達から聞かされて覚えている。糸満チューと久高んチューと呼ばれる人達が来ていたって言っていたのを私も確かに小さい頃に爺さん達から聞いて覚えている。そうすると、あなた達は久高んチューかい?」
「えーと、血筋は全部久高んチューですけど、学校は糸満です」と龍太はあっさり返す。最近では沖縄県人の若者でさえサバニという言葉を知っているものが少なくなっている今、県外のお爺さんがサバニという単語を知っていることに真季は微かに感動しながら「どうしてこの舟を見てすぐにサバニとわかったんですか?ジョーさんは漁師さんなんですか?」と恐れ多くもプライベートなことを尋ねてみた。
「嬢ちゃん、そうそう私は船の事故で左足失くすまでは漁師だったから、我々のお爺さんの世代の漁師からそういう話を聞いているからわかる訳だけど。この目で本物のサバニを見るのは二艘目だな・・・」
「え、二回目?一回目は?」と真季は素直に驚く。
「島根の美保関にある美保神社というところに琉球の漁師が置いていったサバニが奉納されているから見た事あるんだよ。今でもある」
それを聞いて、「あ、やっぱりあるさー、サバニ」と龍太がこれでもかと自慢げに笑う。「出雲にはサバニがあるってインターネットで見つけたから、ということは出雲まではサバニで行けると思って出雲まで来ました」と無邪気に語った龍太の言葉にミルク屋のジョーは唖然とする。
「それだけを手掛かりに沖縄からここまでサバニで来たのかい?」
呆然としながらジョーが龍太に問いかけるとキラキラした目で龍太は素直に何度も頷く。ジョーは長く生きた人生で今程呆れた気持ちになったことはない。その放心状態のジョーに、「あ、そうだ。すみません、ジョーさん、ちょっとお聞きしたいことが」と龍太は肝心なことを思い出して急に話題を変える。
「僕達、事情があって兎を飲み込んだ蛇を捜しに出雲まで来たんですが・・・蛇が出そうなところってこの辺りにどこかありますか?」
さっきから無邪気に意味のわからないことを語り続ける少年をジョーは理解しかねる。まだ朝日は昇り切っておらず、稲佐の浜はほんのりと赤い光が注ぎ込むが、あたりはまだ暗い。少年が言っている言葉の意味を探ってみる。古代神話のミステリーと変わらないくらい、一つ一つの言葉の真意が謎で、一体何が言いたいのかをわかりかねる。でも、ミルク屋のジョーは子供に対して笑顔を崩さない。十秒程じっと考え込んでみて、言葉を選びながらジョーは龍太の質問に答える。
「兎を飲み込んだ蛇かい、事情があって。なるほど。お兄ちゃん、大胆な人間だね。うーん、出雲は確かに昔から蛇にまつわる神話が多いところだからねー。兎にまつわる伝説もしかり。となると出雲の神話にゆかりのある八雲山に行けば、その兎を飲み込んだ蛇というのもいるかもしれないけれど・・・でも神話の世界の話だから現実的にはそんなことを考える事自体無駄で無意味な行為のような気もするけれど」
ジョーの言葉を聞いて龍太は真季の顔を見る。蛇と兎の神話の土地!ジョーは無駄で無意味というけれど、真季と龍太は何だか兎を飲み込んだ蛇がいそうな気がしてくる。神話だって伝説だって縁もゆかりもなければそんな話ができる筈もない。可能性がゼロじゃないのなら真季はこの際、どんな手がかりでも当たってみるべきだと思った。
「ジョーさん。その八雲山への行き方を教えてください。私達、事情があって、ちょっと急いでその蛇を捕まえて、また久高島に帰らないと行けないんです。生命に関わる事なんです」
真季はジョーの目を見て訴えかける。ジョーも真季の瞳の奥を見つめる。
「あなたは、この少年のお姉さん?あなたもかなり大胆なこと言うね。急がないと命に関わるとか。あなた達、姉弟はちょっと最近の世の中では珍しく、破天荒な冒険者の風格があるね」と語りながらジョーは笑った。そして、続ける。
「でも、昔の人達はきっと皆あなた達のような風格を持っていたんだろう。科学が発展する前の世界では当たり前のように人間は皆、木の舟で世界中の海を渡っていったんだから。そんな天然記念物並みの絶滅危惧種の姉弟の二人に敬意の気持ちを持って、八雲山にはこのミルク屋のジョーさんが車で連れて行ってあげるから心配しなさんな。ただ、二人とも雨具がわりのゴミ袋はボロボロに切り裂かれて、体中海水でびしょびしょじゃないか・・・。サバニにくくりつけている荷物も防水のためのゴミ袋が破けてしまって水をかぶっているじゃないか?ここでお嬢ちゃんとお兄ちゃんに出会ったのも大国主様が繋いでくれた何かのご縁だろう。わしの家に来て、お風呂に入りなさい。サバニはなくならないようにお爺さんの息子に電話して近くの港に繋いでもらおう。私の長男は現役の漁師だから心配しなくていい。お爺さんの家は玉造温泉が湧く場所にあるから家のお風呂も温泉が出る。いいお湯だぞー。まずは冷えた体を温めなさい」
温泉という言葉に真希も龍太も思わず神経が反応する。体の芯は冷たく、一度死にかけた体が、体の奥の真ん中にある生存本能がぬくもりを欲している。沖縄は基本シャワーしか浴びない文化だけれど、それでもお湯をお風呂にためて入るあの気持ち良さったらない。それが温泉となればきっと極楽。二人の顔に無意識に出た嬉しそうな表情を見て、ジョーはほっとする。打ち上げられたサバニを見つけて、少年少女が倒れていた時には死体の可能性もあると思った。でも二人ともこうして元気な表情で生きている。ジョーは二人を自宅に連れて行くためにまず真季が自分の足をサバニに括り付けた網をほどいてやろうとする。
「あっ、大丈夫です。自分でやります」と真季が言い切る前にジョーがするりとほどく。そしてジョーが真季の網をほどいている間に龍太は自分のものをほどこうとするが、何結びをしたのかわからない程めちゃくちゃに自分のすねに結んだ縄に苦戦する。真季の網をほどいたミルク屋のジョーは次に龍太の足の縄を魔法のようにあっさりとほどく。龍太はその一連の滑らかな動きにこのお爺さんは一体何物だろうと思う。龍太はもしかして自分は海で死んで、今いるところはあの世じゃないかとすら思い、右手で思いっきり右頬をつねった。痛い・・・・。
「荷物を持ってあげようね。衣類や濡れたものは洗って干して乾かしてあげるから」
そう言うとジョーはサバニの中の網に包まれた荷物を網ごと掴んで軽々と肩にかけた。その姿を見て、改めて真季は七福神の大黒様が肩に荷物をかけている姿を思い浮かべる。本当に似ている。真季も自分は死んでしまって天国にいて神様である大黒様を目にしているんだと思い、右手で思いっきり右頬をつねった。痛い・・・・。そして我に返る。初対面のおじいさんに重たい荷物を背負わせてしまっている非常識さに気づき、慌てて真季は「そんなご厚意に甘えたら罰があたります」とジョーに向かって遠慮する気持ちを伝えたが、「罰は当たらないし、祟りもおきない。思う存分甘えなさい。大国主様が結んでくださったご縁だ。ミルク屋のジョーを信じてついて来なさい」とただただミルク屋のジョーは荷物を肩に笑いながら歩き続けた。ジョーの歩き方は少しぎこちなく、義足の金属音が一歩踏み出すごとに軽く鳴る。真季も龍太もその後ろを申し訳なさそうについていく。辺りには数十匹の海蛇が砂浜を這っている。龍太は久高島からやって来たそれらの海蛇達に向けてウィンクをする。出雲と久高島の間を往復する海蛇達に向けて、また久高島で会おうという祈りを込めて。赤みを帯びていた朝日が少し角度をあげて、目の前の世界に温かい光を広げていく。龍太は駐車場に向かって歩きながら、一度立ち止まって振り返り、海を見つめた。打ち上げられたサバニがそこにあり、波は幾重にも連なって寄せては返している。本当にあの海の向こうから自分はここまでやって来たのだろうか・・・と信じられない気持ちになる。夢の中にいるみたいだと思いながら龍太は海から視線を陸地に向ける。目の前に紅葉前の小さな山があり、その上に白い雲が幾つか浮かんでいた。ここが出雲か・・・と龍太は思った。




