【洗い髪たれ遊び】⑪
鮫は海面に浮き上がりぐったりとした体で龍太の腕の中で死んでいる。見開いた動かない目で龍太のことを見ていた。龍太はその視線を受け止めるけれど、腕に抱えた鮫が重くて少しずつ海に沈み始める。呼吸を整えながらなんとかバタ足をして海面に顔を出す龍太。「まーきー、銛ちょうだい」と言って念のため真季から銛を受け取る龍太。鮫の脳髄と神経が通っている鼻筋に銛を差した。血が吹き出てくるが、もう動かない。間違いなく死んでいる。命のやり取りは終わった・・・と龍太は安心する。寅也おじいは龍太のそばにいてずっと見守っていた。必要があれば力を貸そうと思っていたけれど、その必要もなかった。寅也おじいは可愛い可愛い孫の龍太の頭を撫で撫でして、真季の方を見た。そして、真季に向けてウィンクをした後、溶けるようにして消えた。
「あっ、寅也おじい・・」と真季は消えてしまった残像に向かって呟く。もっと一緒にいたいのに・・なんですぐに行ってしまうの・・・。熊おじいは寂しそうな真季の顔を見て、「寅也は恥ずかしがりやだからな。あんまり死んだ後の自分を二人に見せたくないんだろう。孫のまーきーと龍太が絶対絶命のピンチの時にしか空から降りてくるつもりはないみたいさ」と伝える。龍太は寅也おじいが後ろで支えてくれていたことに気づいていない様子。ちゃんと教えなきゃと真季は思う。ただ、その龍太は動かなくなった大きな鮫の体を持て余す。熊おじいはその龍太の様子を見て、「なるほど。当たり前すぎて初心を忘れていたけれど、どうやってサバニに鮫を積むか教えてやらねばならない」と海に飛び込んだ。熊おじいは真季に通訳を頼む。
「サバニを傾けて、半分くらい海に沈めなさい。海水が入ってきても気にしない」
勘の良い龍太はその言葉を真季から聞いて意味を悟る。サバニを真横にして鮫を舟底に押し付けて、くるっと元に戻す。そうすれば浮力を使って簡単に鮫はサバニに積める。真季はサバニを傾けるために海に一度飛び込む。恥ずかしくて服は脱がないけれど浮き輪があるから怖くない。濡れた服は後で乾かすしかない。サバニに積んだ荷物はちゃんとサバニの木板に結びつけているから落ちない。スポーツバックも防水するためにゴミ袋にちゃんといれてある。龍太のすぐ隣で熊おじいが寄り添い、見守っている。サバニを真横に傾けて、鮫を舟底に押しつけ、ゆっくりとサバニを元に戻す。あっさりと鮫をサバニに積むことができた。そして龍太は真季のお尻を押し上げてサバニに乗せて、自分もよじ上った。鮫を乗せると舟内にスペースが全くなくなり二人は鮫の体の上に座るしかなくなる。
「この鮫どうするのさー?」と真季が龍太に聞く。龍太も鮫を仕留めたのはいいけれどどうしていいのかわからない。思いかけず穫ってしまった自分の股の下にあるビッグフィッシュに唖然とする。風が北に向けて強く吹き始めた。少しずつ雨が降り始める。熊おじいが「帆をあげなさい。この風であればサバニを漕がなくても宝島につける筈さ」と鮫の顔の上であぐらをかきながら二人に教えてくれる。龍太は真季からそれを聞いて急いで帆をあげる。雨が気になるけれどサバニは前に進み始めた。熊おじいは真季に話かける。どうしていいかわからない鮫の取り扱い方法について教えてくれると言う。龍太は真季のそばに座り熊おじいの話を聞く。
「鮫は血の中に尿素、おしっこの成分を循環させているさ。これが死んで循環しなくなるとアンモニアっていう成分に変わる。匂いは臭い。だけど、このアンモニア成分が肉を腐らせない訳さ。匂いさえ我慢すれば、鮫の肉は数週間食べられる。太古の昔からウミンチュが長い航海に出る時はいつだって鮫の肉を持って行ったさ。この大きな海で鮫肉を保存色として航海しながら食べて命を繋いだのさ」
熊おじいはそこまで語ると、遠い昔から続いて来た海の民族の歴史を思い出しては柔らかい表情になる。忘れられた誇り高い海に生きた民族の歴史。そこには常に鮫がいた。冷蔵技術がない時代・・・匂いがきついアンモニア臭まみれの鮫肉は長い航海をする上でのご馳走以外の何ものでもなかった。熊おじいは愛おしそうに鮫の体を撫でた。
「これからこの鮫の体内を循環していたオシッコが体に溜まってアンモニアに変る。つまりまーきーと龍太は腐らない保存色をゲットした訳さー」と二人に笑顔で語った。そして「これから対馬海流に乗るつもりならこの鮫の肉を大切にしなさい」と続ける。話を聞いている間に宝島に着いた。熊おじいは島の山を指差して二人に伝える。
「あのおっぱいみたいな山が女神山さー。根神山とも言うさ。浜にあがったら、鮫の肉を自分達が持っていける分、ちょっと多めに切るぐらいに切ってサバニに積んだら、残った肉はあの女神山の麓に持って行ってお供えしなさい。あの山は海の神様さ。だからこれからの航海の安全を女神様、根神様にお祈りして行くのがいいさ。海に出る以上、自然の力を司る神様へのお祈りはかかしてはいけないよ」
熊おじいの言葉に真季と龍太は素直に頷く。有り難すぎる。海に生きた先輩から聞かなければ一生知る事のない知識だっただろう。真季と龍太の顔はだいぶ日に焼けた。そしてこの航海を始めた頃に比べるとかなり逞しくなっている。ひ孫の成長を素直に嬉しいと思う熊おじい。熊おじいは満足げに微笑んだ。ここまでで十分だろうと熊おじいは思った。ついて来てあげられるのも宝島まで。後は二人で頑張りなさいとその笑顔は語っていた。それを察して、真季は「熊おじい、本当にありがとう」と感謝の気持ちを伝える。龍太には熊おじいの姿は見えないけれど、近くにいてくれているのは感じている。真季が声をかけた場所に向かって、「熊おじい、ありがとう」と深々と頭を下げる。熊おじいは、真季と龍太の頭をゆっくりと撫で撫でした後ニライカナイへと帰って行った。そして二人は宝島の浜にサバニをあげた。一息つく間もなく龍太は大きな包丁を取り出して、鮫のお腹のあたりの肉を4塊ほどにして切った。一塊5キロほどで計20キロ。これだけあればしばらくは生き続けられるだろうと思う。真季も「それぐらいでちょうどじゃない?鮫肉食べ尽くしたら、また海で魚を穫ろう」と前向き。食べきれない部分の鮫は二人で力をあわせて台車に載せた。そして女神山に向かって運ぶ。途中、水をくめるところがないか探すために龍太は水入れを肩にかけて持って歩いた。女神山に向かう道を歩くとすぐに牧場があり黒毛牛がいっぱいいる。牧場から出て普通に道を歩いている牛もいて道を塞いでいる。どの牛も血が滴る鮫の肉の匂いに反応して真季と龍太の顔を見る。草食動物とはいえ、血の匂いには本能的に反応してしまうのだろう。空は灰色で、小雨が降り続けている。雨だから島の人達は皆、家にいるのだろう。人影はない。鮫を台車に乗せて引っ張って行くという奇妙な光景を島人に見られなくてすむので助かる。ゴトゴトゴトゴト台車を鳴らしながら二人でなんとか女神山の麓まで鮫を運んで来る事ができた。そして神域に足を進ませながら真季は肌に霊気を感じる。強い圧迫感。でも弾き飛ばされる訳じゃなくて、その霊力に体がなじんでくると誘われているのかと思えるぐらい心地いい。
「この山は聖地として大切にされてきたから人間は出入り禁止みたい、昔から。なんとなくわかる。私たちも山中までは入れないけれど、鮫をこの山の入り口に置いて行く訳にも行かない。ここには何もない。神様がいるのはもう少し奥の方。もう少しだけ山の麓に行かないと駄目かも。道もないけどここを進んでいくしかなさそうね」
龍太は真季の言葉に頷いて二人で草が生い茂る道のない場所を進む。台車に草がからみ、土に足を取られ、息があがる。それでも少し進むと台車が押しやすくなった。神様が助けてくれているのだろうか。
「もう少し行ったら、降ろそう。もう少しいったら神様が待っていてくれる気がする」と真季が語り、龍太はオッケーとウィンクして返す。こういうことは真季に任せておけば間違いない。小さい頃から真季が神様に愛されていることを一番近くで感じていた。素直に信じられる。鮫の死体を台車で押しながら、一つ段差になっている盛り上がった土を越えると真季が立ち止まった。
「ここがいいと思う」
真季のその言葉に龍太は立ち止まりあたりを見回す。他の場所となんら変わらない風景だけれど、きっと何かがあるのだろう、真季が感じるには。二人は台車から鮫を降ろして、丁寧に地面に置いた。すると真季と龍太を囲むようにしてたくさんの鳥がまわりの木々にとまり始めた。カラフルな鳥が多い中、カラスが結構いる。真っ黒い全身が際立っている。鮫の血の匂いが他にも多くの生物を呼んだようでネズミなどの小動物や虫も寄ってきた。真季が目を閉じて山に向かって手を合わせる。龍太も同じように続いた。二人は心の中で、久高島にいる意識不明の富おばあが死なないようにとお祈りし、そしてこれから自分達を待つ航海が安全なものでありますようにと祈った。祈りは届くのだろうか・・・。でも信じて祈るしかない、海の民族が本能で覚えている祈りの記憶、祈りの大切さを。
真季と龍太が祈りを終えて山の麓を後にするとカラスをはじめとする鳥が鮫の肉をついばみはじめ、ネズミが固い歯で鮫肌を噛み切り、小動物が空腹を満たすために形相を変えて肉に食らいつき、虫や蟻が血に群がる音が聞こえた。今風に言えば残酷かもしれない・・・でもこれが生きるということなんだと真季と龍太も思う。命が命を繋いでいく。そんなことを思いながら二人は女神山の麓から足を進ませて人里を目指す。水が欲しい・・・。これから水を補給できる場所はない。最後の給水地として真季と龍太は人が住んでいる集落の方を目指して歩いてく。まだ雨が降っているので外には誰もいない。龍太は道沿いに小さな学校を見つける。
「あそこで水を汲ませてもらおう」と龍太は正門を入っていく。真季は誰か来ないかを門の前で確認しながら待つ。龍太には100円玉を渡した。真面目な姉としては水の代金に置いて来いということ。もう夕方なので一日の授業を終えて校舎には誰もいなかった。龍太は校内にある水道で水入れをいっぱいにさせてもらった。そして「ありがとうございます」と呟きながら蛇口の脇に100円を置いた。校舎から出て、龍太は真季と目を合わせる。軽くウィンクして水がいっぱいになったことを知らせる。
「ちゃんと100円払った?」と真季が聞くと「払ったさー。少しは弟を信じなさい」と龍太は返す。二人は来た道を戻る。雨が少しやみ始めて、雨雲が遠くに流れて夕日が顔を出してきた。女神山の山頂に虹がかかる。女神山が鮫のお礼を言ってくれているのかな?なんて空想を真季と龍太は話し合っては笑った。
「でもこっちも学校で水をもらえたんだから宝島にありがとーさー」と龍太が言うと真季はいじらしいことを語る弟の額に軽くでこぴんした。そして真季と龍太は夕焼けに映える虹を飽きもせずに見つめた、夜の闇に消えてしまうその最後の瞬間まで。




