【洗い髪たれ遊び】⑩
鮫は明らかに龍太を餌だと思ってゆっくりと間合いを詰めながら近づいてきている。鮫と視線が合ってしまう。その迫力に体が固まる。心臓も固まる。怖い。何かしなきゃと思うけれど瞬きひとつできない。逃げ出したい。でも逃げたところで泳ぎは鮫の方が何枚も上手。逃げている時に後ろから食われる。ならば向き合って命を奪い合うしかないのか・・・。ただ勝てる気がしない。視線をそらすことなく鮫がこっちを見ている。バタ足一つできない龍太はゆっくりと海の底に向かって沈んで行く。その龍太のまわりを鮫は何度も泳いで回りながら様子を伺っている。龍太も鮫の目を睨む。侍の決闘ではないけれど動けば隙が出来て、殺されると本能がわかっている。龍太の肺の中の酸素が少なくなる。鮫はそれを知っている。このままでは窒息死する。思わず一つバタ足をしてしまう。体が一瞬浮く。その瞬間を逃さずに鮫は大きく口をあけて龍太に向かってきた。目の前に襲いかかって来る鮫の喉が見える。深く暗い。噛みちぎられてあの食道を通って胃液に溶かされるのは勘弁と思い、鮫が口を閉じる寸前になんとか体をかわした。しかし完全にはよけきれずに「痛っ」と左目をつぶる。右目で左肩を見ると鮫の歯が当たって皮膚が裂けて血が出ている。その血が煙のように海面に浮いていく。ずっと海を覗き込んでいる真季は赤い血が海面に上がってくるのに気づく。もしかして龍太に何かあったかと・・・心臓が締めつけられる。一度体を動かしたので恐怖からの金縛り状態からは解放された龍太。鮫の目を睨みつけながら少しずつ海面に上がろうとする。空気が欲しい。酸欠になったら力がでない。その思惑を承知しているかのように鮫は下から何度も龍太にアタックを繰り返す。その度に龍太は体位を変えながら銛を打ってやろうと鮫の横ツラに打ち込むがかわされる。鮫の攻撃をかわしきれずに体には傷が増える。海面に浮いて来る出血量が多くなり真季は「龍太!龍太!」と海の底に向けて叫ぶ。龍太が海面まであがってくるとそれと一緒に大きな鮫まであがってきた。鮫がサバニの舟底にあたり、危うく舟がひっくり返りそうになる。真季の顔から血の気が引く。
「龍太、早くサバニに上がって!」と大声で叫ぶけれど、その隙を鮫は与えてくれない。龍太は銛でなんとか鮫を突き続けるけれどかすり傷しか負わせられない。死闘が目の前で繰り広げられており、命の奪いあいの凄まじさに唖然とする真季。ただ顔を青ざめることしかできない。冷たい汗が頭皮に浮き上がり、額を伝っては目に入る。真季は目を拭いた。すると「ああ、良い鮫だ」と言う声が聞こえる。真季は声が聞こえたサバニの後方に振り返る。熊おじいがタバコをふかしながら龍太と鮫のやり取りを見ている。真季は慌てて熊おじいの元に駆けて行く。焦る様子がない熊おじいに「どうにかして、熊おじい」と詰め寄る真季。熊おじいはタバコの煙をゆっくりと吐き出して、「まーきー、どうにかするのは熊おじいじゃないさー。見てご覧、龍太の後ろ。一族最強の鮫漁師がついているさ」と指差した。その言葉を聞いて真季は鮫と向かい合ってもがく龍太に目をやる。真季は瞳に映る光景を信じられずにいる。寅也おじいだ!!!寅也おじいが龍太の背中に張りついて赤ん坊に歩き方を教えるように後ろから両手を取って鮫と闘うための体の使い方を教えている。鮫が突っ込んでくれば引く方法を教え、鮫が疲れたところで突き返す。右手で銛を突かせるけれど鮫の皮膚が固すぎて刺さらない。その感覚を龍太に覚えさせる。龍太は必死に鮫と向き合う。寅也おじいが後ろにいることには気づかない。それでも真季は不安になる。「熊おじい!」と声を荒げるが、熊おじいはタバコをふかしたまま龍太と鮫のやり取りを見ている。煙をぷかぷかはきながら寅也の指導方法をチェックする。自分が寅也に教えたのと何ら変わりない教育方法。基本は基本。何事も基本が大事。鮫は全身固い皮膚で覆われている。一突きで致命傷を突けるほど鮫は弱くない。考えなければ死ぬ。どうすればいいか?それを寅也おじいは教えない。熊おじいも。命をかけて自分で考えさせる。龍太は鮫と睨み合いを続けて、小競り合いを続ける。龍太は命がけで考える。鮫がさっきより疲れているように感じる。なぜかはわからない。でも同じ海という土俵で闘っているとわかる。龍太は鮫の鼻頭に銛ではなく、一度パンチを入れた。そして感じる。鮫も人間と同じように呼吸をしている気がする。鼻を殴った衝撃が残る拳に鮫の呼吸の乱れを感じた。鮫だって無敵じゃない。えらの辺りを注意深く見つめる。疲れて息が上がってきている。鮫だからってビビることはない、同じ生物だと本能的に龍太は思った。アニメや映画に出て来る絶対的に人間の力を超越している怪獣ではない。こちらがひるまなければ闘えると龍太は直感する。相撲だ。鮫と相撲を取る。龍太の瞳に火が宿る。その瞳に宿った闘争本能を見て寅也おじいは安心する。死んで霊になってなお関取のような大きなビールっ腹を揺らして笑う、さすが俺の孫だと。
「まーきー、銛を持ってて」と龍太は銛をサバニに投げ込む。そして龍太は鮫と見合っては「はっけよーい、のこった!」と大声で叫んで鮫に飛びかかる。龍太の素手と鮫の大きな口の張り合い。鮫の一噛みが来る。それをかろうじてかわす。まわしを取る、龍太はそれだけに集中する。龍太は鮫のエラを一瞬触る。鮫はあからさまに嫌がる。鮫の首の両脇にある傷のようなところがきっと呼吸しているところ。そこを鮫の背中にはりついてがっぷりよつで締め上げたい。呼吸を止めて窒息死させる。迷いはない。むしろ覚悟を決めた龍太に対し鮫が怖じ気づく素振りを見せる。鮫は一瞬ひるんで逃げようとするが、その瞬間を龍太は見逃さずに鮫の背中に飛びついた。背びれを掴んでしがみつく。そして両足を尾びれの根元に絡み付かせて、力の限り足で締め上げる。鮫は力強く尾びれを振りながら海の底に潜ろうとするが龍太は振り落とされそうになる足を死ぬ気で歯を食いしばりながら鮫の尾びれの根元に絡ませて締め上げ続ける。動きを封じ込まれた鮫は戸惑いを隠せず一瞬大人しくなる。龍太はその隙を見逃さず左手で背びれを掴みまがら、右手を鮫の右エラに突っ込む。右まわしを取った形になる。そして深く手を入れた後、そこを力点にして左手を背びれから放して左エラに手を突っ込んだ。両まわしを掴みあげて、尾びれも足でロックする。相撲から柔道の絞め技にうつり、鮫を落としにかかるが、それでもまだ海の底に潜ろうとする鮫。それならばと、足のロックを外し、うっちゃるように持ち上げて海面に向けてバタ足で泳ぎ上がる。うぉぉぉぉぉと叫んでみたけれど、口からこぼれる空気はぶくぶくぶくと泡になるだけ。呼吸を封じられた鮫は体を激しく震わせ、暴れる。龍太は両エラのまわしを絶対に離さない。そして龍太が鮫の体を持ち上げて海から顔を出し、ぜーぜーと呼吸をした時、鮫の呼吸は既になかった。




