【エーファイ】②
カチコチの筋肉で覆われた両手両足に密林のような剛毛をはやした寅也おじいが久高島の港、徳仁港の港内で大の字になって海面に浮いている。初夏の太陽の暖かみと水の冷たさの気持ちよさにまどろんで、うとうとと昼寝をしている。その海面に浮かぶ山のように大きなおじいのビール腹の上に乗って、子供の頃の龍太は水遊びをした。
「おじい、寝ないで。泳ぎ方教えて」
龍太が糸満から久高島に帰ってくる度に水遊びしようと寅也おじいの前で泣き散らすので、おじいは仕方なく家でのお昼寝を諦めて海で昼寝することになる。防波堤を張り巡らせた港内には波は入ってこない。静かな海で大きな寅也おじいが停泊中の船のように浮く。そして自分の体の上で龍太に水遊びをさせる。港に入ってくるフェリーの邪魔にならないように港の端で龍太に水遊びさせることが多いが、そのあたりはイラブーガマといって海蛇がとれる岩場として有名。
「もー、おじい寝ないで!泳ぎ方教えて!」と海面に浮かんでうとうとしているおじいの顔をつねりに行こうとしてお腹のてっぺんから胸毛いっぱいの胸のあたりにおりようとしたところで滑って龍太は海に落ちる。その水の音を聞いて、おじいは慌てて目を覚ます。「龍太!」と体をおこしてすぐ隣を見ると、手足をバタバタ動かしてなんとか平泳ぎの真似事で泳ごうとする龍太がいる。まだ体が小さすぎて浮力がないため、アッという間に海に沈んでいく。おじいが手を伸ばして抱きかかえると海水を飲み込んだ龍太はむせながらおじいに「もう少しで泳げるところだったのに」と不服そうに強がりを言う。その生意気な面構えを見て、寅也おじいは「上等、上等」と言って笑う。子供扱いされていることが気に食わず、龍太はおじいの顔をつねる。自分の顔と違って、しわだらけのおじいの顔の皮膚はとても固かったのを龍太は覚えている。
「えーっ、お前達何してる?」とイラブーガマの上の方から大きな声が聞こえる。鶴子おばあが寅也おじいと龍太に向かって怒鳴っては、急いで岩場を下りて来てこちらに向かってこようとする。「あいっ!」と不意をつかれた寅也おじいはびっくりした声を出す。この世でサメより怖いものは鶴子おばあだと思っている。海で龍太を遊ばせているところを見つかった寅也おじいは急いで龍太を自分の首と肩の付け根に肩車のようにして乗せて、おじいの少し薄くなった白髪だらけの髪の毛を龍太に掴ませる。そして、首の位置を固定したまま頭は水の下に潜らせないバタフライで龍太を乗せたまま港の外へと泳ぎはじめた。龍太は大はしゃぎ。イルカに乗っている気分。「おじい、おじい、もっと早く。もっと早く」と大興奮の龍太。大慌てのおじいに向かって鶴子おばあは大激怒でイラブーガマの上から叫ぶ、「今日の晩ご飯はないと思いなさいよ、あんた達ーっ」と。
鶴子おばあが、ヒステリーをおこしてまで怒る理由。寅也おじいの一族の男達がみんな海で死んでいった、もしくは行方不明という歴史。海に出たまま帰らぬ家族を「もしかしてどこかで生きているんじゃないか・・・」と待つ親族達のつらさを鶴子おばあは見てきた。そして自分も、夫である寅也が海に漁に出る度に不安で胸が張り裂けそうになる。鶴子おばあは、自分の息子も孫も海人にはしたくないという気持ちが人一倍強い。だから寅也おじいが龍太を海で遊ばせているといつも癇癪をおこして怒る。片や寅也おじいは鶴子おばあが望むように可愛い孫が漁師にはならなくてもいいけど、海の素晴らしさは知って欲しいと小さな頃から龍太を海遊びに連れ出してはいつもおばあに怒られる繰り返し。そして、おじいが海で遊ばせてくれる度にどんどん海が好きになっていく龍太。沖縄の海人の泳ぎ方は2通りしかないとおじいに教わった。海を長く泳ぐための平泳ぎと、追い込み漁で海の魚を驚かすために大きな音を出すバタフライ。大きな音を出しながら泳ぐことで魚達はびっくりして逃げ始める。あらかじめ網を張っている方向へ魚達をバタフライで追い込んで網にかける漁法。海の話は面白い。寅也おじいは海にはどんな魚がいて、どうやったら魚が取れるかを面白く話してくれた。小さな龍太はいつもそれらの話を寝る前に思い出しながら布団の上で平泳ぎとバタフライの泳ぎの形を練習した。龍太は寅也おじいと海が何よりも大好き。白髪まじりのおじいになっても久高島から沖縄本島まで泳いで渡れる寅也おじいは龍太にとっては最も身近なヒーローだった。
「えい、龍太!!!今日も学校さぼったって先生から連絡あったば。何やってる?もういい加減にちゃんとして。どうしてお父さんやまーきーみたいになれない?」
海から帰ってきて、体中についた海水の塩分を洗い流すためにシャワーを浴びていたら、浴室のドアの向こうから母親の嘆きのこもったいきなりの憤りに襲われドキッとする。「マブヤー、マブヤー」と龍太は自分の胸をさする。沖縄ではビックリした時に魂が体から抜け落ちるという伝統的哲学がある。龍太は自分の魂が飛び出しては地面に落ちないようにと地元の誰もが知っている呪文を呟く。浴室の半開きの窓から見える夕暮れの明るさが少し鬱陶しい。太陽は夏至に向けて、その空を登り上がる高度をあげていく途中。西の海の果てにはなかなか沈まない。夜になればこの世界は静かになる気がするのに、まだ熱帯夜の一歩手前。騒々しさは、太陽が沈むまで消えない気がした。
「何か言いなさい、龍太!」と母親の月子は問いつめる。龍太は聞こえないフリでシャワーを浴び続けて、聞こえない演技を強調しようと鼻歌なんか歌ってみせるが、リズムも音程もありゃしない。窓の外を見るがまだ太陽は消えてくれない。今年は今日からきっと熱帯夜。いや、母親のうるささは一年中熱帯夜といえば熱帯夜。その暑苦しい事実に唇の合間からため息が少し漏れたが、もう諦めて、とりあえずシャワーの栓をキュッとしめる。面と向かって叱られる覚悟を決めて、浴室のドアを開けたら、そこに母はいなかった。「ラッキー♡」と龍太は内心喜んだが、リビングの向こうの部屋から咳き込む音が聞こえてきた。その咳に母親がここからいなくなった理由がわかる。
龍太には真季という姉がいる。那覇市にある高学歴の私立高校に通っている。野球強豪県の沖縄で、甲子園を目指す高校の中でも頭ひとつ抜けたスポーツ高校であり、県外への大学進学率が沖縄一の「お勉強充実、運動もできちゃう向上心旺盛高校」とでも言うのだろうか。真季は、小さい頃から両親の言うことをよく聞く女の子で、両親、また鶴子おばあが望むようにしっかりと勉強をして、小中学校と学年でトップクラスの成績を取り続けた。そして、将来は内地の有名大学へと進学するという夢を持って高校生活を送っている。両親は小さい頃から真季に言う、「この世の中は、うちなー(沖縄)だけじゃない。広い世界を見ないと駄目になるよ」と。真季は小さな頃からその「広い世界」という響きが好きだった。糸満の青い海の向こうには自分の知らない世界が広がっていて、それをこの目で見てみたい、触ってみたい、感じてみたいと子供の頃からずっと夢見てきた。だからこそ、しっかりと勉強して県外の大学に進学することでその一歩を踏み出したいと願い、両親もそれを応援していた。ただ・・・真季は体が弱く、医者にも原因がわからない体調不良が頻繁に起こる。学校生活も登校できる日と病欠する日が交互に続いたりする非常に不安定なもの。それでも小学校、中学校、高校をたびたび休みながらも家でしっかりと勉強を続けて、クラスの授業に遅れるようなことは一度もなかったので、先生や同級生達からも理解を得て、応援されながら学校生活を送っていた。だから病気がちといっても決して暗い学校生活というものではなく、むしろ休みが多くなってしまう分、真季は学校に登校できる喜びを感じながら先生や同級生達との青春を満喫していた。
龍太はバスタオルで上半身を拭いた。そして下半身を拭き終わる前に、まだしっとり濡れた肛門からガス漏れ事故を起こしてしまう。体内から漏れてきた腸内で作りたてほやほやの臭気をまとい、鼻をクンクンして「我ながら臭い」と笑う。そんな能天気な龍太にも姉の真季の体調不良の原因はわかっている。両親も気づいているが認めたがらない。そして隠したがる。「まーきーはサーダカンマリ」と龍太は小さい頃からずっと気づいている。サーダカンマリとは沖縄の言葉で霊力が人並み外れて強く生まれてきた人達のことを言う。日本列島南方の琉球弧の島々には、科学技術が発展しきった現代でも目に見えない力を信じる慣習が根強く残っている。そしてその受け継がれてきた慣習の歴史が生んだ遺伝子の記憶の覚醒か?平成の今でも古代のシャーマンとほぼ同じ霊力を持つ子供達が生まれる。サーダカに生まれた子供達は、自らが持つ強い霊力に対し免疫が出来るまで原因不明の体調不良に悩み苦しむことが多い。それは、神や霊が自分の体に乗り移ってきた時、知らずに受け入れた強い力が病的な眠気や倦怠感、そして激しい頭痛となってあらわれるから。また神や霊などの目に見えない力の訴えを受ける時だけでなく、目の前で話している相手との間で波長が合うと、相手が抱えている悩みや痛みが自分にも乗り移る。全く同じ現象を体験してしまう。更に霊力が強いが上に、科学技術が栄華を極めるこの社会の中で見えない筈のものが見えてしまい、それを誰に言っても信じてもらえず精神的に悩むことも多い。古代より時代が進めば進む程、霊的なものは蔑視されゆく中、自分の体が霊的なものに反応することが劣等感になっていく。昔から沖縄には「ナティヌ アンマサヤ カミングヮー(なって苦しいのは神の子)」という言葉がある。霊力が高く生まれても苦労するだけ。神の声、霊の声、あらゆる人間達の内に秘めた痛みを知ってしまうことは、いくら先天的に神に仕える身としてこの世に生を受けてきたとはいえ、ただただ苦しいだろうと昔から神人達を間近で見てきた先人達はそういう感想を持った。そしてそれは娘がサーダカだと信じたくない真季の両親の心にある気持ちと何ら変わりはなかった。普通の人生を送って欲しいと願う両親の真季に対する願いは、龍太も生まれてから物心つく頃には自然と理解ができた。否定してあげたいと思う。でも、真季は間違いなくサーダカンマリだ、と龍太は確信している。姉の真季と一緒に遊んでいる時、急に誰もいない空間に向かって話かけている真季を小さな頃から何度も見てきている。布団を並べて寝ている時に、真季が夢を見ながら誰かと喋っている会話を聞いている。そして、真季は龍太が怪我をすると同じ箇所が痛くなり、病気になると同じ症状で病気になる。真季には見えていて、自分には見えていないもの達の存在を龍太は小さな頃から自然と感じることができた。真季を通して身近に感じる不思議な力は、恐れを感じる類のものではなかったけれど、子供の真季には重たいだろうとは気づいていた。
真季の咳がおさまる。「さんぴん茶飲む?」と母親が真季に声をかけ、真季がうなずく空気感を龍太は感じた。体を拭き終えた龍太は、素っ裸のままリビングに行き、エアコンの下で冷気を感じながら、テレビのリモコンを手に取り標準語と関西弁溢れるバラエティー番組にチャンネルを合わせた。そこにさんぴん茶を取りに冷蔵庫に向かう母親が来て、また怒られる。
「えい、あんた。せめてパンツくらいはかんねー。全裸で家の中ウロウロして。裸世の港川原人でもあるまいし。はぁー、お母さん、あんた見てるとイライラしっぱなしさ」
龍太はまたいきなり怒られたので、胸に手を当てて「マブヤー、マブヤー」と呟くと、その呪文の言葉がさらに母親の逆鱗に触れた。
「お母さんが、あんたのためを思って言ってることで、魂落としてたら魂何個あっても足りんさー。あー、でーじイライラする」と母親に「めーごーさー(げんこつ)」と言われて頭をグーで殴られる。痛い・・・。「痛いやっしー」と龍太は言うとまためーごーさされて殴られた。反論は許されない。しかも、いきなり話題をかえて「で、あんた高校どこ行く?このままじゃ、お父さんやまーきーみたいになれないよ」と問いつめられる。殴られておいて、一番聞かれたくないことを聞かれる。そして、それが絶妙に理不尽なタイミングで合わせ技としてやって来る。母親とは真に恐ろしい存在である。「俺、水産でいいやっしー。水産だったら馬鹿でも入れるって皆言ってるから行ける筈さー」と龍太は母親に訴える。
糸満市内にある水産高校。昔は伝説の甲子園常連校であり、全国準優勝という結果で沖縄野球を全日本に知らしめた公立高校。漁業科、機関科、無線科を持つ海洋技術について学ぶ公立高校だが、時代の流れとともに普通科などへの進学率が上がる中、特殊技術を習う高校の存在感は落ち、現在は希望すれば入学できる高校へと形を変えていっている。どこか近くで入れる高校に入ればいいんだろという感覚でいた龍太に、またもめーごーさが振る舞われる。ぐっ、痛い・・・と龍太は殴られた場所を撫でる。たんこぶになってる。母は言う。
「あんた、漁師は駄目だからね。海は駄目。ということは、水産も駄目」
「なら、俺、高校は無理さ。先輩でも中卒の人いるし、高校行っても中退して結果最終学歴中卒の人も多いさ。ま、高校行かんでもなんくるないさー的な」と笑った瞬間、母の左めーごーさーが今度は頭ではなく右頬に入る。沖縄が生んだ天才ボクサー具志堅用高の左ストレートを彷彿とさせる。龍太は右手に持ったテレビのリモコンを無意識のうちに床に落としながら、ソファーの上にダウンした。
「そんな甘い考えだからナイチャー(本土の日本人)に沖縄は学力が低いとか、日本で一番頭が悪い県とか言われるさ。そんなんじゃ、これからのグローバル社会ではなんくるならんよー」とニュース番組を観るのが好きな母親、月子に龍太はノックアウトされた。ぬごぅおぉ、痛い・・・を通り越して、龍太の頭の中には星がちかちか舞っていた。その舞っている星の向こう側の宇宙の果てのような場所から声が聞こえる。
「今週末、久高行くからね。うふおばあ(ひーおばあちゃん)が体調悪いからお見舞い。わかった?勝手に遊びに行くんじゃないわよ」
龍太は思う、どうして母親というこの地球上の生物はこんなにも短時間に話題を変え続け、そしてそれを台風で吹き荒れる雨のように息子に浴びせることができるのかと。そんな疑問を思った時、隣の部屋から真季が咳込む音が聞こえた。「あっ、さんぴん茶」と月子は全裸でノックダウンしている息子を放置して冷蔵庫へと走った。看病が必要なのは姉だけでなく、ここにもいると龍太は思うが、その思いは体から分離して空中を浮遊した結果、クーラーの冷気にさらされて凍った。