【洗い髪たれ遊び】⑦
台風が勢力を発達させながらフィリピン沖からゆっくりと北上してくる。琉球弧の島々までまだその影響は届いていないが、月子の精神状態は既に暴風圏に入りかけていた。激しい頭痛が続き、何を食べても吐いてしまう。真季と龍太がいなくなってから5日目の朝、月子はついに家の中で倒れた。元々少し肥満気味だった太もだいぶ痩せた。まだなんとか役所には出勤できていたけれど月子の看病のため休みを取った。倒れた月子を抱き上げると軽い。自分が命を賭けて産んだ子供の行方がわからなくなると母親というものはここまで弱るのかと太は思う。布団を敷いて寝かせ、枕元にミネラルウォーターのペットボトルを置く。太も軽い頭痛を感じるが、ここで自分までが弱ってしまったら家族は駄目になってしまうと思い、覚悟を決めて、納豆ご飯を用意してはからしを多めに入れて細くなった喉の奥に押し込む。食べ終わって、台所でねっとりと糸引くぬめり気のある茶碗を洗っていると、寝室から微かな音が聞こえる。太は茶碗に残った洗剤を急いですすぎ、手をふいて、寝室に向かう。月子は目を覚まし、ペットボトルを開けようとするけれど蓋が固くて開かない。それを見て、太は気が回らなかったと後悔する。月子の手からペットボトルを取って、蓋を開けて、体を起こして水を口元まで持っていってあげる。月子は唇の端から少し水をこぼしながらもペットボトル半分を飲みきった。太は月子をもう一度寝かせる。そして、微笑みかける。それが今できることだと思った。太の顔を見て、月子が唇を動かそうとするから、「病院に行こうか?」と太が聞くと、月子は首を小さく横に振った。「わかった、家で少し休もう」と太は続けるがそれにも首を振る月子。そして小さく「久高に行きたい」と呟いた。
太は眉を少しだけゆがめる。久高島には小さな診療所しかない。行くべき場所は病院だろうと思う。だけど、月子は本能で気づいている。行かなければならないのは祈りの場所。子供達の安全を全知全能の自然の神々様に祈り、守ってくださいとお願いする。自分が生まれ育った久高島以上の祈りの場はこの琉球弧には存在しない。月子の表情を見て、太は月子が考えていることを察した。そしてその想いに寄り添うようにして太は頷いた。月子の体を起こし、服を着替えさせ、必要な荷物をまとめる手伝いをする。準備を手伝っていると、不思議な感覚が太の中で湧き上がってくる。故郷の島、久高が自分達を呼び戻そうとしているような気が太にはしてきた・・・。「生まれた島へ帰っておいで、故郷へ帰っておいで」と。
ヤギ率いる糸満漁師船団は漁を休んで沖縄本島南部から宮古島海域を目指す。神隠しにあった女子高生と男子中学生の捜索活動。沖縄本島海域は一周して探しに探して真季と龍太がいないのは確認した。ということは、サバニのスピードでたった数日のうちに沖縄本島を抜けて北に行っていることは考えにくい。ならば、南だということで本島南部から宮古島海域を集中的に探す。しかしサバニの影すらない。サバニの幻影すら見えない。ヤギは空を仰ぐ。そこにはただ青い世界がだだっぴろく広がっている。これは自分が風呂嫌いで身が清まっていないせいかもしれないとも思う。でも昨日嫁に石けんついたへちまたわしで嫌というほど体を洗われたのに・・・。久高島は聖なる島。その血筋の姉弟を探すには更に海で体を洗い清めるべきかも・・・という妄想にかられ、ヤギは服を脱いで全裸になって海に飛び込んだ。あだ名はヤギで草食動物をイメージさせるが、糸満漁師の伝統を受け継いだ男。ヤギも小さい頃から泳ぎを鍛え上げられている。海で泳ぐと生き返った気持ちすらする。ヤギは体を海で清めて、自分の漁船によじ上り、全裸のまま太陽の熱と生温い風で全身を乾かす。
「皆、このまま宮古島まで行くぞ。南航路を徹底的に探す。今日は宮古で泊まりだ。必ずやまーきーと龍太を見つけて、今夜は宮古のキャバクラで宮古美人達と祝いの宴さー」
まるでおとぎ話に出て来る海賊。竜宮城がこの世界のどこかにあると信じているかのよう。そのヤギのかけ声に糸満漁師達は「おおおー」と雄叫びをあげ、漁船を南に走らせる。しかし船を走らせど走らせど、真季と龍太の影は見えない。
激しい船酔いでダウンした真季と龍太。徳之島の浜辺で頭痛の潮が引くのを待ちながら眠り続けている。時間は深い夜。頭の中で真っ暗な闇が激しく渦を巻いていたけれど、だんだんお腹がぐるぐる鳴って、そちらの渦の音の方が大きくなる。龍太が空腹で目を覚ました後、真季が全く同じ理由で目を覚ます。二人の胃は痛みを感じる程に締め上げられる。そんな二人の目の前に無数の星が輝く夜空がある。
「あああ、お腹空いたぁー」と龍太は情けない声を出す。真季はお腹が空きすぎて言葉すら出てこない。ただ、みぞおちのあたりを右手で撫で続ける。あの星を食べられたらどんなにいいだろうとおとぎ話を読む子供の気持ちになってしまう。
「よく徳之島まで無事に来られたさ。立派さー」と笑い声が聞こえる。真季が後ろを振り返るとそこに熊おじいがいた。真季と龍太の顔を見て感心しきりのご様子。真季は龍太に熊おじいがいることを伝えると、龍太は誇らしげに胸を張った。サバニ初航海でなんとかここまで来られたことに少し自信が芽生える。そんな龍太を見て熊おじいは微笑む。
「頑張った二人におじいからご褒美あげようねー。お腹空いたさーねー」
どんなご褒美をくれるのかワクワクする真季と龍太。熊おじいは月明かりの中でサバニのそばの草むらを指差す。そこに一羽の丸々太った鶏が歩いている。徳之島の民家で飼われていた鶏が逃げ出したのだろうか・・・。真季は熊おじいの言おうとしていることを察して恐る恐る聞く。
「あれを食べろってこと?どうやって?だいたい何で鶏が普通に歩いてるさ・・・」
「簡単さー。絞めて、羽むしって、内蔵出して、焼いて食べればおいしいさ。上等なごちそう。徳之島の人は鳥を放し飼いで育てるからさー、その辺を普通に歩いているさ」
真季は次の言葉が見つからない。鶏肉は好きだけど、スーパーに売っている加工済みのお肉しか見た事ない。でも、こうやって生きている鶏を見るとリアリティが凄すぎる。差し迫ってくるものがある。熊おじいは続けて言う。
「あの鶏を絞めて食べなさい。食べなければまーきーと龍太が飢えて死ぬさ。食べるということは覚悟がいることさ。そうやって命を頂くということのありがたさを勉強しないといけんさね。やり方はおじいが教えてあげるから二人であの鶏を捕まえなさい」
真季は熊おじいの話した内容を龍太に伝える。龍太は軽いショックを受ける。魚は自分で穫って、そのまま食べることに抵抗を感じなかったけれど、鶏となるとレベルが一段上がる。躊躇している二人のお腹が激しく鳴る。胃酸が溢れすぎて眩暈すら感じる。このままでは空腹の渦潮に飲み込まれてしまう。何もしなければ最終的に行き着くところは死なんだろうと薄々感じ始める真季と龍太。そんな究極の選択を今まで生きていた中でしたことない・・・。思えば、サバニで出航してから、サトウキビやタコ&魚数匹しか食べていない。今まで初めての航海の緊張感でそんなにお腹も減らなかったけれど、ここに来て、その反動が来る。真季も龍太も選択を迫られる。生きるのか、死ぬのか。大袈裟かもしれないけれど、その選択に唾をごくりと飲み込む二人。龍太はゆっくりと鶏に近づき、がっつと捕まえて抱きかかえる。驚いた鶏は暴れる。そこに熊おじいのアドバイスが入る。
「足を持って、頭を下にして逆さまにしなさい。そうしたら大人しくなるから」
真季は慌てて熊おじいのアドバイスを龍太に告げて、龍太は言われた通りにする。すると鶏は何も抵抗できなくなり羽を少しばたつかせるだけ。
「そう、そのまま鶏の頭に血を上らせるさ。10分くらいそのまま持っていなさい。その間にまーきー、サバニから包丁を持ってきなさい」
真季は言われた通り、魚をさばく包丁を持ってくる。龍太は逆さにして持った鶏の命の鼓動を、心臓の響きを掌で感じ続ける。真季も龍太が持った鶏のお腹が膨らんだりへこんだりするのを見て呼吸を感じる。ああ生きている・・・と真季も龍太も緊張する。熊おじいが頃合いを見計らう。
「もうそろそろ良いだろう。まーきー、その包丁で鶏の首を落としなさい。鶏の顔を握ってあげて、鶏が怖くないように目隠しをしてあげて。首を切って、そのまま逆さまにしたまま血抜きをする。首を切った後、しばらく体が暴れるけれど少ししたら収まるから」
真季は一瞬ためらうけれど、もう行くしかないと覚悟を決める。怖いという気持ちしかない。なんでこんな恐怖と向き合わなきゃいけないの・・・と真季は逃げたくなる。でも、しっかり目隠ししてあげないと鶏が怖がるから、命を頂く礼儀としてなんとか苦しませないようにと真季は思いやる。逆さまの鶏の頭を掴む。とさかとくちばしの感触がリアルに手に伝わる。そして首元をよく確認する。包丁を入れる場所をよく見て、真季は目をつぶって包丁を首に入れた。半分まで首を切ったところで包丁が止まってしまった。暴れる鶏。血が飛ぶ。
「まーきー、早く首を切ってあげて。苦しんでるさー」と龍太が大声で叫ぶ。包丁を入れる前に目をつぶってしまったのがいけなかった。真季は慌てて頭をしっかりと握り、「ごめんなさい、本当にごめんなさい」と心の中で謝りながら残りの半分を切り落とす。少量の返り血を顔に浴びて、掌にある鶏の首をしずかに地面に置く。首が切れても、鶏の体はその後しばらく動き続けたが龍太がしっかりと鶏の足首を持ち続ける。血が体から抜けていくほどに鶏は動かなくなった。真季と龍太の心になんともいえない感情が残る。命を奪ったことへの恐怖か罪悪感か。苦しまずに殺してあげられなかった後悔か。肉を食べる、命を食べるということの意味を知る。
「鳥を海水で洗いながら羽をむしりなさい。そして、羽をむしり終わったら、お尻の穴から手を突っ込んで内蔵を引っ張りだして、内蔵も水で洗いなさい。血はきれいに洗い流すこと。鶏の血は雑菌が多いから体の中に入ると体調を崩すさー」
熊おじいに教えてもらうがままに真季と龍太は海に入り、鶏の体を洗いながら羽をむしる。なかなか大変な作業。二人がかりで30分近くかかっただろうか。むしりとった羽は潮の流れにのって海の上を流れて行く。細かい毛以外なくなると、龍太は肛門に手を突っ込み内蔵を引き出した。焼き鳥屋さんで見た事のある肉の形がいっぱい出てくる。レバー、砂肝、心臓などなど。内蔵もよく海水で洗い、真季と龍太は浜辺に戻って火を起こす。まだ夜は暗いまま。拾ってきた木や草に泡盛を少量かけて、ライターで火をつける。小魚と違って、鶏肉を焼くには結構な火力が必要ということで、真季が木や草を拾い続けてきては龍太に渡す。龍太は、火を大きく育てるために、炎を慈しむようにして木や草をそっと投げ入れる。圧倒的な量の暗闇の中で火を起こして、その火が大きくなるように育ててみるとこの世界は自分が支配しているんじゃないかという不思議な錯覚に陥る。それほどに炎は不思議。温かくて、明るくて、熱くて、全てを焼き尽くす。龍太は火の勢いを確かめてから、まずは小さい内蔵から焼いていく。砂肝がいい感じに焼ける。生が怖いのでちょっと焦げるくらいで。それを真季に渡す。硬い表情で「ありがとう」と龍太に伝える真季。ついさっきまで生きていた鶏を自分で殺したのだと真季は思う。何を思っていいのかわからない。でも、腹筋と背筋がくっつきそうなくらいお腹が空いている。真季は意を決して砂肝を口の中に入れて肉を噛む。砂肝だけに弾力が凄いけれど、噛む程に旨味がお腹の奥にじわっと広がってしみ込む。そして真季は少しの涙を左目の端から零した。「ありがとうございます、おいしいです、ごちそう様です」と肉を噛みながら、自分に食べられてくれた命に感謝する。美味しさを空腹の胃全体で感じる。龍太は真季の気持ちがわかった。焼いたレバーを自分で食べてみる。口の中に広がる味わい。新鮮な命の余韻。命を頂くことで自分の命が強くなる。この真っ暗な夜という世界が終わって、光が満ちる明日という未来に命を繋いでくれる。龍太も「ありがとうございます、とてもおいしいです。ごちそう様です」と小さく呟いた。真季も龍太も一口ずつ食べたら、胃液が湧き水のようにとめどなく体内の中心に溢れ出してきた。自分の命を未来に繋ぐために本能が反応する。もっと食べたいと真季と龍太はむさぼるように次々と鶏の肉を焼く。もも、ささみ、むね肉、手羽先、ナンコツ。肉という肉すべてを食い尽くす。骨と足以外のすべてを胃の中に入れる。満腹感とともに体に力がみなぎってくるのがわかる。食物連鎖が我々の命を強くする。人間以外の動物はもしかしたら命を頂くありがたさを当たり前のこととしてわかっているのかもしれないけれど、真季と龍太は今、初めて観念でなく自分のこととして実感した。
そんな二人を静かにずっと見ていた熊おじいは食後の二人に聞く。
「これからどうするつもりか?」
空腹を満たした龍太にはその意味がよくわかる。冷静に客観的に。このまま琉球弧の島を、今まで来たように目の前に見える島を繋ぎ繋ぎ上がっていって九州まで行くのか?そのルートであれば、徳之島の目の前にある奄美大島まで行って、次はちょっと遠いけれど宝島。宝島までたどり着ければ後は安全。島と島の間は狭い。でもこれじゃ各駅停車。一般道を信号を守りながらサバニを進ませているのと変わらない。富おばあのために先を急ぐならハイウェイに乗らなければならない。龍太は決断を迫られているのを感じる。命を失うかもしれない。でも、サバニで航海する前からずっと地図帳を見ながら考え続けていた。宝島までついたら後は東シナ海に出る。ハイウェイ対馬海流までサバニを進めて、一気に出雲まで行く。宝島を出てしまったら、もう立ち寄ることのできる島はない。大海原に浮かぶ小さな木の舟。それを思うと怖い・・・。島伝いに九州までは簡単に行けそうな気がする。鹿児島県の野間岬まで辿り着ければ後は九州西海岸を北上し陸から離れすぎないところを航海していればいい。風の強い日があればすぐに浜辺に逃げ来んでは天気と海が落ち着くのを待てばいい。宝島から九州本島を目指して薩南諸島、屋久島、種子島を経由していくのであれば出雲までたどり着く自信はある。でもそれだと時間がかかりすぎる。時間はない。安全な道を選ぶのか、危険な道を選ぶのか。龍太は目をつぶって対馬海流をイメージする。そして、そこにたどり着くシナリオを脳内で描く。死ぬかもしれないけれど、でも・・その道が龍太のイマジネーションの中で輝いている。怖かったら怖いほど、逆にそこに飛び込むんだと運命が自分を誘惑している。龍太は右手を握りしめる。中指の爪が掌に食い込み血が少しだけ出る。覚悟を決める。龍太は少し血のついたその右手で無意識に真季の左手を握る。真季は龍太の顔を見る。龍太がまだ小学校に上がる前、姉としてよく龍太の手を握ってあげたことを思い出した。小学生になってから後の龍太が姉の手を求めてきたことはない。でも、今、その龍太が私の手を求めてきたと真季は思った。真季は龍太が同じ気持ちでいて欲しいと10年ぶりくらいに自分にお願いしてきているのを感じた。それは死を意味するのかもしれない。怖い・・・。でも、きっと生きるということは常に死と向き合うことなのだろう。生きる実感を強く得るほどに死は黒い影をおびて差し迫ってくるのだろう。死を怖いと思うのは強く生きている証なのだと自然に思う。思春期の女子高生でも死ぬことを怖がっていては何もできないことには薄々気づいている。握りしめた龍太の右手が大きくなったことが真季は嬉しかった。真季はその大きな手をぎゅっと強く握りかえした。龍太は小さい頃からの記憶でお姉ちゃんがそうやって手を強く握り返してくれた時は守ってくれるという意味だと知っている。
「熊おじい。宝島から対馬海流に出る」
龍太はそう高々と宣言した。熊おじいは腕組みをしながら嬉しそうに笑う。
「死ぬかもしれないぞ?」
「後悔しながら生きるよりもいいさ」
熊おじいはその若い気負いを鼻で笑い飛ばす。若いなーと熊おじいは泣きたくなる。死ぬかもしれないなーと呆然と思う。でも、龍太の体の中で若き血潮の息吹がぐつぐつ煮えたぎっているのを感じる。若さゆえの無謀は神様が最も愛すべき人間の行為。神様は見守ってくれるかもしれない、この無邪気な挑戦をしなければならない龍太の運命を・・・。熊おじいは死んでなお神様に祈る、この若者達を導きたまえと。そして真季と龍太の頭を撫でた後、二人の前から消えた。同時に太陽が東の空から登りはじめた。
(さて行かなくちゃ・・・)と真季と龍太は心の中で同時に思う。二人は頂いた鶏の食べられない部分、骨や足、顔などを土に埋めて、改めて「御馳走様でした」と手を合わせた。それから二人は出航準備に取りかかる。




