【洗い髪たれ遊び】⑤
夜9時のNHKのニュースで熱帯低気圧が台風に変わったと報道される。太と月子の胸が呼吸困難になりそうなほど締めつけられる。台風に発達しないで・・・と心の中で祈れるだけ祈ったのに、届かない想い・・・。真季と龍太に会いたい気持ちは怖いぐらいに強くなり、狂い死んでしまいそう。自分達が子供達を育てていたつもりが、それと同じ量だけ子供の存在に依存して、生きていく糧にしていたことに気づかされる。子供達に生かされていた事を今更ながらにして思い知る。糸満の漁師達は真季と龍太の行方を探すために必死になる。漁すら休む。沖縄県警の知り合いにも頼み倒して、なんとかパトロールの際に意識的に二人に似た少年少女が街を歩いていないか調べてもらう。漁師の娘に何人か那覇空港で働くグランドスタッフがいるので、二人の名前が飛行機の搭乗名簿などにあったら教えてくれと頼んでいるが全く手がかりがない。沖縄本島中のネットワークを使って情報を引き上げても何もかかってこない。これだけの大規模な網にかかってこない魚は海ではいない。フェリー乗り場の泊港の知り合いにも、運天港のスタッフにも確認してもらったけれど影すらない。
糸満漁師の頭を張り、龍太を糸満ハーレーにスカウトしたヤギは眉をしかめる。海に潜るのは平気だけれど、風呂に入るのがあまり好きではない漁師ヤギ。沖縄ではヤギを食べる。そしてそのヤギを汁物にして食べるが、その獣臭が満載のひーじゃー(ヤギ)汁を食べきれる若者は今や絶滅寸前。戦前、戦時中ヤギはごちそうだった。金玉まで食べきる。でも時代が進んで牛肉、豚肉、鶏肉が簡単にスーパーで買えるようになるとヤギを食べる理由がなくなる。ヤギというニックネームも匂うところから来ているが、それでも二日に一度は嫁に風呂に入れられて無理矢理体を洗われる。ただ風呂に入って石けんを使っても皮膚から落ちない磯の香りが体の芯まで染みついてしまっている。纏っているのは海の匂い。むしろ海の匂いが落ちない程に海で仕事をし続ける頭領を尊敬と少しの冷やかしの気持ちを持って同僚はヤギと呼んだ。体中日焼けして、両腕の筋肉が子豚ほどにもあり、酒の飲み過ぎで腹が膨れ上がった漁師ヤギはこめかみに指を当てて何度も揉みほぐす。
「なんだ、これは?どうして龍太の足取りが全くどこにもない?沖縄本島中探してるさ?何で足跡一つない?俺たち糸満漁師の力はこんなもんか?俺達が全力で探しても行く先が掴めないってことは、警察やらヤクザの形式ばった情報網じゃわからんさー」
糸満漁師は遠い昔から太平洋を自由に行き来し、世界中にネットワークを張る一族。ヤギはコメカミに指を当てながら、ずっとガムを噛んでいる。昔から糸満の海人の持つ太平洋一円に広がる情報網は漁に使う網と同じで世界の最先端の情報を捕まえていた。なのに今、その網にかからない情報を前にして焦りを感じる。こんなもんなのか俺達は・・・。俺達の情報網は最先端の情報社会では役に立たない程の時代遅れになってしまったのか・・・とヤギが自問自答を繰り返していたその時、「ヤギっ」と糸満漁港脇の喫煙所に慌てて走ってくる男がいる。龍太と同じ糸満ハーレーチームの、今年二十歳になる新米漁師。
「掴んだ、わかった、龍太・・・」と新米漁師が立ち止まって息を整えながら親分のヤギに報告しようとするが言葉が続かない。
「焦らんでいいからゆっくり話せ」とヤギに言われて、新米漁師はとにかく酸素を体の中に吸い込んでは呼吸を整える。
「本島いくら探しても駄目さ。さっきまで久高島出身の知り合いと朝キャバで飲んで、食堂でそば食ってた訳さー。今日は俺、漁休みだし。帰り際までそいつが久高島出身だって思い出さなかったんだけど、あっ!と思って聞いてみた訳さ、龍太って知ってる?って」
そこで新米漁師は間を置いた。ヤギは耳をぴくぴくさせながら、あごの無精ひげを落ち着かないそぶりで触り続けながら、舌の先を歯で軽く噛みながら続きを待つ。そして「龍太・・・。ああ・・・」と言ってそいつは話していいのか駄目なのか考え始めたと新米漁師はヤギに伝えた。食堂でおばちゃんに島酒二杯頼んで、お互い久々にイッキでもしないと提案し、「俺のおごりだから」と付け加える。泡盛のストレートが届くと、二人で根性試しを一気に飲み干し、酔いが更にまわって久高島出身の知り合いは眠そうな目を擦りながら言葉を零すように話始めた。秘密を胸にしまい続けるというのはストレスでもある。
「今の時代、誰も信じないかもしれないけれど、久高は不思議な島さ。龍太も糸満に住んでいるけれど、あの家族は全員久高の血以外入っていないさ。そして、あそこのうふおばの富さんが今年死にかけている。年には勝てないから仕方のないことだけれど。あまり言いたくないけれど・・・久高島はずっと神の島として続いていたけれど、富さんの世代が死んでしまうと神に祈るための儀式を司る女達がいなくなり普通の過疎化した田舎の島になってしまう。もうギリギリの状態さ。その女達がいなくなったら、この世界は終わるかもしれないという噂を聞いたことがある。信じられないことだけれど、真季と龍太は久高の神様から富さんを死なせないようにと命じられて、この世界のどこかにある不老不死の薬を探すためにサバニで海に出たという話さ。秘密の話だけど島ではもう知らない人はいない」
「サバニ?誰のサバニ?」
「龍太の家系は、久高ではずっと鮫漁師の一族で昔から続く木製のサバニを持っている」
「そのサバニに乗って、二人は海に出たってこと?」
「そう。久高島からサバニに乗って。久高の人達も、真季と龍太の両親もこの事実をどうやって受け止めていいのかわからずにいる・・・」
そこまで聞いて糸満の新米漁師は那覇で働く後輩に電話をし、すぐに車で迎えに来てもらい糸満漁港まで急いで送ってもらったとのことだった。話している内容が酒臭い。でも、これだけ探して網に引っかからない二人。久高島からサバニで海に繰り出していたとしたら、本島をいくら探しても二人の情報は掴めない。ヤギが聞く、「行く先は?」
新米漁師は仲間から水をもらって飲みながら応える。
「不老不死の薬を探す以外の情報は何もないらしいさ。久高の人でも二人がどこを目指しているのかわからない。ただ、海に出たのは間違いない」
ヤギが自分の舌を甘噛みしながら熟考する。視線は斜め上。このご時世、エンジンを積まない木製のサバニで海に出る龍太の気が知れない。不老不死の薬?動機がイカれてる。一体、それはどこにあるんだ?と更に疑問が続く。ただ、もし本当に龍太が古代から続く原始的な木製のサバニで航海をしているのなら、その肝っ玉の強さに感心する。とにかく龍太に会いたい。もしその不老不死とやらを探すのを手伝えるのなら手伝ってやりたいとすらヤギは思う。ヤギは鼻の穴を大きくあけて息を吸い込み、喫煙所に集まっていた漁師達に声をかけた。
「皆、船出すぞ。沖縄本島海域、全部探すんだ。木製のサバニならまだ俺たちの目と鼻の先にいる筈さー。そんなに遠くに行ける筈がない」
それを聞いた漁師達は皆、いてもたってもいられない表情で慌てて火のついたタバコを灰皿に投げ込んで船に向かって走り始めた。漁港内の船という船のエンジンがうなり声をあげる。船が次々と海に出て行く。ヤギも皆が出発したのを確認した後、最後に自分の漁船を漁港から出発させた。
沖縄本島との別れをしみじみと感じている間もなく、あっという間に与論島の海域まで着いてしまった真季と龍太。なんだか少し拍子抜けする。太陽はまだ空高くにある。今日は天気が良くて、風の向きもいい。与論島にサバニを上陸させるよりは、なんとか頑張って、その先の沖永良部島まで行ってしまいたい。今日は海は静か。でも明日は大荒れかもしれない。いつ海が荒れるかわからないから、遠くまで行けるだけ行っておきたいと龍太は思う。
「まーきー、もう少し頑張って、今日中に沖永良部島まで行きたいけどいい?」
龍太が真季に地図帳を見せながらそう聞くと真季は納得した顔で頷く。既に夜ご飯のメドもついているし、行ける時に行けるだけ行くのがいいと真季も思う。龍太は真季の同意を確認して真っ赤な帆を少しきつく締め上げた。帆が緩んでいると風を捕まえきれない。余すところなく風を捕まえないともったいない。締めた帆に風がぶつかっては膨らむ。スピードがあがる。後は、潮の流れ。エークを使って風を捕まえながら前進するサバニの方向を調整する。与論島を左に見ながら、北を目指す。沖永良部島の島影は薄ら見えている。なんとか陽が暮れる前にあそこまで、と龍太は思う。順調にサバニは航海している。風が気持ちいい。
「陽が暮れる前にはなんとか着きそうじゃない、沖永良部島に」と真季は龍太の地図帳をじっと見つめながら今いる場所を確認して楽観的に龍太に声をかける。龍太は真季の目を見て、「そう思う」という意味を込めて左目で軽くウィンクする。龍太の航海術も日に日にあがっていて、サバニは今のところスムーズに海の上を走っている。
糸満漁師達が沖縄本島沿岸を徹底的に捜索する。だけどどこにも真季と龍太はいない。そこにはただ水があり、雲があり、空があるだけ・・・。風は穏やか。太陽は眩しい。久高島で広まった秘密の噂を信じるのなら、二人は神隠しにかかったと考えてもおかしくない。ヤギは自分の遠い親戚のおばさんから聞いた話を思い出す。友達がある日突然いなくなって、それ以来二度と会えなくなったという話。沖縄では神隠しにあったという昔話は少なくない。
「真季と龍太が神隠し・・・そんな馬鹿な・・・」と呟きながらヤギは漁船のエンジンをフル回転して海を駆け回る。世界中どこにいてもGPSで自分の位置がわかって、正確な天気予報がリアルタイムで入ってきて、魚群探知機は魚の場所を教えてくれる時代。人間が発展させ続けてきた文明を駆使すれば、できないことはないと強気に思う。神隠しなんてある訳ない。でも自然の怖さは知っている。それでも、人間はその自然の怖さに立ち向かい続けて強くなった。神隠しじゃない。必ず二人を見つけ出す。ヤギはそう思いながら本島東海岸をエンジン全開で探しまわった結果、ガス欠で漁船が止まるアクシデントに見舞われる。そばにいた後輩漁師達が呆れる。男気があって、熱い気持ちがあって、優しくて、率先して困難に立ち向かう男だけれど、どこか抜けていて、愛嬌がある。だからこの人を一人にしちゃいけない、支えてあげなきゃいけないと人が集まり、自然と漁港のリーダーになったヤギ。呆れた後輩達は、「ヤギ、そこで一晩頭冷やしてな。明日の朝、ガソリンもって迎えにきてあげるさー」と糸満漁港に帰ろうとする。いつの間にか空は夕焼けと暗闇が混じり紫色。雨雲に発達しそうな千切れ雲が浮かぶ。明日は雨が降るなと漁師達は思う。海も荒れるかもしれない。冷やかしとはいえヤギを海に置いてけぼりにするのはちょっと危ないと判断し、3隻の船で引っ張っていくことに決める。恥ずかしそうに「申し訳ない」と頭を下げるヤギ。そして、真季と龍太の捜索に出た漁船が続々と糸満漁港に戻ってくる。沖縄本島海域を隙間無く探してくれた他の漁師達に話を聞くと、誰一人として二人の影を見たものはいない。ヤギは両手で頭を抱える。木造のサバニだ・・・。そんなに遠くに行く訳ない。海の底の竜宮城にでも行かない限り本島海域のどこかにいる筈なのに、なぜどこにもいない・・・とヤギの顔は青ざめる。
「真季と龍太は本当に神隠しにあってしまったのだろうか・・・」




