【洗い髪たれ遊び】③
龍太は八雲を見る。頭上の雲の流れは南から北。風の流れはバッチリなのを確認して龍太は地図帳を広げて、視線の先に薄ら見える島の名前を調べる。安田ヶ島。沖縄育ちとはいえ、最近の沖縄の子供は沖縄のことより内地の方に目が行くから地元のこと、地元の地理、地元の歴史にはあまりなじみがない。そしてもちろん龍太も真季も安田ヶ島の名前は知らない。
風がちょっと強く吹き始めた。帆が風を掴んで膨らんでサバニはスピードをあげる。一時間半ぐらい経っただろうか。安田ヶ島の目の前まで辿り着いた。どうやら干潮間近のようで、島まわりの潮が引き始めていく浅い海のリーフにヒヤヒヤしながら舟底を傷つけないように龍太は砂浜にサバニをあげた。サバニを台車に乗せて木陰まで二人で押して運ぶ。一息ついて海を改めて見てみると、まさに干潮真っ盛りだった。大空の下に剥き出しになった珊瑚礁が現れる。沖縄でイノーとよばれる潮が引いた後の海。満潮時に海を泳いでいた生き物が引いていく潮の流れに乗り遅れて浅瀬のリーフにはまる。浅瀬の潮溜まりに取り残された魚や貝、海藻を人間が何の苦労もなく収穫する。昔からイノーは海の畑と沖縄では呼ばれる。久高島も太古の時代からイノーの恩恵を受けて命を繋いできた。真季はおばあ達に昔からイノーの話を聞いているから、もしかして魚がいないかな?と浅い海に島草履を履いた足を入れて海を物色する。リーフを素足で歩くと足の裏が切れてしまうので島草履がめくれないよう気をつけて歩く。龍太も後に続いて浅い潮溜まりに小魚を数匹見つけたが、これじゃお腹は満たされないと思って見過ごす。真季は珊瑚礁に引っかかった海藻を取ってみる。ミネラルはこれで取れる。でもこれじゃお腹は満たされない。思ったよりも難しい食料探しにうーんと頭を掻く龍太。銛を持って浅瀬よりも奥の海に潜って魚をついてこようかと思ったその時、真季が「龍太ぁっー」と叫ぶ。
龍太は真季の方を向く。真季が右手で海面を指しながら、左手を何度も振って龍太に早く来てと手招きしている。龍太は小走りで真季の元に駆け寄る。
「ここ見て、タコの足」と真季が指差した場所を覗き込むとリーフに空いた穴の隙間がタコ壷のようになっている。そこからタコの足が2本見えた。
「ナイス、まーきー」と龍太は早速タコの足を掴むけれど、ヌメヌメして滑る。仕方ないと思い、右手でタコの足を掴みながら、左手を使って海パンを脱ぐ。フルチン状態で左手に持った海パンをタコの足に巻き付けて滑り止めにしながら両手でタコの足を掴んで引っ張り出す。ものすごい吸引力で抵抗するタコ。真っ黒な墨を吐き出しては潮溜りを黒く染める。龍太の足にも股間にも墨が飛び跳ねる。長き押し引きの末、疲れたのかタコの力が一瞬弱まる。龍太はその隙を見逃さずここが勝負どころと歯を食いしばって地面から大根を引っこ抜くようにしてタコを引っこ抜いた。すぽーーーんという音とともに目の前に現れたのは30センチはあろうかというタコ。滑り止めに使った海パンは墨で真っ黒。真季は龍太の全裸を見るに見かねて、そそくさと砂浜に向かって帰る足を進める。龍太はタコを掴みながら後に続く。その姿は全裸で食料を手に海岸を歩く原始時代の人間の姿となんら変わりないのかもしれない。
タコをサバニの中に入れて、海水パンツにまみれた墨を海水で洗う龍太。全裸のままキレイになったのを確認して海水パンツをサバニの先端に引っ掛けて乾かす。そしてスポーツバックから着替えを取り出して真っ裸の上にジーンズ生地のハーフパンツを履き、白いポロシャツを頭から被って原始人から縄文人くらいの格好にアップグレードする。着替えが一段落すると龍太はタコを焼くための手頃な流木や地面に落ちている小枝などを浜で拾い始める。真季はタコだけでは味気ないと思い、食べられそうな海草をもう一度イノーに穫りに行く。生きるために自分で食料を取って、命を明日に繋ぐ活動を自分達自身でしていることに新鮮さを感じる真季と龍太。
龍太は集めた流木を、風をよける岩場の影に集めて糸満から持ってきた泡盛を少しだけかけて湿らせる。そしてアルコールがしみている木にコンビニで買った百円ライターで火をつける。
「まーきー、ちょっとだけ風が入って来るから火の壁になって座って。まーきーで風を防ぐから」と龍太に言われて岩場とは反対の側にしゃがむ真季。百円ライターの小さな火が小枝にうつって、じわじわと他の流木を巻き込んで炎に変わっていく。日が暮れて夜が近づく。炎が闇夜に浮かび上がる。龍太は、残酷だとは思いながら「ごめんね」と言いながら生きたタコの足をサバニに積んであった包丁で8本切る。そして鮫を突く銛に刺して一本を火のそばに運ぶ。大物なので足一本でもちょっとしたボリューム。足を八本失ってもタコはサバニの中で動いている。足を焼くことに成功したら、最後内蔵を取り出して、内蔵焼きと頭焼きを味わおうと龍太は思う。一本じっくり焼いてみた。そして生焼けじゃないか自分で食べてみる。すると塩味がきいていておいしい。
「おっ、いける」と思わず龍太は声に出す。タコ足を口にくわえたまま、すぐに真季のために一本焼く。
「まーきー、食べてみて」と龍太は焼いたタコの足をすこし冷まして真季に手渡す。真季はその足を勢い良く思いっきり噛む。真季の顔は大きく目を見開いて自然と笑顔になる。ぱっちりと開いた瞳がタコの身を見返す。思った以上に柔らかくてビックリ。取り立てのタコってこんな感じなの?そしてほどよく塩味が聞いていて美味しいと真季は奥歯で何回もタコの身を噛み締めながら口に広がる旨味を味わい尽くす。空腹感も手伝って、真季は龍太に「もっと食べたい」と訴える。龍太は「こんなにおいしいタコ食べたの初めてじゃない?スーパーじゃ売ってない筈よ」と嬉しそうに笑う。自分達で取った食料で自分達の命を未来へ繋げる。ちょっとだけ自立というものを感じる。真季と龍太はそれぞれタコの足を4本ずつ食べて、真季が穫ってきた海藻をよく噛んで胃の中に流し込んだ。タコの身も海藻も何度も何度も噛んで食べたから、脳内の満腹中枢が満たされて、二人はお腹いっぱいになる。
「後、頭があるけど、どうする?捨てるのももったいないし・・・」と龍太が言うと、真季は何のためらいもなくタコの頭の中に手を突っ込んで内蔵や墨袋を引っ張りだし、目玉を落とし、内蔵とそれ以外に分けて、海水につけてきれいに洗い、サバニの木板の上に頭と内蔵をそれぞれ干した。
「天日干しにすればいいでしょ」と真季は一連の手際の良い作業をあっさりと説明する。龍太はその技術に感心しながら真季が小さい頃から母親に料理や魚の処理の手ほどきを受けてきた日々を思い出す。真季はなんとなく炎の揺らめきを見つめながら糸満の家の台所を思い出す。ぱちぱちと木が割れる音がして火の粉が飛ぶ。漁師の家系に生まれた女として母の月子は自分が母親やおばあから叩き込まれた生きていく術を娘には伝えなければと、自分が小さい頃に習ったことはどれだけ真季が嫌がっても真季にやらせた。そこにタコの処理も入れば、魚のさばき方も何もかも含まれている。だから真季は小さい頃から魚の鱗にまみれ、内蔵の血で小さな手を染めながら、魚の匂いが爪の間に染み付くことを自然のことだと思っていた。真季が駄目なのは海蛇だけ。真季はおばあから聞いた、男が取ってきた魚が海から浜辺にあがった瞬間、その魚の処理も販売も女の仕事。その遺伝子を微かでも未来に繋いでいこうという本能が母である月子にも働いたのだろう。月子は実際に男が取ってきた魚介類を一番新鮮な状態でさばく女仕事を見た事はなかった。もしかしたら小さな頃に見たのかもしれないけれど記憶に残っていない。夫の太の家は寅也おじいが死ぬまで漁師は続けていたけれど、それでも漁業が金にならなくなったので最後は漁に出る回数を減らしていた。月子の家は比較的早い段階で漁業に見切りをつけて父親が定期的に沖縄本島に渡って仕事をしにいっては島に帰って来る生活だった。だから漁師の家の娘という意識は月子自身あまり持っていなかったけれど、母やおばあや家を守ってきた女達から魚を取り扱う話はよく聞かされていた。そして家で魚介類をさばいたり調理する時は必ずといって言い程手伝いをさせられた。その経験を次の世代に繋いでいく必要がある。月子は意識的に肉よりも魚を多く食卓に出すようにして、調理する時は自分が小さい頃そうであったように真季に手伝わせた。母親と娘の関係は台所で繋がり、過去から未来へと受け継がれる。真季は思う、フェミニズムを主張する人達は言うのかもしれない・・・女は家族の食事を作るために生きているだけの料理人ではないと。でも、真季は思う、もしかしたら昔の人達はその主張に首を傾げる可能性もあるんじゃないかと・・・。台所は自分達が生きた記憶を自分の娘に伝える場所だったんではないか?その場所に一緒にいるといろんな話ができて、お互いの悩みを打ち明けられる。真季は台所にいる時は母親との距離がとても近いといつも感じていた。昔からずっと台所では男達がいる食卓では話せないことを女同士が正直に話せていたのかもしれない。特に女として体つきが変わり、生理が始まったりした時はなんとなく男達のいない台所で母親に相談したりした。逆にきっと男達は男達で海に出て男同士の話をしていた。男同士、女同士、かつてはそれぞれの持ち場で真剣に親子が命を明日に繋いでいくための話し合いをしていたんだろうと真季は思う。でも、今はその持ち場の所在も曖昧で、話合う場もない世の中になってきている近代社会。真季が小さい頃から台所で過ごす時間を作られたのは、自分の持ち場を守る意識を養うためなのかもしれない。持ち場は台所でなくても構わない。家族のために外に出て働くことで持ち場を確保してもいい。昔と違う。今は男女平等の世の中なのだ。そもそも沖縄の女は当たり前のように外に働きに出ているし。でも、平等であるが故に自由であるが故に選択肢が多いが故に男も女も自分の本当の持ち場を見失いやすいのも事実なのかもしれない。不確かな時代。それはきっと遠い遠い昔から変わらない。明日何が起こるかわからない世界で自分の存在意義を定義することは簡単ではない。持ち場を失った人間はさまよい苦しむのだと思う、テレビのニュースなどを見ても。犯罪を起こす人を見て、なぜそんなことをしたんだろうと不思議に思う事も多い。でもそういう人達に共通しているのは自分の居場所、つまり持ち場がないことなんじゃないかと薄ら思う。それを昔の人達は知っていたかもしれない。だから男として生まれた意義、女として生まれた意義を初めから明確に分けてしまって、生まれた時からその枠の中で生きていくことに専念した。自分の持ち場を守ることで得られる幸せを喜んだ。自分の存在意義を証明するには人生はあまりに短いんだろう、きっと。特に昔は人生50年あれば大往生だったのだ。30年近い短い人生でできることは限られていた。生まれた運命をそのまま自然と受け入れる。そんな飾り気のない生き方だったんじゃないだろうか。男はウミンチュ、女はカミンチュ・・・久高島の言葉をふと思い出す。そんなことを真季は真っ暗な夜の中、弟とたき火にあたりながらなんとなく考えたりしてしまった。真っ黒な闇夜の中で炎を見つめていると哲学的な考えが脳内に溢れてしまう。真季は普段考えないことを無意識に考えている自分は一体何物なんだろうと星空の下で頭を掻く。
炎をしばらく見つめた後、真季の瞼が重たくなる。体が温かい火に溶かされてしまいそうな程、疲れている。真季は目を擦りながら、「お休み」と龍太に声をかけ、サバニの中に体を横たえる。龍太は姉が眠りに落ちたサバニの上に帆をかぶせて虫が入ってこないようにする。帆を屋根にすることで保温も効く。龍太にも海人に血が流れている。海に出て何をすればいいのか、直感が働く。人は血液の中に進化の記憶を無意識に宿している。龍太は真季が眠った後もしばらく炎を前にして砂浜にあぐらをかいていた。そしてぼんやりと火を見つめ続ける。今、自分は自分の力でこの世界の中で生きているんだと龍太は思う。そんな感覚を味わったことがなかった。電気も何もない圧倒的な自然を前にして炎の熱さを感じていると自分の体に命というものが宿っているのがわかる。命というものが発する絶え間ない鼓動を感じる。そして命を明日につなぐために体が休息を求めている。一日中海にいることがこんなに体力を消耗するものなのかと龍太は肩の筋肉を何度か伸ばしながら驚く。数時間、海で遊んでいるのとは次元が違う。瞼がどんどん重くなる。龍太は、一度目を擦った後、炎に砂をかけて消火する。それからサバニの屋根になっている帆をすこしあげて体をねじこんでは舟底で眠りに落ちる。たき火の消えた夜の闇は人間の目に何も見せないありのままの暗さ。真季も龍太もその剥き出しの自然の暗闇の中で瞼を閉じて寝息を立てる。




