【洗い髪たれ遊び】①
大気圏の向こうの宇宙空間の端っこが見えてしまいそうな程に澄んだ青空の下、サバニが波に揺られてぷかぷかと海に浮いている。水の音がたぷたぷたぷたぷ鳴り続ける。日差しは変わらず強くサバニの影を海の表面にくっきりと浮かびあがらせる。真季は、日差しをさけるのを最優先事項にクバで作られた笠を頭深くかぶり、ほっぺたがぱんぱんになるほど息を口の中に溜め込んではくわえた浮き輪のチューブに勢いよく空気を吹き込む作業を黙々と続ける。大人用の浮き輪なのでかなり大きい。なかなか膨らみきらないが根気よく息を吸って吐くしかない。とにかくまずは安全第一。乗り込んだサバニの中で救命胴衣のライフジャケットがわりになるものはたった一つ、自分で持ってきたこの浮き輪しかないのだから。20分程顔を真っ赤にさせながら息を吸っては浮き輪の中に吹き込む作業を続け、浮き輪の表面のビニールを触るときゅっきゅっと音が鳴るまで膨む。その小気味いい音を何度も鳴らして真季は隅々まで空気が入ったと納得する。そして一度クバ笠を脱いで浮き輪をかぶってお腹の位置でしっかりと固定して、少しでも紫外線が顔に当たらないように慌ててクバ笠を被り直す。
一方龍太は右左順番にエークを海に入れてサバニを漕いでいる。赤ちゃんがハイハイするようにして舟が前に進んでいる。真季は波に揺られながら海の中を覗き込む。太陽の光が海面を透き通す。黒いリーフがすぐ手の届く場所にあるように見えて、まだ水深の浅いところを通っているんだと真季は気づく。風は肌を微かに触る程度にしか感じない。海の上をよちよち歩きのサバニ。寅也おじいのように海で生きてきた男達と比べてみたら、初航海の龍太の操船技術は当たり前だけど生まれたばかり。サバニの左側を見るとイシキ浜が見える。いつもはイシキ浜から海を見ていたけれど、海からイシキ浜を見ている真逆の光景に不思議な気持ちになる。幸いなことに浜には誰もいない。白い砂浜に、岩場と濃い緑のモンパの木々。そういえば、イシキ浜には太陽の神様が奉られているんだっけと真季は思ったりする。そして、小さい頃に富おばあに連れられてこの浜で見た日の出が言葉にならない程キレイだったことを久しぶりに思い出した。真季はクバ笠のふちをちょっと持ち上げて太陽を見上げる。眩しい・・・。その灼熱の太陽に向かって真季は心の中で(太陽の神様、お願いです。ちょっとだけでいいから日差しを弱めて。強烈な紫外線でこの麗しき嫁入り前の・・いや彼氏もできたことのない初恋知らずの乙女の白い柔肌を焼き続けないで)とおどけてお願いしたりする。
龍太はただ前だけを向いてサバニを漕ぐ。左に久高島を見ながらサバニは少しずつ少しずつ微かに微妙にたどたどしく前に進む。潮に乗ったり、押し返されたりしながらサバニはドタバタ揺れる。いつもうるさい弟は口数が少ない。額に大粒の汗をうかべながらサバニを動かすのにとにかく必死の表情。真季は機内モードにして電波を遮断したスマートフォンの時計を見る。約2時間半かかって久高島の北端カベール岬を左に見るところまでやって来た。カベール岬の向こうに大きな沖縄本島が見える。久高島海域を漕ぎ切った龍太は大きく鼻息をはいた後、「よし!」と声を出す。自分の中で何かを納得し、エークを使ったサバニの漕ぎ方に一息つく。しばらくぼーっと空を見る。何かを見ている。するとビクッッッと急に動きだしてサバニの後方から前に歩いてきては座っている真季をよけてあらかじめセットしてあった帆をあげるためのひもを手に取る。そしてひもを引っ張ると帆柱をすべるようにして真っ赤な帆があがっていく。青い空に赤い帆。配色が大胆すぎて真季の胸の鼓動が少しだけ高鳴った。そよぐ程度の風しか吹いていないけれど、その真っ赤な帆は膨らんで風を受け止める。よちよち歩きだったサバニが何もしないのに滑るようにして海面を進みはじめる。帆を張るヒモを手にしたまま龍太は真希の脇を「ちょっと失礼」とよけてサバニの真ん中より少し後方に戻る。帆の真下近くに座る真季。帆に当たる風の音が生々しく鼓膜に届く。龍太は真季のちょっと後ろからヒモを操って帆を右に左に動かしては風が捕まる場所を探す。まだ上手くいかない。「むむむ・・・」と龍太は試行錯誤の連続。その努力の果てに風を捕まえきれる帆の位置を突き止める。するとサバニは一気に前に進んで行った。龍太は久高島から津堅島方面に向かってまっすぐ行きたかったのに北北西に向かう風を掴まえてしまい、勝連半島にめがけて突っ込むように進んでしまう。
「あわわわわわ、違う、違う、そっちじゃない」
龍太は鼻息を乱しながら慌てる。帆のヒモを自分が座っている木の板に結びつけて、エークで方向転換をはかるけれどサバニは勝連城目指して真っすぐに進む。このまま行くと崖に向かって突っ込んでしまうと思い、諦めるようにして龍太は板に巻き付けて結んだヒモをほどいて帆を下ろす。サバニは速度をさげて、そしてゆっくりと止まった。
「ふーっ、なかなかうまくはいかないさー」と龍太はため息をついて右手で汗をぬぐう。真季はこれで本当に出雲につくのかと呆れ返るけれど、もし沖縄本島近海で龍太が諦めてくれるのならそれはそれで無事に家に帰れる可能性が高まるので助かるかもと思ったりもする。停止したサバニ。少しほっとして龍太も真季もほぼ同時に体の奥底から噴き上がってきた鼻息をひゅいーっと漏らす。これからどうしたものかと考えながらぷかぷかと波に揺られる二人。目の前には海岸線に沿った緩やかな丘の上に立つ勝連城跡が二人を見下ろしている。
「まーきー、あの城跡みたいなもの何さー?灰色の石が積み上げられているやつ」
無知な弟がそう聞くと、姉はがくっと肩を落とす。沖縄県人としては常識であって欲しいと思う。
「あんた、あれ知らんで沖縄生まれの沖縄育ちてって言ったらご先祖様に失礼さ。あれは勝連城跡。第一尚氏王朝を起こした尚巴志一族の最大の敵、肝高の阿麻和利の城さ」
「誰それ?」
「はぁー」と真季は重たいため息をつく。そして真季は説明を始める。
「この勝連半島を収めた阿麻和利はとても優秀で民からも好かれて、貿易を盛んにして、この勝連城下は一時期、内地の鎌倉にも劣らないほどの栄華を極めたと昔の人達は歌にして後世に残したさ」
説明しながら少しずつ真季の声が女性の高音域の波長からほんの少しだけ男性っぽい低音に変わった。
「那覇が港として大きくなったのは尚氏の時代になってからさ。それより前は沖縄本島の西側の航路はほとんど開発されていなかったさ。水深の深いところにしか停泊できない大型船が海を行き来するようになってから珊瑚礁やリーフが少ない国場川の河口の水深が深い那覇のあたりの海が港として開発された訳さ。だから、古代からこの島に住む海人が使っていたのはこの本島東側の航路。東海岸は水深が浅いけど船底の浅い小、中規模の船は関係ないさ。むしろ西から来る冬の強い偏西風や季節風は沖縄本島の陸地にあたって東海岸まで来ないから海は穏やか。まあ、台風の時はどこも海は荒れるから仕方ないわけだけれど。糸満から玉城、久高島、津堅島、浜比嘉島、伊計島を行き来する船は勝連半島と知念半島に囲まれた静かな海の中城湾を海人最強の港として使っていた訳さ。この海人最強の港を支配したのが肝高の阿麻和利。勝連城から阿麻和利はこの東航路を支配して鎌倉にも匹敵すると言われるほどの栄華をこの沖縄の地で極めた。今と違って遠い昔の沖縄は東側が発展していたさ。そして海人は東航路を使って大和にも中国にも世界中に向かって船を漕ぎ出した訳さ」
龍太は、真季の体に誰かが憑依しているのを感じる。小さい頃からよくあった。真季の体を使って、真季の声を使って、誰かが自分に語りかけてくる。今更驚くことでもないけど、と龍太は思う。
「なんでその阿麻和利は歴史から消えてしまった訳?さすがに俺も尚巴志は聞いたことあるけど」
「第一尚氏は、たぶん渡来人で沖縄の地元の人ではないさ。たぶんとしかいえないけれど・・・第一尚氏は海の向こうの色々な知恵を持っていたのだろ。ここで重要なのは第一尚氏と第二尚氏は全く別の血筋であり別の一族さ。だからあえてちゃんと第一尚氏と言うけれど、多分沖縄の地元の人じゃない第一尚氏は鉄をたくさん輸入して武器を蓄え、進んだ知識と権謀術数でこの沖縄の覇権を奪ったさ。そして地元で育った阿麻和利も第一尚氏の政略と武力の前に散って勝連文化は急速に衰退して東海岸は死んだ。第一尚氏は東海岸の息の根をとめて、首里に城を築いて那覇港を使う西航路を一気に整備していった」
そこで話は止まった。真季は少しぼーっとする。抜け殻のように。龍太は小さい頃からのいつものことと、空っぽになった真季に真季自身の意識が戻ってくるのを待つ。真季の目線の焦点が自分の目の焦点と合ったのを確認して真季に聞く。
「誰と話してたさ、まーきー?」
龍太に聞かれて始めて、真季は意識を失っていた時間を認識する。
「私、何喋ってた?」と真季は自分の意識の隅々を点検する。誰だろう、私に憑いたのは?と思った瞬間、自分の目の前、帆柱の下に一人のおじいさんが座っているのが見える。見覚えのある顔。真季は思わず声をあげる。
「小さい頃にお家を追い出された時に優しくしてくれたおじいさん」
その驚きの声を聞いた龍太は何事だと思う。「まーきー、なんね?」と龍太が聞いても真季は何も言葉を返してくれない。ただ、帆の下を見つめている。真季の瞳には寅也おじいよりは体は小さいけれど筋肉隆々の白い無精髭をはやしたおじいさんがサングラスをかけて笑っているのが映る。
「ハロー、まーきー あんど 龍太」
真季は思わず笑ってしまった。昔見た頃と違ってサングラスなんかかけてちょっと今風。
「ハロー、私の大好きなおじいさん。今日はサングラスして英語喋ってなんだかカッコいいさー」
「そうかい、まーきー。ま、戦争中、戦争終わった後生き残るために色々あったからねー。英語くらいぺらぺらさ。それに米兵よりもおじいがサングラスした方が似合うさ。どう思うまーきー?」
「うん、サングラス似合ってるさー。でも、おじいは戦争経験してるの?だけど、そうだよね、おじいぐらいの歳だと。大変な時代だったよね。平成生まれの私達にとっては想像もできないけれど・・・。それにしてもなんでずっと会いに来てくれなかったの?ずっとあのサバニの小屋のまわりをキレイにして待っていたのに・・・」
「まーきー、本当にありがとうね。あの場所を大切にしてくれて。一族の男はニライカナイで皆、まーきーに感謝しているさ」
「一族?おじいさんは誰?ちゃんと聞いたことなかったけど・・・」
「寅也のお父さんの海熊おじいさ。皆からは熊さんと呼ばれていたけれど」
「ということは、富おばあの旦那さん?」
「ざっつ らいと」
真季がずっと笑顔で誰かと話している。真季が口にする言葉は聞こえているからなんとなく龍太も会話の内容は想像つく。龍太が会ったことのない寅也おじいのお父さんで、富おばあの旦那さんが帆柱の下には座っているのだろう。そのおじいはこの帆を伝って空から降りてきたのかな・・・と会話に加われない寂しさを抱えて、龍太は帆柱のてっぺんを見たりした。
「なんでこのサバニに乗っているさ?」と真季が聞くと「二人が意識不明の富おばあのために薬を取りにいくとニライカナイで神様から聞いたさ。富おばあはおじいの大切な奥さんだったからね。ひ孫がそんなに頑張ってくれるなら夫として、ひ孫にサバニの乗り方を教えてあげんとねーと思って空から降りてきた訳さ」
真季は熊おじいの言葉に目が点になる。そんなラッキーなことが起こるなんて信じられないと興奮を抑えきれず「えー、本当?熊おじい助かるー。大好き!」と抱きつく。でも熊おじいは霊魂だけで肉体は持っていないから透き通る。「あっ・・・」とその事実にぶつかる真季。小さい頃は確かに熊おじいに手を繋いでもらって、その手のぬくもりの感触が自分の心に伝わってきたのに・・・。あの頃と自分の感じ方が変わっているのかもしれない。真季は龍太の方を振り返って「寅也おじいのお父さんの熊おじいがこのサバニに乗っていて、龍太にサバニの乗り方教えてくれるってさ」と真季が言うと、龍太は目を輝かせる。熊おじいには会ったことがない。鶴子おばあの家で写真は見たことあるかもしれない。でも記憶は曖昧。真季と違って龍太の角膜には熊おじいの姿は映らない。でも龍太は心躍る。
「まーきー、熊おじいに寅也おじいがニライカナイで元気か聞いて?」
真季は、龍太がどれだけ寅也おじいのことが大好きなのかを痛いくらい知っているから、熊おじいに反射的に聞いてあげる。すると熊おじいからの返答が寅也おじいらしい。
「寅也は、鶴子さんみたいにしっかりして怖いお嫁さんが近くにいないと駄目さ。あいつは、鮫漁師として腕は一族の男の中でも歴代ナンバーワンだけど、漁に出てない時は島酒ばかり飲んでいるさーね。二人とも覚えているんじゃない?寅也は鶴子さんにお酒を取り上げられて、仕方なく海に仕事に出たり、畑仕事したりして体動かす訳。でも鶴子さんがいないニライカナイだとずっと島酒ばっかり飲んでいて、海に浮いて寝てばっかりで、こっちで生きていた頃より10キロ太ったさー」
それを聞いて真季は大笑いする。寅也おじいは死んでから生きていた頃より10キロ太った。それを龍太に伝える。龍太は目に涙を浮かべながら大笑いする。ああ、寅也おじいはニライカナイでいつもどおりに島酒飲んで酔っぱらって海で昼寝しているんだなと。寅也おじいはお酒を飲むと陽気になっていつも笑ってた。そんな寅也おじいとの思い出を思い出して龍太は二度涙を拭う。そして空を見上げる。あの白い雲の向こうで寅也おじいは3人の会話を聞いているかもしれない。孫達に大笑いされたから、メタボなお腹をさすりながらいい加減ダイエットしなきゃと思ってこっちを見ているかもしれない。そんなことを思って空を見上げながら龍太の瞳からもう一滴だけ涙が零れた。
「さて」と熊おじいはサングラスを取って頭にかけ直す。帆の下から立ち上がり、真季の座っている木板の場所までやってきて龍太を見ながら真季の隣に座る。真季もそれにあわせて後ろにいる龍太に向き合う形で座り直す。熊おじいは真季の体を通して龍太に言う。
「サバニを操る海人になるということがどういうことかわかるか?龍太」
いきなり聞かれた龍太は思いがけない問いかけに何も答えられない。考えてみる。でもわからない。その質問に答えられない自分がとても幼いと思う。頭を掻きながらなんとか答えを探すけれど脳みそは萎縮していくばかり。真季を通してとても大きくて寛容で温かい雰囲気を感じる。これが大きな海で揉まれてきた男達の懐の深さが放つオーラかと思う。
「サバニを操る海人に必要なものは自然を知り、自然を敬い、自然を恐れ、自然に愛されること。海の満ち引きに運命を委ね、潮の流れを見る目を養い、風を感じる感性を持ち、雨に耐える忍耐力を備え、大きい波と小さい波に神様の意志を感じられる素直な心を持つ。遠い遠い昔、遥かなる古代から今までの時の中でこの地球上のどんな人種よりも自然を敬い、自然を恐れ、自然に愛されなければ海人ではない。それがわかるか、龍太。それができるか?」
その言葉に「できる!」と龍太は迷いなく真っすぐに大声で答えた。龍太の目には一点の曇りの筋すらない。熊おじいはそれを確認する。龍太の瞳は沖縄の海のように澄んでいる。鮫漁師一族で最も海に愛された男と呼ばれていた寅也はとんでもないことをしてくれたもんだと・・熊おじいは鼻を掻く。自分で寅也という一族最高傑作を育てあげておきながら熊おじいは確かな確証を持つ。寅也を超える一族最強の才能を持つ素材が目の前にいる。熊おじいは寅也を無理矢理海に落としては溺れる寸前で助けるということを子供の頃に何度何度何度何度も繰り返した。何百回、何千回と海の中でもがき、あがくことで海人の本能と才能を覚醒させるスパルタ教育。海は美しく、そして残酷で恐ろしい。その海に投げ出された時に生ききる力を息子に与えるために熊おじいは数えきれない程の無理を寅也に強いた。寅也は小さい頃何度も海で死にかけた。それを同じ島で育った小さい女の子だった鶴子おばあは昔から見ていた。幼なじみの男の子、寅也が死ぬかもしれない・・・それが怖かった。海で死なないために海で死ぬギリギリまで追い込まれて泳ぎを覚える若き海人。親は海で息子が死なないために良かれと思い愛情という名の試練を与える。海に落とした我が子がもがくのを見て何度自分の心臓を握りつぶしただろう。なのに、どうだろう・・・龍太はスパルタ教育を必要としない。寅也が小さい頃から龍太に海を愛することを教えて、海で遊び、海で泳ぎ、海に体を包まれる幸せを教えていたからだろうか・・・龍太の面構えと体格は10代の若き海人として既に完成されている。寅也の若い頃にそっくり。ただそれも静かな海での話。海が牙を向いた時の恐ろしさを龍太はまだ知らない。時化た海の怖さはわからない。そこは結局教えてどうにかなるものではなく、自分で恐怖を感じてみてはじめてわかるもの。今、それを教えることはできないと熊おじいは思う。
「まずは潮の流れ。龍太は泳ぎは得意だろ。寅也から聞いたさ。泳いでいる時に海の流れを感じることができるか?」
「わかる。海の中にいて流れを見て、それに乗ると早く泳げる。逆に海から上がるために陸に戻ろうとする時に引き潮が強いと全然前に進まなくて疲れる」
「よし、それがわかるのは見込みがある。だがサバニに乗っている間は海に潜って潮の流れを確認する訳にもいかないさ。サバニの上から潮の流れを読まないと海人にはなれない。そら、あそこを見なさい」
熊おじいは、真季の体を使って勝連半島の先の方にある場所を指した。真季の目にはその場所には何も見えない。でも、龍太には見えているようで、「ヤシの実が海に浮いてる」と答える。龍太は原始人ばりにアナログ人間で室内でテレビを見たりするよりは屋外、主に海で過ごすことが多い。視力が現代人と同水準ではない。むしろ石器時代の人達と同等かもしれない。
「おお、あのヤシの実が見えるのは凄いさ。海人は目が良くないとつとまらんさーね。あのヤシの実はこれから月日をかけて潮の流れにのってどこかの浜にたどり着くか、それとも永遠に海に浮いているかどっちかさ。それでも、今ある場所にとどまることはしない。海は絶えず動いている。ここから見て、あのヤシの実が10分後にどこにあるか予測してみなさい」
龍太は、そんなに難しいことを聞かれるとは思わなかった。顎に薄ら生えた青い髭をぽりぽり掻きながらヤシの実を見る。サバニが浮いているすぐ真下の潮は目で確認できる。でもあんな遠い場所の潮の流れを見るなんて無理。あてずっぽうで「右」と自信のない小さな声で呟く。
「ノーノー、残念でした。あれは10分後、勝連半島に寄っていくかたちで左に流れるさー」
熊おじいがそういうとヤシの実は確かに時間を掛けながら左側に流されていった。
「凄い・・・」と龍太は目をキラキラさせて感動する。これが本物の海人かと胸が震える。あんな遠くに浮かんでいるヤシの実の動きすら予測できるなんて。
「まずは潮を覚えなさい。潮は目で見えるさー。風は目で見ないから、潮よりも難しい」
そこまで言うと、微かに低音だった真季の声が元に戻る。そして、真季が隣を見るとそこに熊おじいはいなかった。消えてしまった・・・。
龍太は着ていた中学校の制服を脱ぎ、カバンの中のゴミ袋に入れてあったサーフトランクスタイプの水着に着替えた。真季は久々に弟の素っ裸を一瞬だけ見てしまう。
「は、あんたここで着替えんでよー」と慌てて叫ぶがそんなことおかまいなしに龍太は漁師道具の一つである水中眼鏡ミーカガンをつけてサバニから海に飛び込む。思いっきり水しぶきが飛び真季の顔は濡れる。そして、サバニの上で一人にされてしまった真季は焦る。「ちょっと、龍太ぁー。置いていくなー」とありったけの声で呼びかけるが海に潜った龍太には聞こえない。龍太は海に潜って潮の流れを体に感じながら目で見ようとする。そこには無数の流れが存在している。その流れの先の先を遠くまで見つめる。潮の流れを感じるのは得意だけど真剣に目で見たのは初めて。どの流れが自分の行きたい方角に流れているかを腕組みしながらあぐらをかいて慎重に吟味する。体が感じる潮の流れを視覚で追う。そして海全体の潮の流れを頭に記憶させながら龍太はサバニの上に戻ってきた。「ぷーはー」と勢いよく大口をあけて空気を吸って、ミーカガンをネックレスのように首にさげて、自分が海に潜って感じた潮の流れをサバニの上から視覚で追ってみる。「うーーむ」とひとしきり唸りながら考えた後、勝連半島と津堅島の間を抜けて浜比嘉島の先に向かっていく流れを微かに一筋見つけた気がする。龍太は無言で、エークを手に持ち、その海流までサバニを漕ぐ。真季は浮き輪に空気がしっかりと入っているのを無意識のうちに確認する。潮目にサバニを乗せる。するとエークで漕がないのにサバニがどんどん前に進んでいく。龍太は真季に「ちょっと失礼」と言って脇を通り、サバニの先端に移動して海を見る。海の流れが道に見える。こんな風に海を見たことなかった。龍太は新鮮な気持ちになる。一本の流れがサバニをどんどん運んでいく。
「おおおお、凄い、凄い、凄い」と龍太は大はしゃぎの大喜び。そして、またサバニの後方に向かって走ってくる。真季は反射神経よく弟をよける。龍太はエークを持ち、海流にそってサバニを漕ぐ。低速走行だったエンジンがギアをあげるようにサバニはスピードをあげて前に進んでいく。帆をあげることなく、あっというまに中城湾の真ん中、勝連城を見上げる場所から浜比嘉島海域まで着いてしまった。
「嘘ぉーーーマジか」と龍太は興奮しすぎて鼻息が荒い。真季はスピードをあげたサバニの揺れにちょっと気持ち悪くなり青ざめる。その潮流は幸運なことに勢いを速め外洋に出る程しっかりとした流れになり伊計島沖までたどり着いたが、島に向かって流れる強い引き潮が入ってきたため打ち消されてしまった。
「ふぅぃー」と龍太は右腕で額の汗を拭いながら一息ついて、辺りを見回す。真季も龍太に続いて辺りを見渡す。伊計島の沖合数キロメートルの大きな波で米軍の兵士達がサーフィンをしている。普通の人間はサーフボード一枚でパドリングしてもそんな外洋まで出られないのに、さすが軍人、鍛え方が違うと真季は思った。伊計島の先はザ・太平洋。潮の流れが複雑でまた一つ一つの動きが激しい。龍太はサバニの下に何度も潜るが潮の流れが強すぎて受けとめきれずに、目で追いきれない。伊計島沖で2時間程サバニは停滞した。エークでサバニを漕ごうにも人間の力は海の圧力には勝つことができず前にも後ろにも進まない。とにかく潮目を探す以外ない。沖縄本島北部に向かって流れている海流を探さねば・・・と龍太は海に潜ってはサバニに戻る行為を繰り返し続けた。今日は、風がないから海流だけ見ればいいけど・・・これに風が入ると思うとどれだけ海の上でサバニを操るのは大変なんだろうと思う。それを察したのか、真季が「あんた今日はじめてサバニに乗ったんでしょ。久高島から伊計島まで来れただけでも上等よ」とさっぱりとした意見を率直に伝える。そしてそのさっぱりとした感情とは裏腹に、船酔いで頭がくらくらする真季は気持ち悪くなってサバニの舟底で寝込み始めてしまった。
龍太は空を見上げる。夕暮れ。思った以上に太陽が西に傾いている。まだまだ海人見習いの自分には夜の航海は無理。ここで航海をやめるのが本日の潮時。思った以上に遠くまでいけなくてがっかりする龍太。今日最後の頑張りでもう一度海に潜り伊計島の海岸方向に向かって流れる潮の動きを探す。いちいち海に潜らないと海流がわからないようだと時間がかると龍太は痛感した。サバニに乗りながら潮を見る力がないと・・・。
伊計島に向かう潮の流れは簡単に見つけることができた。その流れまでサバニを漕いで海流に乗る。サバニは真っ白な砂が光る海岸に向けて進んでいく。浜に近づく途中で少し遠くに亀の形をした小さな岩の島を見えたので珍しい形だなと龍太は何気なく思う。そして海岸の端の岩場の上から太陽の光が反射して太平洋の方角を差す一筋の光が見えた。ガラスのゴミか鏡か何か置いてあるのかな?なんてことを思っていたらあっと言う間に海岸に着く。龍太は小さな台車を脇にかかえて海の浅瀬に降りてはサバニを押しながら舟をあげた。砂浜の上、目立たない場所までサバニを台車にのせて運ぶ。真季は船酔いで疲れきってそのまま寝てしまっている。サバニを運び終えた後、龍太も陸に上がって緊張の糸が切れたのかサバニの中で眠りに落ちてしまった。そよ風に混じって寝息だけが響くサバニの中、静かで優しい月の照る夜が二人の眠りを包みこむ。




