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【エーファイ】⑫

 少しずつ、少しずつ、いつもと違う非日常が広がり始めていく。太陽の光がサンサンと降り注ぐ観光客の少ない平日の久高島。漁港でタバコを吸っていたおじいが海蛇をくわえた野良猫を見つける。野良猫は富おばあが可愛がっていた茶トラ猫だった。海蛇は噛まれたまま身をくねらせるが猫は顎に力を入れながら離さずに蛇の首元を噛み続けていた。

 「最近の猫は、イラブー漁もできるようになったねー。凄いねー」

 おじいはタバコの煙を吐きながらただ感心した。そしておじいは続ける。

 「お魚くわえたどら猫はサザエさんが追いかけるけれど、イラブーくわえた野良猫は誰も追いかけんねー」と独り言を言って笑う。


 久高島留学センターの中学生達が放課後みんなで畑を耕している時、突然ゴキブリと虫の大群が畑のまわりに飛び回りはじめ、皆絶叫する。農薬を使わない野菜を作っているのに、このままでは虫に野菜がやられてしまうと皆危機感を感じる。日頃は些細なことでぶつかり合うこともあるセンターの中学生達もせっかく育てた食物を駄目にしたくないと思い、「やばい、なんとかしないと」と声を掛け合い一致団結を始める。シャツを脱いだり、首に巻いていたタオルを使って皆で虫を畑から追い払うために振り回す。人間と虫の壮絶な闘いが繰り広げられる。一緒に畑仕事を手伝っていた小学生の女の子は怖くなって泣き出してしまう。


 観光客が少ない平日。でも、いない訳じゃなかった。この日久高島に来た少数の観光客はなぜか皆マナーが悪い。そして全員熱中症になって倒れる。本島からドクターヘリが午前と午後2往復する。マナーが悪いというだけで既に島の迷惑極まりない招かざる客人達は静かな島で羽目を外して大騒ぎしては太陽の下で浮かれる。体中の水分を失うまで自分の生命の危機にすら気づかない。きっとこの人達は人生という限られた時間の中で何も気づかずに死んでいく部類の人達なのだろう。それでも久高島診療所の先生や島民数名が彼らの命を助けるべくドクターヘリが久高島の運動場に降りてくるまで献身的に面倒を見てくれる。それにしても観光客全員が熱中症で倒れるのは異常な光景。


 日が暮れていくに連れて違和感は広がり続け、島のおじい達は「ちむわさわさーするさ(胸騒ぎがするさー)」と西に沈む夕日を見送りながらそんなことを家の軒先で話したりした。おばあ達も「ちむどんどんするねー(心臓がドキドキするねー)」と呟いて胸に手を当てる。夜の闇が広がるのにあわせて迫って来るものがある。


 雲一つない真っ黒な夜に下弦の月が浮かぶ。いつもの夕食の時間になっても真季も龍太も帰ってこない。真季の携帯に電話をしても電源が切られているか圏外のため繋げないと自動応答がなるだけ。テレビをつけないままの家の中は静かで、アパート裏の空き地から鈴虫の鳴く声だけが聞こえてくる。それが月子のまわりの唯一の音だった。太は同僚と飲んでから帰ると言い、育ちざかりの子供達のためにたくさん作ったカレーの匂いが鼻の奥に抜けては不安な気持ちを刺激する。リビングの時計が9時ちょうどを指した時、月子の携帯電話が鳴る。真季からの電話かと思い、携帯の液晶画面で誰からの着信か確認しないまま、慌てて通話開始ボタンを押す。受話口から慌てた声が聞こえた。「真季、真季」とその慌てた声に向かって月子は問いかけたが、言葉にならない声を伝えようとしていた相手は久高島の鶴子おばあだった。

 「月子さん、大変なことになったよ。どうしていいのかわからんさ」

 月子は、旦那の母の声だとわかるとすぐに正気を取り戻した。とはいえ、電話の向こうの鶴子おばあは声がうわずっている。月子は緊張する。

 「お母さん、どうしたの?富おばあに何かあったの?」

 寝たきりでほとんど意識のない富おばあに急変があったのかと思って慌てて問いかける。

 「いや、違うさ。富おばあは、ここ数日は汗をかく量もだいぶ減って、夏の一番暑い頃よりは様態は少し落ち着いたさ。ま、もちろん少しずつ体力を失っているんだけれど」

 「そう良かった、それを聞いて安心したわ」

 「大変なのわ、まーきーと龍太さ。二人ともそっちの家に帰っている?それを確認したくて慌てて電話をしたさ」

 月子は自分の心臓が一瞬止まるのを感じた。なぜ久高島から真季と龍太が家に帰っているのか心配の電話があるのだろう・・・。意味がわからずに混乱する。自分の視点が定まらず目の前の光景が歪んだのを感じる。月子は言葉を見つけられずに数秒押し黙った。鶴子おばあは受話器の向こうの沈黙の理由を感じ取り、真季と龍太は家に帰っていないのだとわかる。鶴子おばあは息を整えて落ち着きを取り戻すために間を取った。二人が言葉を失った時間は一瞬な筈なのに、このまま永遠にこの世界に会話が生まれないような感じがした。

 「龍太が今朝の朝一番のフェリーで久高に来ていたって。そして真季が追いかけるようにして次の便で島に来たって安座真港の切符売りのたまちゃんが言うわけ。そんなことない、今日は平日だから二人は学校に行っている筈だって言ったんだけど、間違いないって」

 月子はその話を右耳で聞きながら唾を飲み込む。鶴子おばあはそこで一旦息を継いで、話しを続けようとするが言葉が出てこない。嫌な予感ばかりに胸を締め付けられながら月子は鶴子おばあの話の続きを待つ。

 「そしたらフェリー待合所の売店のジャッキーも真季が島に来ていたって言う訳。制服で島草履と浮き輪を買いに来たって」

 それを聞いて月子の思考は停止する。鼓膜に響く音が何を言っているのかわからない。鶴子おばあに何かを喋ろうと思っても言葉を見つけることができない。なぜ二人とも親に隠して平日に久高島に・・・。毎日二人の表情を見ていた。母親として二人が考えていることは全てわからないまでもかなりの部分は把握できている気でいた。そして二人とも何か大切なことがあれば親に相談してくれていたのに・・・。目を離した隙に赤ん坊が家の中を動き回っていた頃を思い出す。家の中にいてくれれば簡単に探すことはできる。あらかじめ怪我をしそうな場所には安全グッズをつけて置くこともできる。でも、あの二人はもう赤ちゃんじゃない。鶴子おばあは月子に向かって言う。

 「まーきーと龍太は・・・不老不死の薬を取りに行ったさ・・・」

 その言葉に月子は眉をしかめる。それもしかめられるかぎり精一杯に。鶴子おばあもついにぼけたのかと思った。でも、口調はしっかりしている。そして真季と龍太が帰ってきていない事実は揺るいでいない。苦しい。月子は喉の奥が詰まって呼吸困難になる。この現実を揺るがせるために月子は旦那の母親の首を掴んでは揺するような思いで聞き返す。

 「何を馬鹿なことを言っているの?不老不死?何?おとぎ話じゃあるまいし」

 月子の声はなんとか興奮を抑えつつも怒りがこもる。口から出たばかりの声は低音域で一オクターブ下がる。でも言葉は単語を積み重ねる程に声の音程がうわずっていきビブラートする。震えはおさえられない。

 「月子さん、落ち着いて聞きなさい」

 月子は再び唾を飲み込む。吐き気を感じるがその吐き気をうまく吐き出すことができずに吹き出しそうな感覚だけが体内にマグマのように溜まる。

 「久高のカミンチュのシズさんが今日の夕方に香炉に向かってお祈りしていた時さ。久高の神様を代表してアカララキの神様がシズさんに語りかけたさ。姿は見えないけど言葉が空から雨のように降ってくる感覚だったらしいさ」

 「アカララキって、あの久高の漁港のすぐ側にある小さな祠に奉られている石?」

 「そうさ、アカララキ神。でも、そのアカララキ神はイザイホーにはわざわざ漁港脇から神女たちが籠る七ツ屋の横に守り神として私たちに寄り添ってくれる神様さ。私も覚えている。ただ気性が激しく、とてもじゃないが並のカミンチュでは手に負えないほどの力を持った神様」

 月子は家の中の景色で、できるだけ遠くを見ようと思ったが数センチ先の光景すら目に入ってこなかった。眩暈がする。

 「アカララキ神の霊力を受け止めきれる神女はいないさ。だからアカララキの神様の声を聞いたものは少ない。でも、そのアカララキ神がわざわざシズさんのところにまで降りてきて言った訳さ。今年は午年・・・と」

 鶴子おばあは続ける。

 「それを聞いて、すぐにシズさんは神様が何を言いたいのか悟った。シズさんは慌てた。申し訳ございません。三十六年前を最後に神に祈りを捧げる久高の女を神女にする就任儀式イザイホーを行なうことができておりません、と」

 自分が普通でない量の汗をかいていることに月子は気づく。汗が目に入ってきて沁みてきた。

 「アカララキの神様は言ったさ。困ったもんだ・・・。太古の昔は、未婚の女の身を神に仕えさせていたのに。神々は時の流れとともに変わりゆく人間の営みにだいぶ譲歩してきたのだ。子育てが一段落する三十歳から四十一歳の既婚女を十二年に一度神に仕える身にすれば良いと許したものの、それすら難しい時代か・・・と。そこまでアカララキの神様に言われてシズさんは心臓が凍る思いがしたと話していたさ」

 太の家系と同様、月子も久高島に何百年と続いてきた血を引いている。シズおばあの痛みがわかる。自分の体を針のむしろに投げられて串刺しにされるようにわかる。進みゆく文明に逆行する伝統を守る難しさ。人間社会の激しい変遷と絶え間ない経済成長を強制された行く先の見えない資本主義と技術革新の連続。そして沖縄県東南部の小さな島は時代から取り残されたように過疎化する運命。それは避けて通れない宿命。若者は生きていくために、自給自足に限りなく近い島の生活を離れ、大きな経済活動に参加するためにこの小さな島を出る。

 「富が死ねばイザイホーは途絶えるだろうとアカララキの神様は言ったそうさ。私も最後のイザイホーに参加はしたけれど儀式は先輩神女に言われるがままにやっていたさ。そして島で今でもイザイホーの儀式の意味を理解しているのは富おばあを含め、片手で数えても足りないくらいのおばあしかいないさ。神様はそれをわかっているから、お怒りになりお焦りになっている。三十六年待ったが人間は一秒毎に神の存在を忘れていく。シズさんは神様の気持ちをそう感じ取った。神様がお怒りになるのも当然だが、まだ大きな心で我慢してくださっている。ただ、これがきっと最後だろう・・・。これ以上人間が神様をないがしろにし、むしろ神様を超えようとするのなら神様は人間の世を終わりにするだろう。そしてこのままでは神様と人間の間の会話が途切れる。それは同時に人間がこの地球の上で太陽と月と大地、星、雲と空と風と雨、海、自然の全てから見放されるということ」

 月子は唖然とする。話しがあまりに大きすぎる。自分が守ろうとする糸満市内での小さな家族4人の家庭生活から急に人類全体の話になる。そしてまさか私のお腹から生まれた二人の子供がなぜそんな大きな話に関わらなくてはならないのだ。他にも子供は世界中にいるだろう。

 「アカララキの神様は言ったさ」と鶴子はシズさんが聞いた声を伝え続ける。

 「富の命がなんとか続くように久高の神々も頑張っている。とはいえ、神々の力を持ってしても永遠の命は与えられない。だから、ひ孫の真季と龍太に不老不死の薬を取りに行かせた。道中死ぬかもしれぬが、それは我々ではどうしようもないことだから許せ。死んだらそれまでのことだ。あの世で面倒見ようと・・・」

 月子は体中から力が抜け落ちているのを感じた。抜け殻になった自分がかろうじてできることは携帯電話を持ち続けて落とさないことだけだった。

 「シズさんはアカララキ神の声を聞いた後、飛んで私の家に来て教えてくれたさ。そして、私はあっ!と叫んださ。懐中電灯を持って港に向けて走った。寅也おじいが舟仕事していた場所を覚えているかい?あなたも小さい時見たことあるでしょ?久高の鮫漁師一族だった寅也おじいの家系の男達の仕事場。真季と龍太には内緒にしたあの場所。」

 「あの食事処とくじんの先にある海に繋がる脇道行ったところ・・・」

 「そう、あの脇道いった先の海に突き当たった空き地のまわりは背の高い草だらけさ。その場所をうちの男達は昔から雑草を焼いて空き地にしては舟仕事をし、海につながる細い道を作って海に出て、鮫を捕まえては解体していたさ。寅也さんが死んだ後、誰も手入れする人がいなくなって草が生い茂るようになってサバニも舟小屋も海に続く道も草に埋もれたあの場所。私はあそこに行くと海で死んだ寅也さんやそのお父さんの海熊おじいのことを思い出してしまうから、とてもじゃないけど行けなかった訳さ・・・」

 鶴子おばあは海で死んだ男が多い家に嫁いできた。それを嫁ぐ前から怖がっていたという話は島の他のおばあから聞いて月子は知っていた。月子は怖いと思ったことが無かったが今になって怖くなる。

 「私は慌てて懐中電灯を持って男達の仕事場があった場所に走ったさ。草だらけの場所に人が草を踏んだ小さな道ができている。私はその細い道を無我夢中で進んでいった。そして舟小屋を見つけて中を覗き込んだら、そこにある筈のサバニはなかった。誰も手入れをしていなかった筈の仕事場のまわりは小さい範囲だけれど草取りがされていた。舟小屋にはまーきの鞄といくつかの電化製品が置いてある訳さ。そして足の大きな龍太が履いていたスニーカーやサンダルの足跡が舟小屋の周りにいくつも残っている。そして、信じられなかったけれど・・・あの頃と変わらず小さな道は海に繋がっていたさ、雑草一本生えてない・・・男達が生きていた頃と変わらず・・・まーきーと龍太の足跡とサバニを運んだ台車の轍を道の上に残して」

 受話器の向こうの声を聞きながら月子の目から涙がこぼれ落ちる。それと同時にドアの鍵をあける音が聞こえる。夫の太が「ただいま」とドアを開けて陽気に帰ってくる。そして、リビングで妻が泣いているのを見て動きが固まる。家の中はカレーの匂いで覆い尽くされていて太の鼻の奥へと抜けていく。違和感が充満する空間。鶴子おばあは続けた。

 「まーきーと龍太は、富おばあのためにサバニに乗って不老不死の薬を探しに海に出たさ」

 

【エーファイ】完 次章に続く


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