【エーファイ】⑪
「男はウミンチュ、女はカミンチュ」
「・・・・」
「まーきーも知ってるさ、久高で昔からあるこの言葉。小さい頃から何度も聞いたことあるこの言葉、ずっとよく意味わからんかったけど、夏休みに久高島のこと図書館で調べてわかったさ。男は海に出て、女は神様にお仕えする。それが遠い昔から久高島で生きる人間の生き方。平成生まれの龍太がそんなこと耳にしても何の事か全然想像できんかったさー。でも、わかった。男はウミンチュ、女はカミンチュ。寅也おじいも海が大好きだった。そしてきっとその昔のご先祖様も皆、海が大好きだった。対馬海流に乗れば、あっという間に出雲に着くって調べたさ。その海流に乗ってみたい。俺だっておじい達に負けないくらい海が大好きさ。飛行機じゃ駄目。きっと神様も呆れる。お前は久高の男か?って。おじい達みたいに海を渡ってこそ男はウミンチュさ。神様が認めた男が取ってくる兎を飲み込んだ蛇じゃないときっと意味ない。これは神様にテストされている訳さ。このテストに合格しなかったら久高の男として認められない。それは嫌だ。まーきーが知ってるように、俺のヒーローは寅也おじいだから。寅也おじいみたいに、一人前の久高の男に、本物のウミンチュになりたい訳さあ。女だって久高島の神様からのテストがあるさあ。まーきーが言ってたイザイホーってやつ。カミンチュになる試験。」
「・・・・」
「俺は海に出る。というか、出たい。」
真季は果てしなく呆れる。言葉が出てこない。弟の馬鹿さ加減にどっと疲れて視線をまっすぐ保つ力を失う。顔が自然と下を向く。そして龍太が両手に持っている篭の中を見て真季は絶叫した。
「きゃぁぁあああああああああああああああ」
何十匹ものイラブーが篭の中で身をからませながらうごめいてる。真季は一度抜けた腰がもう一度抜けて座り込む。青黒い鱗に白い横線がいくつも入った体をくゆらせ、一匹篭から抜け出そうとして龍太はすばやくイラブーの首根っこを捕まえて篭の中に押し込んだ。真季はかすれる声で弱々しく聞く。
「海に出るのになんでイラブーが必要な訳?・・・」
龍太はにやりと笑う。
「興味ある?天才龍太にしか思いつかない発想に」
龍太は得意気に胸を張る。そのアホそうな弟の発言に真季は気を失ってしまいそうなくらい疲れる。
「イラブーは久高島で生まれて、出雲の方まで海を泳いで行ってから、そしてまた故郷の久高島に戻ってきて子孫を残すさ。ちゃんと調べた。北海道の川に戻ってくる鮭とかと一緒さ。ということは、海で迷ったらイラブーを海に投げ入れれば、きっと出雲を目指して泳ぐはずさ。それを追いかける。ふふふ、さすが天才。イラブーは肺呼吸だから海に潜って泳ぐと息を吸うために海面に顔を出すからさ。顔出すイラブーをちゃんと追いかけてれば見失わない訳さ」
真季はこの龍太のお馬鹿極まりない発想を聞いて立ち上がる気力をすべて失った。いや生きる気力を失いかけたと言ってもいい。地面にへばりつきながら呼吸を続けるのが精一杯。龍太はその真季に告げる。
「ということで、ちょっくら出雲まで行ってくるから。皆に迷惑かからないようにまーきー様のお力でなんとか丸くおさめて頂けるようによろしくお願いします。みんなにはすぐ帰ってくるから大丈夫って伝えておいて」
そう言って龍太は真季に背を向け、舟小屋から小さい木製の台車を出してサバニを乗せる作業を始める。初めての作業に悪戦苦闘しながらもなんとか台車に乗せることができた。そして帆柱を立ててサバニを海の扉の向こうへと運び始めた時、真季は声を震わせながら龍太に向かって低く重たい声を吐いた。
「ちょっと待ちなさいよ・・・」
龍太は何事かと思わず振り返る。真季は抜けた腰をゆっくり持ち上げながら立ち上がる。
「あんた、何でもかんでも自分の思ったとおりに生きていけると思ったら大間違いよ」
真季は爆発しそうな怒りを奥歯で噛み締めながらぷるぷると震える声を出す。
「あんたが海に行くのを止めずに行かせたとあれば、結局みんなに怒られるのは私じゃない。なんで止めなかったんだって。ふざけないでよ!何で馬鹿な弟のために私が怒られなきゃいけないの。想像しただけで頭に来る。いいわよ。海に出るんでしょ。行かせてあげるわよ。だけど私も行く!」
「げっ・・・」
それを聞いた龍太は凍りつき顔が青ざめる。せっかくの海。楽しみにしていた航海。なのにこんなにうるさい姉と一緒だと思うと気持ちが急に重たくなる。
「こんなこともあろうかとちゃんと着替えとか持ってきたりしたんだから」と真季は地面に置いたパンパンに膨らんだスポーツバックを重たそうに持ち上げた。自分の用意周到さに我ながら感心する。荷物を持ち上げた時、旅に出るんだというワクワクする気持ちが真季の心の中に芽生えては小さく咲く。
「そんなに重たいもの乗せられない」と龍太が必死に抵抗する。
「うるさい。私だって行くんだから海に」
「ナノイオンドライヤーとか使えんしー、サバニでは」と龍太が反撃する。真季はスポーツバックを思わず撫でる。ドライヤーの形がくっきりと浮き上がっている。確かに、海で使えない電化製品まで持ってきてしまった。真季は慌ててドライヤーを取り出して、舟小屋の奥に投げ込んだ。龍太は頭を掻く。頭皮にはべっとりと冷たい汗が滲んでいる。
「本当に乗るの?」
「アホな弟を一人では行かせられない」
真季は断固として言う。旅に出る理由を無理矢理馬鹿な弟のせいにしようとするが、でも本当は水平線の向こうに行ける日をずっと夢見ていた。サバニに乗りたい!と抑えきれない気持ちを龍太の前で必死に隠す。
「めんどくさいなぁ・・・。はぁー、行くなら行くでいいけど、持って行く荷物、タオルとか着替えぐらいにしてよ。小型ラジオも電波届かんさー」
真季は黙り込む。確かに海に出る漁師道具や水で既にある程度の重さになっているサバニに余分な荷物積んだら沈むかも。とはいえ、電化製品をできる限り手放したくない。
「コンセントの差し込み口ないさーサバニに」と龍太にだめ押しされる。その一言で小型ラジオと延長コードを諦めて舟小屋の中に置く。小型懐中電灯とアルカリ電池と携帯電話とiPad、そして乾電池式携帯用充電機は手放さない。龍太は呆れる。
「スマホとか持っていっても圏外なる筈さ。意味ないさー」と主張すると、真季は「緊急に何かあった時に頼れるのは通信機器でしょ」と言って手放そうとしない。龍太は観念する。
「ま、重くないから持っていけばいいけど、スマホもiPadも防水機能ないやつだからきっと海水に濡れてすぐ壊れるよ」
真季はそれを聞いて、確かにと思い、慌ててスポーツバックの中に持っていたコンビニのビニール袋の中にスマホとタブレットを入れた。さらにスポーツバックの中を探したがビニール袋はもうない。龍太は呆れて、コンビニで買ったゴミ袋を一枚差し出す。真季はゴミ袋を受け取り、その中にタオルと最低限の着替えを詰め込んでスポーツバックに入れ直す。教科書が入った鞄は舟小屋に置く。龍太は龍太で最低限の着替えとバスタオルを一枚、サーフトランクスタイプの通気性のよい水着、地理の授業で使う地図帳をビニール袋に詰めてバックに入れていた。通学用のスニーカーもコンビニ袋にしっかりと入れて濡れないようにサバニの中に積んであって、龍太はビーチサンダルに履き替えている。真季はビーチサンダルがないと思い、慌てて港まで数百円の島草履を買いに行こうと思う。
「龍太、待っててよ。私も学校用の革靴じゃ海で濡れちゃうからサンダル買ってくる」
真季は、自分が徳仁港のお土産売り場兼待合所に走っていっている間に龍太に置き去りにされたくないと思って焦る。だって、私だって出雲に行きたい。まだ見たことのない雲が生まれる場所に・・・。龍太の反応を待つ真季。お願い・・・という気持ちが心の中で反響する。
「はいはい。待ってますよ。後、ビーチサンダルだけじゃなくて、大人用の浮き輪も買った方がいいんじゃないの?まーきーのスポーツバックの中に入っているその浮き輪、まーきーが小学生の時に使ってたやつさ。みんなで海遊びする時にそれ使ってたの覚えてるけど、それじゃあもう今のまーきーの体は浮かんよ。沈むよ。あの頃よりデブだから・・・。まーきー、自分が泳げないこと覚えてない訳?」
デブと言われたところで龍太に蹴りを入れようかと思ったが、弟が言っていることがまとも過ぎて反論できないことも事実。気持ちはあまり小さい頃と変わっていない気がするけど、体だけどんどん大人になる。高校生の私の体は、あの頃使っていた浮き輪じゃもう浮かない。溺れてしまう。今の自分を浮かせてくれる浮き輪を買いに行かないと。
「絶対待っててよ」と真季。
「はいはい」と龍太。
真季はダッシュで徳仁港のフェリー待合所まで走る。ブレザーの制服を着た女子高生が体中に大粒の汗を滴らせ、呼吸を乱して、平日の人が少ない待合所で、島草履を買おうとする怪しい光景。お土産売り場のレジに立つのはフィリピン人のジャッキー。あまりのことに唖然としている。真季の必死な形相が怖いらしい。それは仕方ない。でも日本語がまだ不自由だから何を質問されても適当に答えておけばわからないと真季は自分に言い聞かせる。真季は汗を拭い500円の島草履と大人用の浮き輪1500円をレジに持って行く。
「2000円だけど、真季ちゃん、汗凄いね」とジャッキー。
そうだった。ジャッキーはこの島に来てから若い女子に目のない暇なおじい達がいつもここに日本語を教えに来るから、日本語の上達が著しいということを鶴子おばあが話していたのを忘れていた。真季の体を覆うびしょびしょの汗は急速にその熱を冷ます。
「はい、2000円、ジャッキーさん。島に来たこと内緒にしておいて・・・あまりにも暑いから学校の友達と授業さぼって海に遊びに来ちゃったの」と真季。ぺろっと舌を出してみたりする。ごまかしきれたかはわからない。それだけ伝えてお金を払って草履と浮き輪を手にして何かを聞かれる前に真季はダッシュで店を出て、また走る。病弱な筈の自分がこんなに走っている事実に真季は呆れる。私がこうまで必死だと変な霊すら近づきたがらないのねと真季は苦笑する。
真季が戻った時、龍太は自分の荷物と真季のスポーツバック、漁師道具や蓋をしたイラブーがうごめく二つの篭を魚を穫る大きめの網に入れて帆柱の根元にくくりつけていた。これで舟がひっくり返っても荷物は落ちない。真季は革靴を脱いで島草履に履き替た。革靴もビニールの中にいれて防水する。そして上着のブレザーを脱ぎ始める。昨日の雨が寒かったのでブレザーを着始めたけれど今日は真夏日。暑すぎて着ていられず、舟小屋に置いていこうとすると「まーきー、それは着ていかないと」と龍太に忠告される。
「何で、暑いさ。荷物にもなる」と真季が聞き返すと「半袖だと日焼けして痛くなる。俺はもう皮膚が慣れてるからいいけど。海に日陰はないさ。だから長袖着なさいませ。後これ」と龍太はクバで作った笠を真季に投げ渡し、頭にかぶるよう言った。そしてスカート下の素足を隠すために、モーフギンという毛布でつくった羽織を渡して足が陽に焼けないよう膝掛けにしろと言った。小さい頃謎のおじいがお布団にしてくれたモーフギン。沖縄とはいえ夏でも夜の海は寒く、毛布で作った羽織が必要な時がある。真季は龍太の指示を聞きながら呆気に取られる。真っ黒に日焼けした龍太の顔がいつもと違ってアホ面に見えない。海に出る男の顔に少しだけなっていて、私も行く!なんて威勢のいいことを言ったけど、素直に弟の言うことを聞いてしまう。
「まーきー手伝って」
龍太に促され、木製の小さな台車に乗ったサバニを海に向けて押す手伝いをする真季。潮は満ちていて岩場の間の細い砂浜は水に浸かっていた。そこまでサバニを運ぶ。台車にサバニを載せたまま海水が膝までつかるところに来る。白い砂とサバニの間に透明の海水が寄せてきて入ってくる。
「まーきー」
龍太に呼びかけられて我に返る真季。サバニを扱う龍太の手際のよさをぼんやりと見てしまっていた。私より年下だと思っていた龍太、いつまで経っても幼いんだろうと思っていたのに悔しいけどいつの間にか自分より少し大人びて見える龍太。
「ごめん、ごめん、何したらいい?」
「サバニを台車からおろして海に浮かせるさー。舟に乗って」
真季はよくわからないまま浅い海にちょっとだけ浮いたサバニによじのぼって乗りこむ。砂の中にめりこんだ小さい木の台車と舟底の間に水がどんどん入ってきて舟が海に浮いたのを龍太は確認する。そして龍太は台車を海中から取り出して脇に抱えながら舟を勢いよく押しては舟内に飛び乗る。まだまだ水深は浅いけれど・・確かにこのサバニは海に浮いている。大袈裟に言うと空を飛ぶ飛行機のように浮く。空だろうが海だろうが、浮くという感覚を知ってしまったらこの感覚が自分を世界の果てまで連れて行ってくれるような気がする。今年の糸満ハーレー以来の浮く感覚を龍太は舟に乗ってしっかりと味わう。体がこの感覚になじむまで少し待つ。じーっと待つ。ずーっと待つ。とはいえ、トータル5分ぐらい。そして少しずつ海が会話をしてくれるようになる。そこで龍太は笑う、「よろしくお願いします」と。海が笑う、「お前、馬鹿だな」と。
透明な海水が寄せては返すリズムにあわせて龍太はエークを海に入れてサバニを漕ぎ始める。おじいのサバニは糸満ハーレーで使うサバニよりだいぶ小さくてバランスを取るのが難しい。でも、それが龍太には楽しかった。新しいおもちゃを買い与えられた子供がその遊び方の習得に夢中になるように、龍太は舟の動かし方に夢中になる。舟の前方に座る真季は後ろ向き半身の姿勢で真ん中より少し後ろに座る漕ぎ手の龍太の真剣な顔を見る。そして楽しんでいるのは間違いない弟の表情を見つめながらため息をつく。今いるこの現実は何なんだろうと思う。でも、舟に乗ってみたら、乗らなきゃいけない運命だったような気もする。自分には普通の人が見えないものを見る力が生まれた時からあった。龍太にはない。でも、龍太には海の向こうにある何かが見えているのかもしれない。真季は結果として導かれるようにしてサバニに乗っている自分と弟の不思議な運命を感じながら、はじめからこうなる流れだったんだろうと諦めるようにして納得する。後ろ向きの体を前に向ける。目の前には大きな海しかない。真季は心の中で呟く、「いざ出発」と。もう迷いはない。




