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【エーファイ】⑩

 最近、見た夢を鮮明に覚えている。カラスの時もそう。あまりに夢の輪郭がはっきりしていて、眠っているのか目を覚ましているのか境界線がわからなくなる。日曜日の朝。真季はそんなことを思いながら布団の中で自分の体を触る。胸は膨らみ、腰はくびれ、お尻は大きくなっている。子供ではない自分を確認する。昨夜眠ってから今朝起きるまでずっと生まれてから少しずつ大きくなる龍太の手を握る夢を見ていた。赤ん坊の頃の龍太。ハイハイをはじめた頃の龍太。つかまり立ちができるようになった龍太。歩けるようになった龍太。一緒に公園で遊んだ龍太。転んで大声で泣く龍太。明るい笑顔でニコニコと笑う龍太。小さい頃の龍太は何をするにも姉である私の手を握っていた。そして幼い自分は自分なりにこの小さな弟を守るんだという責任感を感じていた。小さい頃から呆れるくらいに脳天気で常識のない馬鹿だけど憎むに憎みきれない弟。そんな龍太でも小学生、中学生と大きくなるに連れて、姉である私に守られる必要もないぐらいの強さを手にしていった。もう私が龍太を守る責任感なんて、あの頃みたいに感じなくていい。なのになぜこんなにも脳裏に焼きつくような夢を見てしまうのだろう。沖縄にはオナリ神信仰というものがある。姉や妹が男兄弟を守護する守り神になるという。そんなもの遠い昔話・・・。そんな信仰があるから、いつまでたっても沖縄の男は頼りなく、女の方がしっかりしているなんてことが起きる。そんな迷信信じるなんて馬鹿げている。だけど・・・男は力が強くて、勇気があって、優しくて、純粋で、馬鹿で、途方もない現実離れした夢を見る。女とはちょっと違う。ありえない夢を見る才能は男にしかないのかもしれない。弟を見ているとそう思う。それとは反対に女は現実を生きる生き物。17歳になってこれから先の未来を見据えて女の一生についてふと考えてみたことがあるけれど、そんなことを思ったりもした。なんでこんなにも違うのだろう・・・。そもそも男と女は別の生き物なのだ。女が強くなっていく男にしてあげられること、きっとそれは祈ることしかないんだ。富おばあも鶴子おばあも海に出るおじい達にしてあげられることはきっと無事でいて欲しいと祈ることだけだったんだと思う。祈りって何だろう・・・。祈って何か変わるのかな?祈ることがオナリ神信仰でいう男達を守護するということなのかな?まだ寝ぼけている。でも、手のひらに赤ん坊の頃の龍太の小さい手の感触を思い出すことができる。この掌に残るぬくもりは忘れてはいけないのだろう。そんなことを考えてたら思い出した。小さな私がサーダカンマリだと噂されて、友達やその親に気持ち悪がられた時、真っ先に私を守ってくれたのは龍太だった。それでいじめられたこともある。傷つけられたこともある。その度に龍太は私を傷つける力に食ってかかった。噛みつきにかかった。私よりも小さい体で戦うことをためらわなかった。そう・・・私が真っ暗な世界に引きこもりそうになる度に光の下に戻してくれたのは弟だった。青空の下に引きずり出してくれたのは弟だった。その弟の体温の記憶。夢はそれを忘れないように忠告してくれているらしい。忘れる訳ないのに・・・・。真季は寝起きの目に涙が溜まっていることに気づいた。泣いている自分がおかしくて、恥ずかしくて、あくびをしてその涙を瞼から流れ落としてしまう。


 真季は鶴子おばあ宅の台所で顔を洗い、歯を磨く。夢の余韻が時間とともに薄れていく中、龍太が既に目を覚まして家にいない事実に違和感を感じる。家族の中でいつも最後まで寝ているのは弟の龍太なのだ。違和感で思い出す、昨日ハンモックで昼寝をして家に戻ってくる途中、風もないのに草が揺れたのを。蛇口から水をすくって口の中をゆすぎ、歯磨き粉を台所のシンクに吐き出そうとした瞬間に間違えて飲み込んだ。歯磨き粉の辛みが体内に入って真季は思わず咳き込む。そして目が覚める。龍太だ。あの草むらに龍太が隠れていた。寅也おじいは死ぬまで龍太にサバニの場所は教えなかった。教えたかっただろうけど、自分の息子である太も漁師にしなかった。自分達の血を受け継ぐ子供達を海で死なせたくないという鶴子おばあの気持ちを寅也おじいは生涯尊重した。息子ですら海に出ることを許さなかったのだ。ましてやかわいい孫の龍太はとてもじゃないけど舟には乗せられない。だから死ぬまで龍太にはサバニの場所は教えなかった。酔った勢いで龍太に海の話を散々聞かせるくせに、酒が抜けると急に口が固くなる。龍太は頭の中でいつもおじいの話に出てくるサバニを空想し、そのサバニで海に出る夢を見ていた。生まれた時から龍太の手を握りしめてきた真季には龍太が考えそうなことは手に取るようにわかる。その龍太があのサバニの場所を知ってしまえば、あいつは海に出ようとする。そしてここ最近のあの弟の行動を見ていると海に出る理由は既に見つけているのだろう。

 真季は慌てて寝間着用のシャツと短パンを脱ぎ、白いポロシャツとデニム生地のハーフパンツを履いて舟小屋へと走る。そんなに遠い場所ではないのに気が焦っているせいか息の乱れが激しい。草むらの細い一本道を走って舟小屋に着いた時、サバニはまだ舟小屋の中にあった。

 「良かった・・・」と真季は右手を膝にあて左手を胸にあて、顔を下に向けながら呼吸を整え心臓の動悸を沈めようとする。もう海に出たかと思ったのは思い込みだった。息を整えていると舟小屋の向こうのハンモックをかけた木々の隙間から海風がそよいできた。真季の前髪を揺らす。真季は顔をあげて風の流れて来る方向に目をやった。遠くに見える水平線。吸い込まれるようにして真季は海への道を歩く。そして反射的に岩の陰に隠れた。龍太が砂浜に裸足で立っている。寄せて来る波に足を浸しながらずっと空と海を見ていた。雲の動きを見つめ、潮の満ち引きを感じ、風の呼吸を聞いている。真季は海を感じる弟の姿を見て、数日以内に龍太は海に出るだろうと悟った。小さい頃からずっと探していた寅也おじいのサバニを弟は見つけてしまったのだから・・・。


 月曜日の朝、雨が降っていた。久高島から戻った普通の平日。一週間の始まり。休みの反動で、布団から起きるのが他の平日以上に時間がかかる筈の朝に、雨の音で真季はいつもより30分以上早く目が覚めた。起き上がることもなく、眠る訳でもなく布団の中で30分いろんなことを考えた。父親と母親はもう起きていて、母は朝食を作り、父はトイレに行く途中だった。龍太はいつも通り部屋でまだ寝ている。耳に届く音で一つ屋根の下で何が起きているかがわかる。窓の向こうの雨の音が耳に響き続ける。起きる時間になっても真季は布団から出なかった。いつも龍太が起きてくる時間を待つ。

 「まーきー、いつまで寝てるー?」と母の声が聞こえる。無視する。狸寝入り。その声に反応して、龍太が目を覚ます。口を大きく開けた間の抜けたあくびが壁を振動させ隣部屋の真季にも聞こえてくる。それを聞いて真季も布団から出る。いつもは真季が龍太よりもかなり先に家を出る。でも今日は龍太よりちょっと早めぐらいじゃないと時間があわない。龍太はいつものように起きてからすぐに洗面台で寝癖を直し、朝食にたっぷりからしを入れた納豆をご飯にかけて4杯食べる。母親が作ってくれた味噌汁と卵焼きとサラダをしっかりとよく噛んで胃の中に流し込み、「ごちそう様」と言って部屋に戻って中学校の制服に着替える。真季は、納豆ご飯は食べずに苺ジャムをぬったトースト、卵焼き、サラダと味噌汁、それにヨーグルトを食べてごちそう様をする。そして同じく制服に着替えて高校に向かうが、龍太はいつも朝食を食べて、制服に着替えた後にトイレに行くのでその時間を頭の中で計算して家を出る。

 「行ってきます」と玄関を出てアパートの階段を降り、通学に使っているバス停に向かう。そこまではいつも通り。ただそこから道の途中にある24時間営業のコインランドリーの店内に真季は入る。この場所からアパートがよく見える。登校時間の少し前に、高校に電話しようと携帯電話を握りしめる、いつもと同じように体調不良でお休みすると。そう思っている間に龍太が階段をおりてきて、アパートの入り口を出て傘を差した。龍太は中学校の方角に向かって足を進める。真季はコインランドリーから出て、傘を差して龍太の行く先を、距離を保ちながら尾行する。中学校への通学路を外れることなく傘を差して歩く龍太。久高島へ行く時に使うバス停に向かう素振りは拍子抜けするほど感じない。

 (考え過ぎかもしれない)と真季は心の中で自分に問いかける。

 (サバニを見つけたからって、さすがに海に出るなんて、いくらなんでも龍太も無謀だと思っているのかも。そして昨日砂浜で海を感じているように見えた龍太は、ただぼーっと空を見ていただけなのかもしれない・・・)

 真季の自問自答は尾行の間、脳内をぐるりぐるりと回り続ける。そして、龍太は何も変わったところなく、普通に中学校の校門を通り抜け、校舎の中へと入っていった。真季はそれを見届けて、しばらく雨の中、傘を差しながら立ち続けた。雨の音だけがこの世界を支配している。水溜りに勢い良く降り注ぐ雨がはねて真季のスカート裾と靴下にかかる。真季は高校に電話を入れることなく、いつもより2本遅いバスで那覇市に向かい登校した。

 「遅れてすみません、バス停で急に体調が悪くなってベンチで休んでました」とびしょ濡れになった真季は一時間目の授業が始まって10分程経った教室に入り、先生に謝罪し席についた。先生が何か優しい言葉をかけてくれたようだけど耳には届いてこなかった。口が動くのがわかっただけ。雨の音以外耳に入ってこない。雨の音が鳴り続け、雨の音を聞き続ける。低気圧のせいか、頭の奥の方にしびれに似た痛さを感じる。少しずつ感覚が麻痺していく。雨の音はより大きくなる。隣の席に座る同級生の女子が真季に声をかけてくるが何を言っているかはわからない。口の動きを見た限り、「凄い雨ね」と言っているのかと思う。真季は席に座ってハンカチで濡れた髪を拭く。雨の音に混じって風の音が聞こえ始めた。そして、真季は台風に思いを馳せる。沖縄の台風、風速50メートルを超す強風と空を覆い尽くす雨雲。そのうなる風の音と叩きつける雨の音を聞いていると小さい頃からなぜかおとぎ話や昔話に出てくる龍が空で暴れているように感じていた。台風イコール龍。真季はいつも台風が来ると龍が来たと感じた。今日の雨音と風の音は、真季にそんなことを思わせる。教室の窓の向こうを見る。灰色の空。窓ガラスに叩きつける無数の雨粒。台風の時と違って、荒れ狂っているわけじゃない。でも、窓の向こうに龍がいる気がする。そして自分を見つめているように感じる。雨音はより強さを増し、風は校庭の泥を巻き上げるようにして勢いを強める。やっぱりそこに龍がいる気がする。そして自分を見つめている。長い長い時間、龍は真季を見つめていた。真季も目をそらさずに窓の向こうの灰色の空を見つめ続けた。真季の角膜の奥にある水晶体に自分の姿が映っているのを見届けた龍は、飽きたのか大きなあくびをした。すると風と雨の音がより大きくなる。うなるようなあくびをして口を閉じた龍は校庭にとぐろを巻いて眠り始めた。雨は急に小雨になり、風もやんだ。雨雲が晴れていくとともに龍の姿も消えた。

 (一体何なんだ・・・)と真季は思う。小さい頃から他の人に見えないものが色々見えた。そして物心つく前から目が覚めても寝ていた時に見た夢の内容を鮮明に覚えている。それが最近頻繁に起こる。龍太もいつもとは違う何かをここ最近感じているのかもしれない。だから弟の行動が不自然。心当たりは一つしかない。神に使える身であった富おばあの寿命が差し迫っている。そしてその事実に神様達が焦っている。うろたえている。冷や汗をかいている。だから何だかいつもと違う。気持ちがずっとそわそわする。世の中もなんだかそわそわしてる。龍太はその落ち着かない空気の中で、きっと一人、何をすべきかわかっているのかもしれない。それも現代の常識では考えられないことを・・・。その予兆を私は感じているのだろうかと真季は思う。


 文明が発達する程に人間は傲慢になっていく。そして古代からこの世界を守り続けてきた自然を司る神様やご先祖様の存在を忘れていく。神と人間の距離が遠くなる。両者が離れていくことでこの世界はきっと終わりに近づいていくのだろう。神々は自らの尊厳と存在を人間に示すために怒りを持って天災を起こし、人間はそれに反発するように自然を破壊し、その上に文明を築いては手にした叡智を誇示しようとする。古代より自然の神々と人間の間を結びつけてきた神に仕える神人の減少。その事実に神々や祖先から続く守護霊は焦り、人間達も不吉な予感を肌に感じている。真季はそんな夢を月曜日の夜に見た。そして火曜日の朝に目覚めた後、体育の授業の時に持っていく大きめのスポーツバックをクローゼットから取り出した。窓の前に立ち、カーテンを少し開けるとちょうど日の出の時間だった。まだ家族は眠りから覚めていない。音を立てないようにバックの中に服の着替えや下着、携帯電話、イヤホン、iPad、充電器、ドライヤー、何かあった時のための電源延長コード、アルカリ電池を2ダース、小型懐中電灯、小型ラジオ、手持ち鏡、化粧道具、タオル、生理用品、そして空気の入っていない小さい頃海で遊ぶ時に使った浮き輪を入れた。スポーツバックはパンパンで重くなった。一息ついて、もう一度窓の向こうを眺める。微かに頭だけ見えていた太陽はその丸い顔を半分以上地平線の上に出していた。母親が起き、父親のいびきが止まる。真季はもう一度布団の中に潜り込み、いつも起きる時間まで眠っているフリをする。隣部屋の龍太の部屋からは物音一つしない。

 (一体、あの弟は何をするつもりなんだろう?)と真季は思う。何かいつもと違う様子や雰囲気があってもいいものを、この瞬間には何もない。いつも通りの朝。昨日とは変わって今朝の空は晴れている。でも何となく感じる。今日、龍太は海に出る。だから昨日と同様に後をつけなくてはいけない。

 

 朝食の食卓で龍太はいつものように納豆ご飯を4杯かき込む。それは変わらない風景。何かいつもと違う景色を家の中に探そうとする真季は、なんとか手がかりを見つけるために台所に味噌汁のおかわりをよそいに行った。

 「まーきー、珍しいね。おかわりするなんて」と母親が言う。

 「何か知らんけど、お腹空いてるさー」と答えて、台所を見回すと違和感を感じるところが一カ所ある。父が飲む泡盛は一升瓶で買い置きしていて、昔から3本台所の隅に置いてある。1本なくなるとなぜか1本足されて、いつも3本置いてある。しかし、今朝は1本しかない。母はまだその事実に気づいていないよう。未成年では酒が買えない。買いに行って騒ぎになるのも面倒。そんな心理を2本足りない泡盛置き場を見て真季は感じた。間違いない、龍太の仕業。いつも通りに振る舞っている龍太だけれど、小さい頃から同じ目線で育った姉にしか気づけない弟が見せる非日常的行動。真季はそれを目にした後、テーブルに戻っては味噌汁のおかわりを喉の奥に流し込むように食べて、「ごちそう様、おいしかった」と母親の顔をしっかりと見て伝えた。そして自分の部屋に戻り、通学の支度をはじめた。龍太も同様に「ごちそう様、おいしかった」と母親の目を見て言い、部屋に戻り制服に着替え登校準備をはじめる。真季が重そうなスポーツバックを持って早足で「行ってきます」と玄関を出る。そして、5分後に龍太もスポーツバックを持って「行ってきます」と家を出た。母は何も気づかず二人を「行ってらっしゃい」と笑顔で送りだした。


 真季は昨日同様、コインランドリーで龍太がアパートのエントランスを出てくるのを待つ。そしてスポーツバックを持った龍太がすぐに出てきた。スポーツバックのチャックから泡盛一升瓶の口が出ている。「馬鹿な弟」と真季は呆れ果てる。そしてやはり昨日と違い、龍太は学校に向かわず久高島を目指すバス停への道を行く。真季は後を追った。途中のコンビニに龍太は入る。真季は慌ててコンビニの外、死角になるバレない場所に隠れて店内での弟の動きに注意を払う。どうやら百円ライターを3本、1.5リットルの水を3本、一番大きなサイズのゴミ袋を3セット買ったようだ。そしてコンビニを出て改めて龍太はバス停に向かう。水が入った大きな袋を持った龍太がコンビニを出た後、真季も念のため500ミリリットルのミネラルウォーターを2本買って、既に重たいバックに無理矢理押し込んだ。昨日の雨の肌寒さから一転、南国の残暑が二人の額に汗を滲ませる。龍太はバス停でバスを待つ。朝の時間に那覇方面へのバスは混むが、真逆の路線のためバス停の前のベンチに座っているのは龍太だけ。糸満から36号線のバスで与那原方面に出る。そして一度与那原でバスを降りて38号線のバスに乗り換えて安座真サンサンビーチ入り口で降りると久高島のフェリー乗り場はすぐそこ。真季は開店前の沖縄そば屋の影に隠れて龍太の後ろ姿を見つめ続ける。

 (海に出るにしても、準備があるだろうから一本後のバスと一本後のフェリーに乗れば間に合う)と真季は計算している。冷静に行動しているつもりだけど、握った拳の掌に汗をかく。

 (龍太はこのまま行くと9時のフェリーに乗る。次のバスが35分後だけどフェリーも次が10時だからきっちり1時間遅れで久高に着ける)

 真季は考えを巡らせ続ける。そして、考えと考えの合間に、(なぜこんなことをしているんだろう・・・)と息苦しくなる。時刻表より5分遅れてバスが到着し、龍太はバスに乗った。それを見届けて、真季は大きく息を吐いた。無意識に酸欠してしまいそうな程、胸が詰まっていたのに気づく。それから35分後のバスが来るまで龍太が座っていたバス停前のベンチに座り、何も考えられず放心状態になった。


 真季は目の前の光景をぼんやり眺めている。何か考えようと思っても考えられない。ただ何度もため息が零れる。視点がうまく定まらない気が重たい視界。またため息が漏れる。そして目の前の風景を突然遮られ、バスが来たことに気づく。慌ててスポーツバッグを担ぎ上げてバスに乗り込むと乗客は真季だけだった。バスに乗って座席に座り、流れる風景を見てようやく気持ちが落ち着いてくる。与那原でバスを乗り換えて進む知念半島。沖縄南部の田舎の風景。木々や畑や雑草の緑と海&空の青の色々。目から脳に入ってくる色彩の移り変わりと太陽の輝き、影のゆらめき。雨の昨日に比べて色彩量の多さになんとなく気持ちが慰められる。ため息の回数は少しずつ減っていく。安座真サンサンビーチ入り口に着き、安座真港まで3分ほど歩く。途中の小さな畑にヤギがいる。今日もいた。それを確認した後、港まで足を進めてフェリーの切符を買う。販売員のおばさんに「あれ、真季ちゃん。平日なのに久高に?さっき龍太君もフェリーに乗って行ったけど」と聞かれる。田舎はこれだ・・・と思う。どこかで誰かに自分の行動を説明しないといけない。

 「龍太何か言ってました?」と真季が聞くと、販売員のおばさんは「雲の故郷へ行ってきます。とか言ってふざけて笑っていたわよ。龍太君、昔から何聞いても適当なことしか言わないから、またかと思ってそれ以上何も聞かなかったさ。真季ちゃんも同じ?雲の故郷へ?それとも竜宮城でも行くの?」と思い出し笑いをこらえる販売員のおばさん。真季は真面目に「その馬鹿な弟を取っ捕まえに行ってくるのです。雲の故郷どころか糸満の我が家のあいつの部屋の押し入れを牢屋にしてそこから二度と出られないようにしてやるの」と真季が話すとおばさんはお腹をかかえて笑った。

 「龍太君も真季ちゃんも本当に面白いわね。おばさん、真季ちゃんに牢屋に入れられる龍太君を想像するだけでおもしろくて涙出るわ。龍太君が牢屋に入れられたらおばちゃん面会にいけるのかしら?こう見えてもハンサムな龍太君のファンなのよ」

 「もちろん面会可能にしますが、餌は与えないでくださいね、あの海猿に」と真季が注意事項を伝えるとチケット販売のおばさんはしゃがみこんでしまった。真季は笑い転げるおばさんをそのままそっとしておいて船着き場へと足を進める。海はありがたいことに静かだった。海が荒れていると久高島まで20分ほどで着くとはいえ多少気持ち悪くなったりもする。ほっと一息つく。その後に、海を見つめながら真季は小さく重たいため息も一つついた。


 平日午前の久高島行きはガラガラだった。必然的に目立つ。船員のおじちゃんに「お、真季ちゃん」と声をかけられる。

 「学校さぼって久高に逃亡かい?さっき龍太も乗ってたさあ。ま、逃亡は冗談にしても、富おばあの様態が悪くなる一方だから心配して見に来てるんだろ?本当におばあ孝行さー。縁起でもないけどいつ死んでニライカナイに行くかわからないから、今のうちに会えるだけ会っといた方がいいさ。うちのおばあは本島の病院で死んで、この船で久高連れて帰ったけど、島で死なせてあげたかったと今でも後悔してるさあ」

 船員のおじちゃんの話を真季はただ頷いて聞いた。この手のおじちゃんは話すと長い。フェリーが徳仁港に着いてもしゃべっているタイプで船から降りるタイミングを逸する可能性がある。龍太が海に出る前にその首根っこをつかまえなくてはいけないのだ。一分一秒が貴重でおじちゃんの話を長々と聞いている余裕はない。真季はおじちゃんの話を右から左に受け流す。


 フェリーは時間通り出航し、20分かけて徳仁港に着岸した。フェリーと岸の間に足場が駆けられると真季はすぐに船を降りて、重たいバックを担ぎながら小走りで港からフェリー待合所に続く坂をあがっていく。汗が飛び散って目に入る。でも拭いている余裕がない。とにかくハンモックとサバニがあるあの空き地を目指さなければ。ただ急がなければいけないという思いの裏側で(あの馬鹿な弟のせいで散々な目にあう)と愚痴りたくなる気持ちが積み重なって鬱屈して、同時にやってられないという気にもなる。

 「なんで私がこんな目にあわなきゃいけないの」とこみ上げて来る怒りにも似た思いをぶつぶつ呟きながら真季は食事処とくじんの横にある道を走り抜け、雑草を踏み分けながら舟小屋が見える位置まで来た。龍太の姿はない。

 (遅かったか・・・)と思ってバックをどすんと地面に降ろし両手を両膝について息を整える。でも視線の先にサバニがまだある。

 (あれ?まだ行ってない?)と真季は気づく。サバニの中を覗き込むと龍太のバックとコンビニで買った物資が積み込まれていた。そして、舟小屋の奥に無造作に置かれていた漁師道具をかき集めて舟に乗せた形跡がある。思い出せばそれらの漁師道具をサバニの中で昼寝する時に邪魔だからと小屋の奥に置いたのは自分だったと真季は気づく。見たところ出航準備はできているよう・・・。後は取り外してある帆柱を立てて、舟を木製の小型台車に乗せて海に出るだけ。でも龍太はいない。真季は舟小屋の前で屈み込む。腰が抜けかけたというのが本当のところ。ここにいれば龍太が来る。そう思って真季は待つことにした。龍太は一時間前には久高島に着いている。なのに、真季は腰を抜かした状態で30分近くも待った。スマートフォンのディスプレイに表示される時間をずっと見つめる真季。手につく汗のせいでディスプレイは汚れる。何度かスカートの裾で拭く。そして草を踏む足音が聞こえてくる。真季は音がする方に視線を向ける。龍太が魚を入れる大きめの漁師用の篭を二つ両手に持って歩いてくる。そのうえ編み込まれた縄に包み込まれたガラスの大きな玉を右肩にかけている。サッカー少年が網にボールを入れるような形で包み込まれたガラス玉の中から、水が入っている音がたぷんたぷんする。ペットボトルだけでは心細くて水をくんできたのだろう。15リットルくらいは水が入っていそう。

 「まーきー、何してるこんなところで?早く学校行かんね?」と龍太。その言葉に真季の怒りは軽く沸点を越え、龍太に蹴りを入れようとする。だけど、龍太もそれはお見通しと素早くかわす。

 「あんたこそなんねー?学校にも行かないで久高にいて。どうするつもり?一体何考えてる?」

 「だからよー」

 「何がだからよーね。ちゃんと説明せんね。あんたが勝手なことすると皆が迷惑する訳。わかってる?まさかこのサバニで一人で海に出ようなんて思ってないでしょうね?」

 「だからよー」

 「だからよーってなんね。本当に海に出る訳?一体何のために?でーじ馬鹿。アホみたいな馬鹿。いい加減にせんね。そんなことされたら皆が困るってわからないの?」

 「仕方ないさ。久高の神様が富おばあに兎を飲み込んだ蛇を食べさせてあげろって言うさ。そしたら元気になるっぽいことを言うからさ。調べたら、兎を飲み込んだ蛇はきっと出雲ってところにならいるような気がするから穫りに行く」

 「はっ?」と真季は一瞬凍りつく。意味のわからないことを言う弟に呆然とする。間違いなく体温は30度台を割り込んだ。兎を飲み込んだ蛇を取りに行く?出雲ってあの教科書に載ってた出雲大社がある出雲?島根県?自分の弟のアホさ加減に血の気が引く程に絶望する。そしてiPadで出雲について調べていた弟の履歴を今更ながら思い出す。

 「あんた、島根県までサバニで行こうとしてる訳?久高からどれだけ遠い場所かわかってるの?非常識にも程がある。それに何さ、神様って。兎を飲み込んだ蛇って。おとぎ話じゃないんだし、一体何を訳のわからないことを言ってるか自分で気づいてる?」

 「わかってるさ」と龍太は透き通る眼差しで言い切った。

 「サーダカンマリのまーきーも気づいてるからここにいるんでしょ?神様達は何かを企んでる。そしてまーきーもそれを感じてる」

 「神様なんて信じない。おかしい。目に見えないものを信じてどうなるさ?」

 その言葉を聞いて龍太は苦笑いした。目に見えないものを見える能力があるのは真季なのだ。小さい頃から龍太は知っている。それを信じないと信じている真季の矛盾を笑わざるおえない。龍太には目に見えないものは見えないが、小さい頃から真季の存在を通じて不思議な力を身近に感じてきた。だから真季よりも龍太の方が素直に信じている。真季はヒステリックになって声を張り上げる。

 「いいわよ、じゃあ島根に行くとして。なんで飛行機で行かない?富おばあのためならお父さんもお母さんも喜んで飛行機のチケット代出してくれるさ。おかしいさ、龍太の考えてること。こんな小さな木の舟で海に出たら、島根に着く前に死ぬさ。もうちょっと冷静になった方がいいんじゃないの?」

 「理由は簡単さ。」

 「なんね?」と真季は声を震わせながら顔を真っ赤にする。

 「サバニで行ってみたいから」

 「はっ?」

 「男はウミンチュ、女はカミンチュ」


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