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【エーファイ】①

 ハーレー鉦が鳴り響き、透き通り始めた沖縄の夏空に指笛の音が甲高く響き渡る。ぴぅーぴぃっと途切れなく重なり合う指笛の音色は、空を覆い尽くすほどの海鳥が一斉に鳴いているようにも聞こえる。そして晴れた空の太陽を覆い隠す海鳥の大群を追い返す程の力のこもった太鼓の音が夏空を切り裂く雷のように叩き乱れる。糸満漁港を埋め尽くす観客の上に雷が落ち続け、絶叫の雨が思い思いの応援の言葉として集中豪雨になる。空は青く、海も青く、何もかもが青い世界の中で人々は前のめりの姿勢で叫び続ける。


 「龍太ーーっ、今年も頼むぞ。お前がいれば、優勝はうちの村だ。3連覇だ。」


 波に揺られる小さな木造舟の上、大人に混ざる色黒の中学生が、応援の声に右手の親指を立てて応える。左目でウィンクした少年。その太陽にこんがりと焼けたおどけた表情に白い歯がキラリンと光る。琉球伝統のハーレー衣装を身に纏い、木製の細いオールを持つ少年には気負いの欠片もない。海の上にいることが陸にあがっている時より気楽と言わんばかりの表情。それは海人ウミンチュの本能。舟は波の呼吸にあわせて揺れる。その海の呼吸のリズムに自分の心拍数をあわせながら龍太は少し顔を上げて空を見た。そこに雲はなく、飾らない青空の素顔がある。どこまでも青く、どこまでも透明で、どこまでも広がっている。南国の空は日差しが一秒毎に強くなり、太陽は輝きを増し続け、世界は光に溢れていく。梅雨が明ける。今年も沖縄の長い夏が始まる。


 旧暦5月4日、沖縄本島最南端の漁師町で行われる糸満ハーレー。サバニと呼ばれる木造のくり舟「ハーレー舟」を鉦打ち1名、カジ取り1名、漕ぎ手10名の計12名がエークと呼ばれる櫂を手に水をかき分け漕ぎ競うボートレース。漁師町の海人達が海の恵みに感謝し、大漁と航海安全を神様に祈願するための祭りであり、御願で始まり、御願で終わる海の神への祈りの伝統。受け継がれてきた海人達の祈りの記憶を思い出し、未来に繋いで行く一日。糸満市最大のイベントでもあるこのハーレー祭りで多種多様な数多くのレースが行われる中、最も盛り上がるのがクンヌカセー(転覆バーレー)。沖縄県内各地で行われているハーレー祭りの中でも糸満ハーレー独自の競技で、レース中盤でサバニの乗り手12名が一斉に海に飛び込み、わざと舟をひっくり返す。舟底を集まった大観衆に見せてから元通りに起こし、漕ぎ手達が再び舟によじ登って乗り込み直す。そして舟に入った海水をかき出しながら、一秒でも早く舟を漕げる状態にして再びレースに戻る。漁の最中に舟が転覆しても、すぐに舟を起こして生き残れるか?そんなシュミレーションを実際の祭りの中で披露しては海人達の技量をはかる奥深いレースである。舟をいち早く元に戻し、海水を一秒でも早くかき出して、船を漕ぎ直すことができれば相手チームよりも有利に競技を進めることができる。この舟起こしと水かきの天才が龍太だ。長年ハーレーをやっている糸満の超一級の漁師達が足下にも及ばない才能。本来は中学生の競技ではないクンヌカセーにスカウトされる形で飛び級参加している。ハーレーで勝つことが昔より村の最高の名誉であるとされる糸満でこのクンヌカセーの盛り上がりは町をあげての興奮状態と言っても言い過ぎではない。


 盛り上がりのボルテージが高まり続ける漁港の中心で龍太は集中力を研ぎすます。あたりの音が少しずつ遠くなり、自分の意識とそれ以外の全ての間に一枚の薄い膜ができる。その膜が浮力を伴って、潮の流れにあわせ海の上を浮いている。海と一体になっていく瞬間、龍太は小さく息を吐き出し、吐き切る前にその呼吸をもう一度吸い込んだ。その瞬間にスタートの合図が鳴り響く。一気にエークを海面に突き刺し、海を力の限り後方へ押し込む。ハーレーは前に進み始め、鉦打ちが鉦を鳴らしながら、10人の漕ぎ手のリズムをとっていく。会場の応援は興奮状態を超えて発狂に近い状態に。振り切れてしまうほどの歓声にノセられて、歯を食いしばった漕ぎ手達が必死に力強く海をかき分けていく。迫力ある光景に響く涼やかな鉦の音は、それはここではないどこか遠い天国のような場所へ舟を導いているかのようにも聞こえる。今ここにある瞬間と昔から人々が祈りを捧げてきたどこか遠い世界が微かだが繋がるのを感じる。導かれる方向へと進む木製の小さな舟。龍太は大人に負けることなく、鉦の音にあわせて舟を漕ぎ続ける。レースはここまで3チーム全くの互角。ライバル同士、お互いの息遣いが耳には届いてくる。そして皆息を飲む。満員の観衆の呼吸も止まる。ハーレーに乗った左舷の5名が海に飛び込む。左が軽くなった舟の端を残った7名が海の中に押し込みひっくり返す。その押し込みのタイミングの初動動作は龍太にまかされており、龍太は海水が入るまで舟を左にぐっと傾かせる。海水が舟に入った瞬間に他のメンバーが一斉に舟を押し込みひっくり返す。天が与えた才能か、龍太の舟を押し込む間合いが絶妙で他のライバルチームとの間に差がうまれる。龍太は舟を押し込んだ後、そのまま海に潜り、左から右へと水中で移動しては海面に上がる浮力を使ってそのまま舟を持ち上げる。舟が少し持ち上がった瞬間を見逃さず他のメンバーが一斉に力を貸して舟を元に戻す。観客がその一連の動作の鮮やかさに「あきさみよー」と歓声をあげた時には既に龍太は一人舟の上によじ登っていた。そして舟底にたまった海水を搔き出す作業に入っている。龍太の一連の動作に半テンポ遅れて、皆がついてくるチームワーク。12名全員が舟によじ上り終え、一斉に海水を手で搔き出すと瞬時に舟底は空になる。ようやく舟を起こす動作に入っている他の2チームを圧倒的に引き離す。舟を漕ぐチームのキャプテンで年長者が「龍太、よくやった。後は俺たちに任せて手抜いていいぞ。休んでろ」と叫ぶ。ベテラン達は尊敬の念を込めて龍太の海人の才能に舌を巻き、少年にばかり頼っていては面目がたたないという少しの恥ずかしさとともにそんな言葉を口にするが、龍太は全く聞く耳を持たない。不服そうな顔をして「嫌だ。俺も漕ぐ。ヤギこそ手を抜けばいいさー」と反論し、海水でびしょびしょの体で大人達と同じリズムで龍太は漕ぎ続ける。ヤギとはサバニチームのキャプテンのあだ名。レースはその圧倒的な差を保ったまま進んだ。諦め顔のライバル達のサバニの速度は微妙に落ちていく。会場ではどこからともなく三線が鳴り始め、沖縄の喜びの踊り「カチャーシー」が始まる。おじいやおばあ達を筆頭に老若男女が次々と踊り始め、勝者を迎える準備に入る。笑顔が溢れている。龍太が乗ったサバニは祝福の中、歓喜の指笛の音が鳴り響くゴールにたどり着く。


 「さすがだねー、あの中学生。天才さー。海人の誇りだねー」

 会場に設置された白いテントの下、小さな太鼓を叩いては思い思いに楽しみながら応援していた七福神のように柔らかでぽっちゃりしたおばあ達が龍太の活躍を讃える。

 「どこの子ねー?糸満もまだまだ漁師のなり手になりそうなのがいるさー」

 「お父さんは糸満市役所の人らしいわよ?優秀さー。あの子、漁師の血じゃないのにでーじ上等さー」と、ニコニコ顔のおばあ達のおしゃべりは天才中学生のお父さんの職業にまで及ぶ。隣のテントではおじいの集団が島酒(泡盛)を飲みながら七福神おばあ達にちょっかいを出してナンパしようとするがおばあ達はゆんたく(おしゃべり)に夢中。

 「あの中学生、なかなかいい男さ。いい体してるさー」

 「ナンパしてくる隣のおじい達も昔はいい男達だったよー。でも年金もらって海に出なくなったら全然駄目。ただの干からびたおじいちゃんになっちゃったさー」

 「だからよー。糸満の男は死ぬまで海に出て、海人として生き続けないとボケるさ」

 「あの中学生も立派な糸満の漁師になってくれないかねー。後継者不足さー」


 永遠に続きそうなおばあ達のゆんたくの輪の中に一人だけ神妙な表情をしたおばあがずっと黙っていた。いつもは陽気で美人なそのおばあがクンヌカセーが終わってから黙って考え事を続けているから隣のテントからおじいが来て、「なんね?夏子、おもしろくなさそうな顔して。俺とつきあったら楽しいば。つきあうか?島酒飲もう。今度那覇までデートしに行こう」と言うと固く閉ざしていた唇をほどいた。てっきりおじいはその唇からOKの言葉がもらえるのかと思って期待したが、夏子おばあの喉の奥から出てきた言葉は違った。「あの子は久高の海人の血」と言う。その低音でおどろおどろしい一言を聞いてニコニコ顔だったおばあ達のゆんたくは凍りつく。ナンパおじいは次に喋る予定だったくどき文句を見失う。久高という言葉の響きが沖縄で持つ意味・・・。恐れ多くて近づけない、いや近づいてはいけないという無意識の条件反射。

 「あの子のおじいもうふおじいー(ひーおじいちゃん)も久高島の漁師。そして二人とも海で死んでるさー。その昔もあそこの一族の男はみんな海で死んでる。だからあの子のおばあは、息子を漁師にはしたくなかった。もう誰も死んで欲しくなかった訳さ。だから、あのハーレーの天才中学生のお父さんも母親のその気持ちは痛いほどわかっていたから勉強して糸満の市役所に入って、漁師にはならなかったさ。まだあの中学生が小さかった頃はおじいも久高で生きていたけどね。おじいは息子が漁師にならなくても何も言わなかったらしい。市役所に勤める息子を誇りに思っていたそうさ。そりゃそうさー、可愛い子供には死んで欲しくないからねー。でも血だねー、ハーレーに乗っているあの中学生を見ていたらそう思うしかないさ、あれは久高の海人の血を間違いなく受け継いでるさー」


 糸満ハーレーの翌日は、町も海も昨日の祭りが嘘のように静かになる。漁港の船は一隻も海に出ない。そして誰も海には入らない。糸満界隈の海から船が消え、人が消え、海はただただ広く、誰のものでもない素顔に戻る。

 「龍太は学校に来てないか?」と中学校の担任がため息をつく。昨日のハーレーでの活躍を褒めてあげようと思ったら、いつものさぼり癖。

 「いつものように海で浮いている筈さ」とクラスメイトの男子が当たり前のように笑うと、先生は「今日はいつもとちょっと違う」という顔をした。

 「ハーレーの翌日、なんで誰も漁に行かんし、海に入らんか知っているか?」

 「知らないさ。というか、そうなの?誰も漁とか出ないの?」

 「そう、昔からの言い伝えで、ハーレーの翌日はグソー(後生)の人達が海でハーレーをしている。グソーってわかるな?」と先生に聞かれ、「あの世」と答えるクラスメイト。

 「そう、死んだ後に皆が行くとこだ。糸満ハーレーの翌日は、海で亡くなった人達が海でハーレーをしている訳さ。昔話ではハーレーの翌日に漁に出かけた海人が人影もない海で舟を漕ぐ音やハーレーのかけ声を聞いたそうだ。それは賑やかなものだったそう。だから糸満の海人はグソーバーレーを邪魔しないように海には出ずに、陸で静かに休むさ」

 「ふーん、そうねー。なら、もしかして龍太はハーレーの天才だからグソーの人達にスカウトされて、今頃あっちのハーレーでクンヌカセーをやっているかもしれんね」とクラスメイトが茶化すと「馬鹿、そんな縁起でもないことを言うもんじゃない」と担任が男子生徒を怒る。


 白く大きな入道雲が太陽を向こう側に隠しているから直射日光は眩しくない。けれど、空が青くて、海面が同じように青く透き通っているから、自分は青い透明な宇宙の無重力空間に浮いているんじゃないかなんてことを龍太は思ったりする。考えることはそんなことしかない。そして10分程何も考えずに、ぷかぷか海に浮かんでいたら入道雲の形がぐにゅっと潰れて太陽が半分程姿を見せた。海面に仰向けで浮かぶ龍太に直接日差しが届く。龍太のまわりの海面がキラキラと直射日光を反射する。肌を焼く太陽の熱。皮膚が焦げていくのを感じる。鼻の上が痒くなって掻いたら日焼けした皮膚の古い角質がボロボロと零れ落ち、その下から柔らかくて白い肌が出てきた。

 龍太は気持ちよく晴れた日は室内でじっと勉強することに耐えられなくなるため、学校をさぼって海に来る。糸満のリゾートホテルがある埋め立て地の防波堤の上に制服を脱ぎ、トランクス一枚になって海に向かって飛び込む。沖に向かって泳いでは疲れたところで浮力を使って休む。体を海に預けるようにして大の字になって。海から戻ると濡れたトランクスを雑巾絞りし、ノーパンで制服を着る。そしてバスケットボールを指の上で回すような要領で人差し指にパンツをかけて回しながら乾かして家に帰る。

 海に身をまかせて浮いていると、波の音が誰かが話している声に聞こえたり、誰かが動いているように感じたりする。那覇空港に向けて着陸態勢に入った糸満上空を飛ぶ飛行機のエンジン音が何かの歓声のように聞こえたりする瞬間がある。だけどきっと気のせいだろうと龍太は思う。透き通る空と海の青さの間で溶けてしまう感覚を味わいながら龍太は目を閉じる。海の上で昼寝する。そして昔の夢を見る。


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