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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

結婚まで何マイル?



 1/.


 かぐわしい匂いで、目が覚めた。

「ん……っ、くぅ」

 それが何の匂いなのか考える暇もなく、私の頭を鈍器で殴られたような痛みが襲う。思わず顔をしかめて、ベッドの中で丸まるようにして頭を押さえた。

 完っ全に二日酔い。いや、ひょっとしたら三日酔いかも。

「あっ……たま、いたぁ……」

 原因は分かってる。昨日、教授との飲みにしこたま付き合わされたからだ。卒業論文に関する質疑応答を肴に4軒もはしごすれば、無理もない話である。

 まだ半分眠っている頭に、徐々にエンジンをかけていく。よし、現状認識といこうか。

 私、海道由利かいどう・ゆり。このマンションから5分の大学に通う、花の女子大生――を、卒業しかけの4年生だ。現在、就活を無事に終えて卒業論文を執筆中。教授にダメ出しをされては飲み屋に拉致される22歳。昨晩解放されたのが3時半で、呑んだ量は――えぇと、いっぱい。

 思わず頭を抱えた――今日がゼミ休みの日で本当に良かった。これは今日いっぱい家でゆっくりしてないと明日から動けそうにない。

 ちゅんちゅんと外では雀が忙しく鳴いていた。台所からはとんとんと何かを刻む音。それに混ざって、いい匂いが鼻をくすぐる。多分、味噌汁の匂い。

 味噌汁の匂いで起きる朝は幸せだ。何故ならばそれは自分のために食事を作ってくれる誰かがいるという事であり、自分が孤独でない証であるからして――

「……んん?」

 そこまで考え、私は首を捻った。何だか重要なことを見落としている気がしたのだ。けれどその重要な何かに気づく前に、がちゃりと寝室のドアが開いて一人の女性が顔を覗かせた。

「あっ、由利さん。おはようございますっ」

 愛らしい笑みだった。腰まで垂らした髪をシュシュで束ね、ピンクのエプロンに身を包んだ様は、まるで亭主を起こしに来た新妻といった感じで。

「朝食、ちょうど準備できたところですよ。ふふ、今日のは自信作です」

「ん、あぁ……」

「朝は和食が良いんですよね?」

「うん……ん」

 女性と一言二言会話を交わすうち、だんだんと頭が冴えてきた。私はこの女性を知っている。それも、とてもよく。

 うん、なるほど。……なるほどなぁ。

 納得と同時に、芋づる式にとでも言おうか、違和感の正体もはっきりした。何だか頭痛が酷くなってきたような気がして、私は頭を押さえる。

 そんな私の心情など知る由もなく、彼女は中へと足を進めるとカーテンを開けた。

 爽やかな日差しが部屋へ差し込む。見事な快晴、清清しい青空。――けれども何だか、今日も一波乱起きそうな予感。

「今日はとってもいい天気ですよ! 雲ひとつなくって、空がとっても高くって、絶好のお洗濯日和って感じで」

 だから、と。

 前置いて、彼女は振り返った。肩まで垂らしたポニーテールがふわりと揺れる。

 そのまま彼女は微笑んで、まるで夢見る乙女の風情で言った。

「結婚しましょう、由利さんっ」

 ――彼女の名前は、崎守葵さきもり・あおい

 私の大学の一年後輩で、ついでにルームメイトでも何でもない子で。

 あまつさえ私の記憶が正しければ、これが今年に入って65回目の求婚だった。



 今日の朝食は、葵の言った通り純和食だった。鮭の塩焼きとシジミの味噌汁、ごはんと出汁巻きと浅漬けが少し。

 朝一番に放たれた妄言をいつも通り受け流してリビングのテーブルにつくと、私は朝食をいただく事にした。

「……」

「~~~♪」

 目の前には葵。向かい合う形で座る彼女の前に朝食はない。曰く、軽く食べてきたから平気らしいのだけど、食べる代わりに私の顔をじっと見つめるのはやめてほしい。

 それも、えらく上機嫌なのだ。何だか鼻歌でも歌いそうな感じ。料理を作るのが好きな人間は人が食べるところを見るのも含めて好きだというけれど、葵もその類だろうか。

「美味しいですか?」

「えぇ。この出汁巻き卵とか、私の好きな味だわ」

「じゃぁ結婚」

「しないわよ」

 葵の言葉をぴしゃりと切って、味噌汁を静かにすする。

 ――あ、このシジミの味噌汁、美味しい。

 アルコールでしこたま病んだ肝臓を癒してくれるような優しい味だ。塩味は控えめだけど、出汁がちゃんと効いてる。砂抜きがきちんとできているから、ジャリッとしてしまっていやな気分になることもない。

 そこまで考え、私は味とは別のところで渋面になった。……いや、いやいや。きちんとできていたらおかしい。シジミの砂抜きなんて、冬場だと4、5時間はかかる代物だ。そんな時間から仕込んできたのか。もしかして、この部屋にいたのか。

 そもそも、だ。

「……ねぇ、葵。そもそもあなた、どうやってこの部屋に入ったの?」

 昨日は泥酔して帰ったけど確かに鍵はしたはずだし、大家さんだって親族でもないこの子のために鍵を開けたりはしないだろう。

「あ、はい。合鍵持ってますから、私」

「……渡した覚え、ないんだけど?」

「この間一緒に飲んだ時に、由利さん先につぶれて寝ちゃったでしょう? その間に、鍵の型をちょこちょこっと」

「…………」

 ドン引きよ、私。

 空き巣だと思っていた犯人がストーカーだった時の気持ちを考えてもらえばいい。思わず背筋がゾッとするでしょう? いや、この子がストーカーじみてるなんてずっと前から分かっていたことだけど、改めて突き付けられると精神的に辛いものがある。

「由利さんが結婚してくれれば公認になりますから、些細なことですよっ」

「いや、結婚しないから。全然些細じゃないから。明るく言っても無駄だから」

 葵の妄想を軽く受け流し、私は鮭の塩焼きを摘む。このスルースキルが教授相手にも発揮できないだろうか、なんて思いながら。

 ――そう、結婚。

 葵は事あるごとに私に求婚する。アパートだろうがキャンパス内だろうが公道だろうが、お構いなしに。

『今日はいいお天気ですねっ!』

『私、占いによると今の姓が縁起が悪いみたいなんです!』

『由利さん最近人恋しくないですか? 奇遇ですね、私もなんです!』

 だから、つまり、それゆえに。

「結婚しましょう、って……そう言うけどね? 私もあなたも女同士じゃない。その情熱は男性に向けるべきだと思うんだけど」

「由利さん、その考えは古いですよ? 今はパートナーシップ条例で同性同士の事実婚が認められてますし、ips細胞を使えば子どもだってできる時代ですから。何も問題ありません!」

 それはもちろん、互いの同意があれば、の話だ――という言葉を、危ういところで飲み込んだ。言ってしまえば、じゃぁ同意してくださいということになる。結婚しましょう、へと一直線だ。

「それに……男の人は、怖いですから」

「……」

 その言葉に、思わず箸が止まった。

 葵が私にべったりなのは、それなりに訳がある。あれは一年ほど前の話だ。当時ゼミの後輩だった葵から、担当教授からセクハラを受けていると相談を受けた。

 とはいえ、そんなに露骨なものでもない。よく個人向けのメールが来て、食事に誘われるといった類のものだ。けれど教授が父親ほど年齢の離れた男であり、愛を囁くような内容で、断ると留年をほのめかされるような悪質なものだと話は別になる。

 あの時は大変だった。本人に抗議をしても効果がなかったから、わざわざ学長に直談判をしに行ったんだっけ。

 結局ちょっとしたニュースになって、学長は記者会見で頭を下げ、教授は免職となった。葵はと言えば担当教授が変わって講義に出られるようになり、私にえらい感謝していたのを覚えている。

『私っ……私、この事は忘れません! きっと恩返しをします!』

 いや、恩返して。助けてあげた鶴じゃあるまいし。そうは思ったのだけど、その日から葵はやたらと私の世話を焼くようになった。講義の合間に弁当を持って来たり、酔っぱらった私を迎えに来たり。

 そんなにしてくれなくてもいいよ、奥さんじゃないんだから――いつかそう言った。けれど葵は首を振り、大真面目にこう返したのだった。

『いいえ、由利さん。私、由利さんの奥さんになりたいんです』

 だから、結婚しましょう――と。後の常套句になるプロポーズの言葉を。

 とはいえ。大筋において納得できる、というだけで葵の行動は謎ばかりだ。一番分からないのは、その原動力。何が彼女を、そうまでして結婚させたがるのか。

「ねぇ、葵。あなた、私なんかのどこがいいの?」

 ずぼらだし、成績も並だし、不美人ではないけど顔もスタイルも良いというほどでもない。酒は好めど大抵潰れる、残念なタイプの酒飲みだ。

 対して、葵は傍から見ても美人と言って差し支えない。足はすらっとしていて長いし、細いけど出る所は出ている。誰にだって愛嬌を振りまくし、学内の人気だって悪くないのだ。

 私にお熱でなければ――その事実が周知でなければ、とっくに彼氏の一人や二人作っていただろう。あんなに連呼している結婚だって、不可能な話ではない。

 それもこれも、『相手が女』という前提のせいで無意味な仮定となってしまっているけれども。

 私の問いに、葵はきょとんとした顔で小首を傾げた。――こういう仕草が嫌味にならないのは、天性の素質だと思う。

「好きな所ですか? 全部ですけど?」

「いや、そういうのいいから。私は納得できる答えがほしいの」

「そうですねぇ……」

 んー、と目を瞑ってうなる。そのハミングのような響きは、『答えは決まっているけれども何と言ったものか迷っている』時のものだ。

 ややあって、葵は目を開けた。にやりと笑い、我が意を得たりとでも言わんばかりに、何故か若干ドヤ顔で。

「結婚してくれたら教えてあげます」

「――てい」

「あいたぁっ」

 そのまま箸を伸ばし、鼻を摘んでやった。何だそれ、本末転倒も良い所じゃない。

「愛は理屈じゃないんですよぅっ」

「はいはい、そうかもね。確かにあなた、全部本能で動いてる気がするし」

 何だか気が抜けてしまう。理屈じゃない、確かにその通り。なら、私が葵を理解しようとしても無駄ということだ。

「ごちそうさま。葵、あなた確か、一限目入ってたでしょう? 早く帰りなさい。刑法の大西教授、遅刻にはうるさいわよ」

「あ、はい。それじゃ、そろそろお暇しますね」

 葵はハンドバックを持って立ち上がった。そのまま帰るのかと思いきや、ドアに手を掛けた所で私の方を振り返る。

「部屋の隅に固めてあったプラスチック容器、ゴミの日だったので捨てておきました。コンビニ弁当ばっかりじゃ駄目ですよ? 冷蔵庫に作ってきた肉じゃが入れておきましたから、お昼はそれをチンして食べてくださいね?」

 いつの間に――というのは、聞くだけ野暮だ。

「あ、ありがとう」

「いえ、大したことじゃありません」

 葵は微笑を浮かべる。――あぁ、何も知らなければ天使の笑みだろうに、私はもうこの子の笑顔を純粋な目では見れない。

「私――いつか由利さんを、私なしにはいられないようにしてみせますから」

 そんな物騒な、犯罪予告めいた宣言を残し、ドアが閉まった。

「………………はぁ」

 私はと言えば、嵐が過ぎ去った部屋で溜息をつくしかない。良い子だとは思うし、尽くしてもらってる事には感謝もしているけれど、素直に喜べないのは何故だろう。

「だいたい、結婚結婚っていうけど……その前にお付き合いから始めるって言う選択肢はないのかしら」

 いや、だからといって付き合ったりもしないけれども。

 私は立ち上がり、食べ終わった食器を台所に持っていく。そのついでに何となく思い立って、冷蔵庫に入れてあるという肉じゃがを一口だけ摘んでみた。

「……美味しい」

 しっかり味が染みてて、冷めていても特に気にならない味になってる。じゃがいもに男爵じゃなくメークインを使っている辺り、煮崩れがなくて実に私好みだ。どうしてこう、あの子はそういう所で小技を効かせてくるのか。

「うーん、いかんいかん」

 いよいよ気を引き締める必要がありそうだ。しっかりしなさいよ、海道由利。

 あの子はさっき、自分なしにはいられないようにしてみせるといった。あれもまんざら冗談ではないのかもしれない。

 ――何せ。今こうしている間にも、胃袋は着々と掴まれつつあるのだから。



 2/.



 一事が万事、という言葉がある。

 私と葵の日常と言うのはつまり、大体においてこのようなものだった。顔を見合わせれば求婚、とりあえず求婚。違いといえば、日に日に微妙に増えていくバリエーションくらいのもので。

『結婚しましょう! 私に毎日お味噌汁作らせてください!』

 定番の逆パターンで攻めてみたり。

『結婚しよう! 何故ならば君を、愛しているから!』

 やたら芝居がかった動作でバラを投げてみたり。

『結婚ッ!』

 とりあえず叫んでみた模様。

 徐々にブーストがかかっていく葵の奇行をなだめすかしてごまかして、私の日々は過ぎていく。

 日常。うん、確かにそうだ。恐ろしいことに、私にとって論文を書いたり食事をしたり酒を飲むのと同じような比率で、この騒がしい闖入者への対処が日々のスケジュールとして機能していた。

 理由は幾つかある。一つは卒業要件単位を全て取得し終えて論文を書くだけの、ともすれば単調極まりない日々の中で、葵の存在が良いスパイスになっていたこと。

 もう一つは、葵が甲斐甲斐しく私の世話を焼いてくれるため、無下にできなくなってしまっていたこと。

 というか彼女の作る料理がべらぼうに美味しかったのだ。我ながらダメ人間だとは思うが仕方がない。人間の三つある欲求の内、一つを完全に満たしてくれるのだ。これを至福と呼ばずに何と呼ぼう。

 そんなこんなで、私のガードは日々順調に突き崩されていった。そんなに頻繁に来るなら、私も相応の対応をしなければ仁義にもとる。彼女用のクッションを買い、マグカップを買い、早朝に来て朝食の仕込みをするくらいなら泊って行った方が良いと寝具だとか歯ブラシなんかも常備して。

 ――あれ? 私、自分で外堀埋めて行ってない?

 そんな考えが頭をよぎって――いやいやと慌てて頭を振る。これはそう、仲が良い後輩への対応だ。お泊りくらい同性なら普通だし。むしろ意識してないっていう証拠だし。

 誰に聞かれるでもないのに心の中の陪審員に弁明をする。それでも――あぁ、このままじゃいけないな。これから気を付けようだとか。そんな楽観的に物を考えていた。

 そう、つまりは私は、ある意味において平和ボケしていたのだ。――このままじゃ、だとか。これから、だとか。今までの関係がこの先ずっと続くと漠然と思っていた。

 だから。そうでなくなる可能性なんて、全然頭の隅にもなくって。

 葵とのそれまでの関係が唐突に終わりを告げた時も――全く、対処することができなかったのだ。


 ――突然。

 葵が、私の家に来なくなった。


 それは町がクリスマスのイルミネーションを飾り始め、にわかにキャンパスも浮つき始めた頃だった。

「……?」

 その日の朝起きた私は、味噌汁の匂いがしないことに気付いた。

 不思議に思った私は、その後10分かけて『自分で用意していないから』という、当たり前といえば当たり前過ぎる結論に達した。つまりその日、葵は来なかったのだ。珍しいこともあるものだと思いながら、その日は長い間使われなかった備蓄のカップ麺を久々に開けて朝食を取った。

 次の日も、そのまた次の日も葵は来なかった。――おかしい、と思い始めた。メールを送れど電話をかけれど反応はなく、すわ病気で倒れたかと気をもみ始めた。

 葵が来なくなって4日経った。週の半分も訪れないというのは、ここ1年間のデータからすると由々しき事態だった。

「崎守さんですか? 何か、実家に戻るって言ってましたけど……」

 大学で、葵の友人からそういう話を聞いた。葵の実家――確か、横浜のどこかって言ってたか。

 疑問の一部は解消した。けれど、それでもやっぱり引っかかる。あんなに甲斐甲斐しく私の世話を焼いていた葵が、連絡の一つも寄越さないなんて。

 私への熱が冷めたのか、ようやく女同士で結婚などありえないと悟ったのか――それなら良い。私が口を酸っぱくして諭し続けた甲斐があったというものだ。でも……あそこまで通い詰めて求婚し続けるという熱量が急に冷めるなんてことが、有りうるのだろうか?

 そこまで考えて、私は頭を抱える。ダメだ、さっぱり分からない。あの子が何を考えて、どんな行動をとっているのかなんて。

 結局の所、私は葵の事を何も知らないし、何も知ろうとしてこなかったのだ。だから私の呟きも、泣き言のような響きを帯びていく。口を開けば、お決まりの言葉が漏れ出してきて。

「ねぇ、葵……あなた、私なんかのどこが良いのよ」

 酒を煽ってそんな事をぼやいても、誰も答える相手はいない。

 久しぶりのコンビニ弁当は、何だかものすごく味気ない感じがした。



 そんな日が、何日か続いた。

 論文は一向に進まず、酒の量ばかりが増えていった。葵は一向に私の部屋に現われず、どうやら講義も欠席し続けているようだった。

 部屋にはコンビニ弁当の容器とカップ麺のカップが山積し、その横には缶チューハイとワンカップが積まれていく。それでも咎める者はいないから、やりたい放題になった。

 部屋が広い。台所が遠い。暖房をつけても、どこか寒々しさがぬぐい去れない。

 ……あぁ、そうだ。そろそろ認めざるを得ない。

 葵がいつだったか、自分なしにはいられないようにするといった。これがその計略の一部なら、見事と言うしかない。

 私は葵がいないとダメだ。

 正直言うと、部屋に押しかけられてたあの日々も嫌いじゃなかった。

 私なんかのどこがいいんだなんて。呟いただけで、結構幸せだった。

 ――だから。そろそろ、行動に移さなきゃいけない。

「論文の提出、3日ほど待ってください。やらなきゃいけないことができました。詳細は言えませんけど取り下げる気もありません。じゃないと、一生後悔するので」

 次の日朝一番に教授に頭を下げ、3日の猶予を勝ち取った私は、その足で長距離バスセンターへと向かった。

 行先は横浜。

 彼女が帰ったのだという、葵の実家へ向かうために。



 /3.


 

 堅い座席に辟易しながら、揺られること5時間。

 途中、サービスエリアで15分の休憩。さらに眠れないことに悶々としながら過ごすこと7時間。

 なぜ私は飛行機を使わなかったのかと後悔に身を切り刻まれる頃には、すっかり外には夜の帳が下りきっていた。

「……寒っ」

 私の住む町からだいぶ北上した為か、バスを降りた途端に切りつけるような夜気が私を襲う。思わずコートの襟元を合わせた――12月だからと、厚着をしてきて良かった。

 これでひとまず目的地に着いた。とはいえ、これからが大変だ。学生課に問い合わせても、防犯上の問題で正確な住所までは教えてもらえなかった。この広い横浜の中から、どうやって葵を見つけ出すか。

 それでも、やるしかないのだ。今日はもう遅いから宿を取るとして、残された期限は2日しかない。幸いにして崎守というのはありふれた名字ではないから、虱潰しでも何でもして葵を探し出さなくては。

 そう、静かに決意を固めて――

「――由利、さん?」

 固めた、のだけど。

 その瞬間、後ろから声をかけられた。

 振り返れば、そこには一人の女性が驚愕に目を丸くして立っている。……きっと私も同じような顔をしていたに違いない。

 私はその女性をよく知っていた。

 そりゃあ……ねぇ。確かにもこもこのダウンとイヤーマッフルで完全防備していたけれど。まさか探しに来た相手を間違えるはずも無い。

「由利さん? え? 何で? ど、どうしてここにいるんです?」

 それ、全部こっちのセリフなんだけど――

 よっぽどそう言いたかったけど口は動かなかった。長距離バスの疲れと不意打ちで目的を達成してしまった安堵感から、変な笑い声を上げてその場にへたりこんでしまったのだ。

 崎守葵 。

 彼女を探す旅は、こうしてあっけなく終わりを迎えたのだった。



「母が、脳梗塞で倒れたんです」

 葵は、そう言った。

 バスセンターでばったり再会してから、1時間くらい後の事になる。ようやく足腰が立った私はひとまずロッカーに荷物を全部預け、とにかく葵から話を聞こうということになった。

 今は、せっかくだから赤レンガ倉庫まで歩きませんかと言う葵の隣を、土地勘のない私は少し後ろから歩いている。

「突然の事で、私も気が動転してしまって。取るものも取り合えず、横浜に戻りました。……すみません、連絡もなしで」

 聞くところによると、慌てて帰ったために携帯も家に忘れてきてしまったという。――とりあえず、連絡も無視されていたのでなくて心底ほっとした。私も案外小心者らしい

「いや、それは良いんだけど……お母様は、大丈夫なの?」

 寒さに耐えかねて自販機で買った缶コーヒーを手の中で転がしながら、私は尋ねる。

 クリスマスを間近に控えた横浜の街は、どこもかしこも綺麗にライトアップされていた。色とりどりの灯りの中を、葵の吐く息が白く溶ける。その弾み方を見るに、悪い報告ではないんだろう。

「はい、おかげさまで。手術も無事に終わって、検査によると後遺症も無かったみたいです。早いうちに病院に運ばれたのが良かったんだろうって」

「そうね。……本当に、良かった」

 つまりは、そこまで見届けたから大学に帰って来ようとしたのだろう。その途中で、ちょうど横浜に来ていた私とばったり鉢合わせただなんて。

 ……まったく、何て偶然だろう。私は運命だとかは信じない主義だけど、それでもものすごい偶然が起こればテンションは上がる。それを運命だとか呼びたくなる気持ちも、分からないではない。

「でも、本当びっくりしました。まさか由利さんが、横浜まで来てくれるなんて」

 ――えぇ、えぇそうでしょうとも。何より私が一番驚いているくらいなんだから。

 葵は後ろ手に指を組んで、こちらを振り向いた。まるで子供の様に無邪気な笑み。

「私に……会いに来てくれたんですよね?」

 あぁ、なんて幸せそうに笑うんだろう。そんな顔を見せられたら、こっちは気恥ずかしくなって思わず顔を背けてしまう。

「さぁ。どうだったかしら」

「えぇー!? ここまで来てそれはないですよ由利さんっ!」

「うるさいわね……ってちょっと近い顔近いっ」

 まとわりついてくる葵を引きはがしながら、女二人で歩いていく。周りからすれば姦しいことこの上ないのだろうけど、何だかちょっとした安心感もあって。

 うん。

 やっと、だ。

 やっとずれていた歯車が噛み合ったような、そんな感覚がした。こんな下らないものでも、私の大切な日常の一部で、それが今戻ってきたのだと思った。

 初め距離があった二人の位置も、いつの間にか横並びになっていた。腕だとか肩だとか、擦れ合うくらいに近い。

 何だか葵の手を衝動的に握りしめたくなる気持ちを抑え、それから少し歩き、歩いて。

「わぁ……」

 そして私たちは、そこについた。

 それはまるで光の運河だった。中央広場に等間隔に植えられたモミの木には明かりが灯され、中央の一番大きなクリスマスツリーまでの道が作られている。柔らかいオレンジの光が両脇の倉庫を照らし、一種日本離れした雰囲気を漂わせていて。

 本当のことを言えば、横浜には今まで何度か来たことがあったし、赤レンガ倉庫に来たのも初めてではない。けれどもこの時期に来たのは初めてで、ここまでだとは思っていなくて、その、なんというか。

「……すごい」

 我ながら小学生並の感想だとは思ったけど、そうとしか言えなかった。

 気づけば、周りにも私たちのようなカップルが何組か、遠巻きにツリーを眺めている。辺りが静かなのは、皆一様に言葉が出ないからだろう。女同士で来てるのは私たちだけのようだけど、それはもう構わない。

 きっと。

 寒い日に暖炉の前に集まるように、こんな日は温かな光が恋しくなるのだろう。大切な誰かと、この気持ちを共有したくなるんだろう。

「ここ、とっておきなんですよ」

 葵の手が、私の指を握る。どこか控えめに、いつも積極的な彼女にすれば意外なくらいに。

「……ガイドブックに載るくらいメジャーですから、私だけのって訳じゃないのは申し訳ないですけど」

 そう言って、はにかむように微苦笑する。私は静かに首を振った。

「ううん、とっても綺麗。私、こんな綺麗なの初めて見たかも。……今こうしてるだけで、ここに来て良かったって思う」

 だから。

 つまり、それゆえに。

 その言葉はごく自然に、私の喉から滑り落ちた。


「結婚しましょう、葵」


「……え?」

 一瞬――葵の口が、ぽかんと開いて。

「え? え、えぇっ?」

 次の瞬間目に見えてあたふたし始めた。握っている手がじわっと汗で滲み始める。もっとも、それでも手は離してやらない。

 よし、ファーストインパクトは上々だ。やってやった――不意打ちされ続けてきた私からの、ささやかな復讐というやつだ。

「多分私、あなたがいないとダメだと思うのよ。毎日私の味噌汁作ってちょうだい」

「えっ、あっ、で、でもっ」

「将来的にはパートナーシップ条例のある渋谷区に住みましょう。子供もips細胞で作るから問題ないわ」

「あ、あぅ、あぅ」

「今はお金がないから悪いんだけど、来年度になって働き始めたらきっと給料三か月分の結婚指輪を贈るから」

「うぅ……」

 顔中真っ赤になって俯いてしまう。これもきっとツリーの照明のせいではないんだろう。下を向いていても耳まで赤くなっていて、そんな所が何とも言えず可愛い。

 少しからかいすぎたかな、と反省する。いや、からかうというのも語弊があるか。ちょっと嗜虐心を出しただけで、私はこれで有言実行の女だから。

 私は赤くなった耳元に唇を寄せ、そっと囁いた。

「全部、本気だから」

「~~~~~っ!!」

 声にならない叫びを上げ、葵がばっと顔を上げる。慌てて頭を引っ込めた――危ない、あやうく衝突事故になるところだった。

 葵は何故か涙目だった。あぁ、彼女は攻めているときは良いけど攻められるとてんでダメなタイプなのだな――そう分析している所に震える指先が突きつけられる。

「い、い、いつからですか?」

「……いつからって、何が」

「私の事を、す、す……好きになったのって。だって、私がアプローチをかけてる時も全然なびいてくれなくてっ」

 あぁ、確かに。言われてみれば、これはなかなかの難問だ。

 引き金になったのは、やっぱり彼女が私の部屋に来なくなった事だろう。けれども、今にして思えばその前から彼女に惹かれていた気がする。気がする、というかこれは多分確定事項だ。

 ……だって。嫌いな人を家になんて上げないし、ましてや合鍵を作られたことを放置なんてしないでしょう?

 それでも明確に『いつから』だなんて分からないし、分かったとしても説明するだけ陳腐になる気がした。……あぁそうか、『私のどこがそんなに好きなんだ』と私に聞かれた葵も、きっとこんな気持ちだったに違いない。

 だったら、それに対する答えは決まっている。

「じゃぁ、結婚してくれたら教えてあげる」

 そう言って、葵の肩を抱き寄せた。

 向き直った葵の瞳は熱く潤んでいた。こうしていると彼女の熱と一緒に、鼓動までも聞こえてきそう。

 期待。うん、きっとしてる。私も、彼女も。

「由利さん……こんなに人がいるのに」

「誰も見てやしないわよ。……それで? どうするの?」

「どうするって……」

「結婚。してくれる?」

 問いはするけど、答えはきっと決まっている。だから大事なのはタイミングと、少しの勇気。

 一瞬、葵の目が泳いだ。やがて決心をしたように目を瞑る。私との距離は、もう僅か程しかない。葵は私の首に腕を回し、そっと背を伸ばした。

 音が遠くなる。世界が遠くなる。私の感覚が、たった一人の女の子しか捉えられなくなる。

 そして。

 二人の距離が、ゼロになって――




 <了>


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