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異世界ヒーロー  作者: 羽崎
希露姫編
14/18

13 名前

「早速だが、三日後にやってもらいたいことがある。それまでにその体休めておけ」


  こちらを僅かに一瞥した後、ウウェルドは部屋から誰の断りを得ることもなく立ち去った。それを見届けた後、頭痛のようなものから立ち直ったのか、エゼリゲルドがおもむろに口を開く。


「そーゆーわけだ。傷の兄ちゃん。色々知りたいことはあるだろうが、まずは寝な。こっちもしなきゃならんこともあるし。なに、後で軽いもんも食わしてやるから、それまで休んでろ」


  エゼリゲルドの言葉に黙って頷く。休める時に休んでおく。これは無駄に長い祟られ人生での鉄則だ。無駄な無理は無意味どころかマイナスにしかならないから。それに日本でもそうだったが、休んでおけと言っておきながら、十分も経たないうちに「やっぱ手伝って」などと言うことはよくある。寝れる時に寝ておこう。幸い、ベッドで寝かせてもらえるみたいだし。まぁ、その代償を考えるとゾッとしない訳でもないが。


  ウーリーと呼ばれた赤髪の美人に拘束されていた手が解放され、首筋に当てられていた短剣も鞘に戻された。無駄のない動作だ。隙もない。無駄に長い祟られ人生のおかげで、戦闘経験などは尋常なほどあるのだ。その恩恵とでも言うのか、対人の強さの見極めは結構正確に出来るようになった。

  で、彼女は俺より強い。これは確実だ。短剣の扱いに気負いがなく、慣れていることがよく分かる。こちらは祟られ人生で豊富な実戦経験を積んでいるとは言え、祟りと言う最強のマイナス補正がかけられている。全快した状態であっても、彼女と正面からやりあったら負けそうだ。それに、彼女と殺り合うような事態になれば、エゼリゲルドもジーダも彼女に加勢するだろうから、こちらの必敗は目に見えている。


  出来ればそんな事態には陥りたくはないが、彼らの正体も目的も分からないことだらけだ。手当や看病をされたことから、今のところ敵対することはないだろうが、可能性がないとは言い切れない。が、何とかしていくしかない。それに、三日後には何かしらやらされることも確定している。ジル達の様な貴族に喧嘩を吹っ掛けたことと言い、分からないことだらけだが、今は休んでおくしかない。ウーリー達が部屋を出て行ったのを確認してから、瞼を閉じた。やはり疲労が溜まっていたのだろう。すぐに眠りについた。


 ※ ※ ※


「よぉ、兄ちゃん。起きな、飯だ」


  体を軽く揺られる感覚で目覚めれば、エゼリゲルドがいた。流石に希露姫は先程やり取りを交わしたため、夢に出てくるようなことはなかった。

  それにしても、俺が寝ている間に何があったかは知らないが、整えられていたはずのくすんだ金髪は出会った当初の様にボサボサになり、服も心なしかヨレて汚れているように見える。目覚めたのが確か昼頃で、窓から見える景色から察するに今はもう夕暮れ時だ。時間として3時間くらい寝たことになるのか。その3時間で何があったのやら。

  ベッドで眠ったおかげか、死にかけた名残のダルさは残るものの、熱っぽさは感じない。何度か瞬きをし、寝ぼけた頭を覚醒させる。上体を起こしながら部屋を見渡せば、ベッドの側に立てかけてあった「薄翅」が見当たらないことに気き、驚愕した。眠気も一気に覚めると言うものだ。「薄翅」は呪いを帯びた大太刀であるため、俺が手離すことも、他人が取り上げることも本来不可能な代物である筈。事実、今までの祟られ人生でこんなこと一度もなかった。


  どういうことだ? これも、天界でのメンテナンスの影響なのか?


  もしこの場に誰も居なかったら、焦りと驚きで確実にテンパっていたことだろう。しかし、幸か不幸かエゼリゲルドがいるのでまだ冷静さを保てる。フリをしないといけない、と言う使命感が俺の頭を幾分か冷やしてくれた。

  突然の事態に思わず顔が険しくなるが、こればかりは仕方ない。顔を顰めながらも、この事態について思考を巡らす。もし「薄翅」が今回のメンテナンスの影響で、俺以外の人間にも見えるようになり、更には持ち出すことも可能になったと言うのなら大問題だからだ。今までは盗難などの心配はなかったが、これからはそれを見越して行動しなければならない。何せ「薄翅」は装飾はないものの、刀身や柄、鞘と言った基本の造りがかなり良いため、売ればそこそこの値段になる。流石に遊んで暮らすほどの大金にはならないが、臨時収入としては十分な額にはなるだろう。


  うん。確実に盗まれる。


  盗難対策が最優先課題だ。「薄翅」なくして祟り解放は不可能だからな。って、そんなこと呑気に考えている場合ではない。どこいったんだ、俺の呪われた相棒は。まさか売り払われたのか? だとしたら、一刻も早く取り戻さないと。くそ、祟りだけでもお腹いっぱいだと言うのに、これ以上要らん苦労を背負い込むのは御免だ。


「いつまで そこ(ベッド)に居る気だ? ほれ、とっとと着いて来な」


  俺の事情なぞ知る筈もないエゼリゲルドは、なかなかベッドから動こうとしない俺に不審そうな表情を向けながら手招きした。ここで「薄翅」の所在について追求したいところだが、どうやらそうはさせてもらえないようだ。俺は仕方なしに招かれるまま、部屋を後にした。



  俺が運ばれた場所は、二階の奥まった方にある部屋だった。二階には他にも何部屋かあったが、ドアノブなどに薄っすらと溜まった埃の状態からあまり出入りしていないことが窺える。引っ越したばかりなのだろうか? それとも、久々にここに戻って来たのだろうか。はたまた、それ以外の理由か。どちらにせよ、あそこには「薄翅」は置かれていないだろう。全く。どこに待って行かれたのやら。

  溜め息をつきそうになるのを堪えながら、人一人がやっと通れそうな狭い、急な階段を降り、案内された一室へと足を踏み入れる。すると、すぐに食卓に盛られたスープや香ばしいパンの香りが鼻腔に広がった。中は六畳程の広さで、そこに大小様々な木箱が積み上げられ、その隙間に台所と四人掛けのテーブルが辛うじて配置されているような具合だ。少々狭苦しいが、テーブルに座る余裕はあるし、埃や塵などは綺麗に掃除されていたため、ゴミにまみれて食事をするようなことは無さそうで安心した。まぁ、例えそうなっても別段構わないが。奴隷おれの食事の中にゴミが混じるなんてこと、キルチアではよくあることだし。


「おいおい。今日もリルケのスープかよ? いい加減他の具材にしてくれねーか? こんだけ続けば飽きちまう」


  近場の席に腰掛けながら、エゼリゲルドはげんなりとした様子でスープの入った木皿を突つく。それに対してジーダは苦笑し、ウーリーはジロリとエゼリゲルドを一瞥した。ちなみに、リルケと言うのは干して細切りにした桃色兎のもも肉のことだ。日本で言えば、油揚げや豆腐的ポジションになるかな?


「文句があるのなら食べなくとも構わないのだけど?」


  ウーリーがそう告げれば、エゼリゲルドは大仰に肩をすくめて溜め息をつく。


「誰が食わないなんて言った? 具材の希望くらい好きに言わせろよ。別に食費に困っているわけじゃねーんだし」


「スープにはリルケが入るものよ。それが嫌なら自分で作れば?」


  にべもなく言い放ち、冷めた目で睨みつけるウーリー。その強気な言動も様になるほど美しい。馬車で見た、ジル達のような手入れの行き届いた美しさではなく、肉食獣を思わせる、苛烈さを内包した美しさ。それが彼女の、ウーリーの美しさだ。

  肌もよくよく見れば日に焼けた後や傷などが無数にあるが、それを差し引いても白く、燃えるような赤毛や、それよりも一層深い色合いをした深紅の瞳がよく映える。顔の作りも整っており、プロポーションも肉付きが良く、申し分ない。さぞかし巷の男どもを虜にしたことだろう。


「へぇ? 誰かさんのせいでクソみてぇに忙しいって言うのに、更に仕事しろってか?

  いやいや。泣けるほどありがたい話じゃねーか。誰かさんのやらかした初歩的なヘマのせいでこっちは根を詰めて働いているってーのによ。全く。俺は随分と仲間想いの奴と出会えた様だな?」


  苛立ちを笑みで隠し、ニヤニヤと軽薄そうな表情を浮かべ、エゼリゲルドは視線をウーリーへと送る。その目は笑っておらず、言外に相手を小馬鹿にしていることが容易に窺える。


「こっちはまともに飯も食えない状態で仕事してたんだ。飯くらい楽しみにして何が悪い? 仕事の殆どが誰も代わりを務められねーしなぁ。

  まぁ、任せた仕事も出来ない上に気も利かない誰かさんと違って、新入りが色々と手伝ってくれたり差し入れをしてくれたおかげでまだマシではあったけどな。新入りも誰かさんのせいで仕事が増えたって言うのに、愚痴一つ言わないで、なぁ?」


  切れ目がちの灰色の瞳を更に細めながら、わざとらしく告げれば、ウーリーが不快そうに眉をひそめる。しかし、言い返す言葉がないのか歯を食いしばるばかり。その様子を見て、エゼリゲルドは多少溜飲を下げたのか、ますます笑みを深めながら湯気の立つ食事に手をつけ始めた。


「まぁまぁ、二人共そこら辺にしませんか? ほら、彼も居ますし。ウーリーさんも折角の料理が冷める前に食べましょう?」


  そんな二人のやり取りに、ジーダが俺をダシに止めに入る。ついでに座る気配を見せなかった俺に配慮して、空いている席に座らせてくれた。何やら慣れたタイミングだ。この二人、まさか食事の度にこんなやり取りを交わしているんじゃないだろうな?


「それもそうね。ベルタ。食事がてらあなたの今後について話しておくからよく聞きなさい」


  ん? ベルタってもしかしなくても、俺のことか?


「あなたのことよ、ベルタ。五十六号じゃ味気ないから、あたしがつけたの」


  やはり、俺のことらしい。肩を隠すくらいある、癖の強い赤毛を軽くかきあげながら、さも当然とばかりに告げてくる。更には文句は受け付けない、と無言で示す。元から文句などを言う気はないが、そのような態度を取られるのはこちらの設定せいかく上、かなり反抗心を唆る。ので、俺は気に食わないと視線だけでウーリーに不服の意を示す。名前なんて正直どうでも良いが、キャラ設定のため、不利益を被るのは火を見るより明らかだが敢行する。それを見て、ウーリーは冷たい視線を投げてよこす。


「あなた、自分の立場を忘れたの? あなたは漂流者で、しかも生粋の奴隷。おまけに非合法な商会で生まれ育っている上、買い手のことも何一つ知らないから、引き取り手もいない。解放手続きさえ果たしていないし、宛もない。言っておくけど、冒険者ギルドでもあんたみたいな奴、今じゃそうそう受け入れてくれないわよ? 奴隷解放機関エージ・ラドーマにしても、難しいでしょうし。


  処分する予定だったけど、使い道がありそうだから生かしただけ。それを分かって尚、あなたは私達と生きることを選んだ筈よ。


 それとも何? 人間として名前で呼ばれるより、道具らしく番号で呼ばれたいわけ?」


  設定せいかく的に敵意を抱かせるには十分過ぎる言葉をかけられ、俺は憎々しげに奥歯を噛みしめる。勿論フリでしかないが。と言うか冒険者ギルドでも受け入れてもらえないのかよ。そっちの方が驚きだ。懐古主義とかの影響なのか? でも、農村のおっちゃんの話では俺みたいな奴隷の漂流者でもいけるって言ってたのにな。俺の読み取られた偽記憶に何か問題でもあったのだろうか? うーむ。わからん。


  そんな困惑をおくびにも出さずに、怒気を込めてウーリーを睨むが、そんな視線など意に介さんと言わんばかりに彼女も食事に手をつけ始めた。食事のマナーはあまり知らないのか、それともわざとなのか。パンを一口サイズにちぎらずに、そのまま口に運んでいる。実に豪快な食べっぷりだ。残りの男性陣はちぎって食べているのに。まぁ、エゼリゲルドも半分にした程度だから、豪快さではウーリーとさほど変わらないか。


「あなたの所有者は私。手続きも既に終わっているわ。だからどこへ逃げようと無駄よ。逃げる所があればの話だけど。

  今後は私の命令を第一に聞きなさい。

  でも、他のメンバー、この場にはエゼリゲルドとジーダしかいないけど、彼らの言うことも聞きなさい。メンバーは顔合わせの機会があればその時に紹介するわ」


  俺はウーリーを忌々しげに睨みつつも、了解の意を込めて軽く頷き、用意されていた食事に手をつけた。他の三人が切り分けたフランスパンに、リルケ(兎肉)入りのコンソメスープ、丸ごとの果実と言うメニューに対し、俺は細く刻まれた具の入った麦のお粥もどきのみ。俺だけ別メニューな事に関しては特に驚きはない。ウーリーが言っていた通り、解放手続きもしていない、非合法な商会で生まれ育った漂流奴隷だ。これくらいの扱いで妥当と言ったところだろう。むしろ、そんな俺に対して薬なり手当などを施した彼らが珍しいのだ。ハナから奴隷として購入したり拾った奴ならまだ分かる。農村ではそんなことは日常茶飯事だったから。だけど、彼らは明らかに違う。こちらの処分も視野に入れていたにも関わらず、治療などを施したのだ。いくら使い道が見込まれていたとは言え、意味が分からない。まぁ、それをこれから知っていかなければならないのだけど。


  とりあえず、情報が無さ過ぎて考えても仕方ない。今は食事が先だ。出されたものは、病み上がりの俺の胃腸に優しいメニューである。全快した後には少々物足りないメニューだろうが、奴隷(俺)の食事としては上等な部類に入るだろう。さて、味付けはどうなっていることやら。塩だけでも入っていれば嬉しいのだが。


  木匙で一口掬って口に入れれば、程よく塩気の効いた素朴な味わいが口内に広がる。

  これは思ったより上手い。思わず目を見開く。塩以外にも幾つか調味料が入っているし、細切れにされた具材からも旨味が出ていて美味しい。何より、腐ったものや虫と言ったものが入っていないのが嬉しい。農村ならともかく、町での奴隷の扱いはあまり良くないのが一般的だ。食事なんてすぐに手抜きをされる。

  食事関係では当たりを引いたかも。幸先が悪かっただけに、少し嬉しくなる。


「お口に合いますか、って、えぇ? もう食べたんですか?」


  平皿に盛られた分を素早くかき込んで空にしたら、ジーダが驚いた様に声を上げる。表情が食事で和らいだおかげか、俺と筆談でもして場の険悪気味な雰囲気を払拭しようとしたのだろう。用意していたらしいB5ノートサイズの大きさの黒板とチョークのセットを抱えたまま、マジマジと皿と俺を交互に見た。ウーリーとエゼリゲルドも少し驚いたような表情を浮かべてる。驚きを通り越して、呆れの域に行く少し手前くらいの表情だ。とりあえず、ジーダの目的は思わぬ形で実現された様だ。


  三人の反応に、俺は内心首を傾げる。


  奴隷や冒険者にとって、早食いは長所の一つだ。それが美味い飯ともなれば、尚更早く胃袋へと消えると言うもの。ちんたら食べていたら、取り分があっという間に無くなってしまう。お粥なら最早飲み物に等しい。

  それがこの世界での常識だと思っていたのだが、もしや変わったのだろうか?

  まぁ、前回の転生からかなり時間は経っているし、あり得ない話ではない。現に冒険者ギルドでも受け入れてもらえないらしいと言う話を聞いたばかりだ。

  少なくとも、この三人の様子を見る限り、驚きこそされているが、有用だとは思われていない様だ。奴隷時代や、解放手続き後冒険者ギルドで活動していた頃は使える奴だと判定されたのに。


  うーん。困ったな。目下行方不明な「薄翅」や薬代のこともあるし、有用性をアピールしておきたかったのに。


「あの、ベルタさん。そんなに早く食べたら消化に悪いですよ? もう少しゆっくり食べませんか? それじゃあ味も分からないでしょう?」


  黒板のセットを手渡しつつ、ジーダはそう進言してくる。苦笑気味なのは、呆れているからなのだろうか。とりあえず、返事くらいは書いておこう。


『もんだい ない。ちゃんと かんだ。うまかった』


  奴隷(俺)が書けてもおかしくはないであろう文章で答える。

  それを見て、ジーダは益々困惑の表情を深めつつ、どういたしまして、と苦笑気味に答えた。どうやらこの食事は彼が作ったらしい。何でも、読み込んだ俺の記憶から俺の食生活はかなり貧しく、胃腸などに厳しいものだったので、少しでも消化に優しい物を食べさせたかったとのこと。何という有難い言葉。でも、何の下心もないわけではないだろう。流石にそこまで甘いことは考えない。


「…なので、拠点など自前で食事を用意出来る場合は、しばらくの間僕らと別メニューになります。食事療法、あー、えっと、食事で体を良くしたり、治療したりするんです」


  お粥もどきのお代わりを貰いつつ、ジーダの解説に耳を傾ける。内容はゆっくり噛んで食事をすることが大切だとか、肉(俺の設定の場合、蟲の肉が殆どであったが)を食えばどうにかなるってものではない、などと言ったものだ。所々、奴隷では知ることのない単語などが出てくるので、首を傾げて分からないことを示せば、簡単な言葉に言い換えてくれた。うん。ジーダは基本人が良い。しかも、平凡だ。つるんでいる面子が胡散臭かったり、喧嘩を売り歩いているような人間であるのが不思議なくらいに。まぁ、人生色々あったのだろう。詮索は今は控えておく。



  それよりも、問題はウーリーだ。

  彼女が俺の所有者だと言っていたから、俺の死活問題は彼女にかかっていると言っても過言ではない。先ほどの言動でも分かる通り、かなり気が強く、かつ俺の性格キャラとは衝突しやすいときた。一波乱も二波乱も起きそうだ。今もこっちのこと睨みつけているし。そんなガンつけられたら、気の弱い奴だったらすぐにビビってこの場を立ち去ってしまうことだろう。俺も気は決して強くはないのだ。そんなガンつけないで欲しい。


「ベルタ」


  不意にウーリーに名前を呼ばれる。それは先ほどの様に険の籠ったものではなく、静かな呼び声だった。

  名前を呼ばれたことに戸惑い、思わず視線が彷徨うが、それでもウーリーの方に姿勢ごと視線を向けた。そうだな。性格キャラ的には、視線をすぐに合わせられなかった分、彼女の深紅の瞳を見据えた方が良いだろう。決して離さないように。きっとベルタと名付けられた剣奴おれなら、視線を合わさなかったことを敗北だと思うだろうから。


「ベルタ」


  もう一度、目を見て名前を呼ばれる。芯のある声で。それは、どこか喜色を孕んでいるようにも思えたのは、気のせいだったろうか?


「ベルタ。あなたに、もう道具としての生は認めないわ」


  消えることのない松明を思わせる、深紅の双眸が俺を見据える。恐らく、今、彼女は俺のことを人間として見ている。そして、それを俺に伝えようとしている。きっと、俺の偽記憶には、俺のことを人間として見る者など一人も居なかったから。俺自身も、偽記憶の中では、自分のことを人間だとは思っていなかったし、それを当然だと思っていた。それが彼女には許し難いのだろう。静かな声に反して、激情にも似た感情の嵐が彼女の中で燃え上がっているのが感じられる。その気迫に、思わず息を飲む。本気の人間には、いつだってある種の怖さがある。俺のようなフリをしている者には、その怖さが一層強く感じられ、それをどこか愛おしく思うのだ。


  祟りにまみれ、常人の生とは大分かけ離れた筈の俺が、無くしてしまった普通の生の中に居るような気分になれるから。


「だから、名前を与えたの。名前を捨てることなんて許さないわ。

  その名で呼ばれる限り、あなたが道具として生きることは絶対に許さないし、認めない」


  自身の奴隷であると名言しておきながら、道具として生きることは認めないと彼女は告げる。

  おかしなことだ。滑稽にも思える。それならば、奴隷から解放してくれた方がよほど分かりやすいし、説得力もまだある。しかし、彼女はそれをしない。何かしら訳があるのだろうが、どこか矛盾を孕んでいるのは否めない。それを自身でも分かっているのか、いないのか。今の俺には判断出来ない。これから、出来るようになるだろうか?


「最初の命令よ。

  ベルタ。あなた、人間になりなさい」


  でも、そんな彼女の言葉にどうにも惹きつけられて止まない己がいる。俺のような凡人には、彼女のような傲慢とも思える自信に溢れた人間に憧れを抱いてしまうものなのだろう。それが山の天気なんて及びもしないほど激しく、変わりやすい機嫌の持ち主であったとしても。


  うん。今回の転生、彼女と共に生きるのも悪くはなさそうだ。少なくとも、希露姫よりは格段に優しいだろうし、ジル達よりかは大分マシだろう。どうせ嫌でも長い人生なのだ。無難な人生も可能ならば送りたいが、少しくらい彼女のような刺激に溢れる人物の側にいるのもアリなのかも知れない。


  だから俺は、彼女の命令を実行することにした。


「…」


  言葉を紡げない口で、「ベルタ」と言う自身に与えられた名を一句一句はっきりと発音するかの様に区切って復唱する。


  昔見た映画か何かで、自身の名前を告げて人間の証明をするってシーンがあったから、それをそのまま真似たのだ。確か、たった一人の家族のために仲間や恋人さえも裏切り、忌むべき化物の味方になったヒロインが言っていたセリフだ。ヒロイン役はロシア系の美人な女優さんで、青っぽい瞳に、焦げ茶色の短い髪の毛をスタイリッシュにまとめていた。ヒロインはかつての仲間に「お前は本当に人間か」と問われ、葛藤しながら、本当に己は人間なのかと悩む姿に引き込まれた。そうして何度目かの再会の際に、迷いを捨て、自身の名前を名乗って人間であることを示していた。それが本当にカッコ良くて。


  いやでも、あれはドラマだったかもしれない。それさえも忘れたが、今のところこれが一番しっくりくるからこれで通す。て言うかこれで通したい。一度は言ってみたい映画のセリフなのだ。長い祟られ人生を歩んでいるのだ。これくらいのお茶目、許して欲しい。


  これが正しいかどうかなんて正直言って、全く分からない。だけど、気にしない。そもそも、命令の内容が抽象的過ぎて分からないし、彼女が何を思ってあんなことを言ったのかも分からないのだから。


「…」


  もう一度繰り返す。


  そうすれば、一瞬、ほんの一瞬だけ、彼女が年相応の女性の笑みを浮かべた。


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