1-1 目覚め
「はい!はい!ありがとうございます。よろしくお願いいたします!」
内定。待ち望んでいたものがついに手に入った。
私、渡辺凛が人生で初めてぶつかった大きな壁…それは就職活動だ。小さい頃から勉強が嫌いでなかった私は中学、高校、大学と無難に進学してきた。
大学では希望通り文学部に入りアルバイトやサークルには目も向けず、研究と称して大学図書館や研究室の本を読みあさった。満足いく大学生活であったが、困ったのは就職活動だ。アルバイトの経験すらない私は書類審査を通過しても面接でふるい落とされる。何十社と面接しているうちにどんどん鬱々とした気持ちが募ってくる。そんな時にやっと勝ち取った一つの内定に私は歓喜した。神にでも感謝したい程だ。
そう、私はそれほどに就職活動に疲れていたのだ。
駅から家までの帰り道、内定の連絡に浮かれた私は両親や大学の友人に喜びの報告をした。浮かれた気分でメールをしていたので前方不注意だったかもしれない。
突然強い衝撃が我が身を襲ったかと思うと意識がそこで途切れた。
最後に目にしたのはこちらに突っ込んでくる大型トラックだった。
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重い瞼を開けると見慣れない天井が目に入った。
長く眠っていたためか思考は霞がかかったようだ。体は鉛のように重く体を起こすことは出来ないのはもちろん、腕を上げることさえ叶わなかった。
僅かに動く頭を動かして辺りを伺うと見たことのない部屋だった。トラックにはねられた事を思い出して病院だろうかと考えたが、木のぬくもりのある一室は病院のそれとは異なった。
誰かを呼ぼうと声を出そうとしたが、唇や喉が渇いており上手く声にならなかった。
それでも微かな声に気づいてくれたのか一人の女性が様子を見にやって来た。灰色の髪を一つにまとめた年嵩のいった女性だ。目元や口のあたりの皺から自分の母親より年上だろう、女性は私を見てとても驚いた様子だった。
女性は私の体の様子を確認すると渇いた唇に気づきコップに水を入れて持ってきてくれた。自分で起き上がることの出来ない私は女性の手を借りてその水を少しずつ飲んだ。
『ありがとうございます。』
水を飲ませてくれた女性にお礼を言ったが、女性には言葉が通じないようだ。顔つきは派手ではなくアジア系に思われた女性だがその瞳は深い紫色をしている。日本人ではないようだった。
女性が私に話しかけてきたが、今度は私が困る番だった。英語に似た言葉を話しているようだが私の知らない言語だ。懸命に女性の言葉に耳を傾けたところ、その女性の名前がリュネートだろうということはわかった。
「リュネート?」
そう呼ぶと女性は微笑んだ。真面目な顔つきの無愛想な女性だったが微笑んだ顔は目尻の皺が深くなって優しそうな印象になった。
私は重い腕を動かし自分を指して「リン」という名だと伝えた。
リュネートが看病をしてくれたおかげで私は一週間ほどで自分で起き上がり食事が取れるくらいに回復していた。
その間にいくつか気づいたことがある。
まず、私は私の知っている渡辺凛という人間ではなくなっているということだ。
茶色に染めた量産型女子大学生といっていいセミロングの髪は、今では腰辺りまであるストレートの黒髪になっていた。手足は細く真っ白で頼りない。二十を過ぎた大人の女性の体はそこにはなく、小学校低学年かもしくはもう少し幼い少女の体がそこにはあった。自分の姿を詳しく知りたかったが部屋に鏡はなく、私はまだ部屋を出て歩けるほどの体力がなかった。
私はトラックにはねられて死んだのかな…
転生、という言葉が頭に浮かんだ。
本の中の世界なら神様が説明でもしてくれそうなものだが、いきなり目が覚めて言葉も通じない知らない場所にいたのでは自分の現状を正しく理解する術は今のところなかった。私は生まれたての赤ん坊のように何も知らず、何もできなかった。
他に分かったことといえば、リュネートという名の女性のことだ。彼女は一人で私の世話をしていて、淡々としたその態度からこの世界の私の母親という可能性は低そうである。
リュネートは一日三回食事を出してくれた。その料理の様子から彼女が料理上手な女性でないのだろうと思ったが、この世界ではこれが平均的な食事なのかもしれなかった。主食は少し固めのパンで、サラダやスープや干した肉のようなものが出された。味付けはシンプルに全て塩のみだ。
リュネートが魔法のようなものを当たり前に使っていることにも気づいた。私の体を吹いてくれる時には何もないとことから水を出し、夜暗くなればランプのようなものに呪文を囁いて明かりを灯す。リュネートは中年の女性で黒いローブを着ているので童話に出てくる魔法使いそのものだった。
一週間の間に挨拶と簡単な単語も分かるようになった。最初に覚えたこちらの言葉は「水」だった。リュネートは無愛想であったが私が指を差したものの名前をゆっくり発音して教えてくれた。
体が回復してきたため、私は取り敢えず直近の目標を設定することにした。一つ目は言語の習得、二つ目は体力と運動能力の向上だ。
言語の習得はリュネートに付き合ってもらうしかない。リュネートは基本的に無口なので私は拙い言葉で積極的に話しかけた。「あれは何?」「なんで?」「どうして?」といつも繰り返し繰り返し聞くのでリュネートは少し疲れた顔をするようになってきた。育児疲れ、という言葉が浮かび申し訳ない気持ちになった。
運動能力はの向上はまず、ベットの上で手足を動かし鍛えることから始まった。数日で足は思うように動くようになってきたが、棒きれの様な足が逞しくなることはなく、とてもこの足で自分の体を支えることは出来ると思われず掴まり立ちの訓練に移行する勇気がなかなか湧いてこなかった。ポキリと折れてしまったらどうしよう、という不安が大きい。
私は朝食を持ってきたリュネートに相談することにした。
「リュネート、私、歩く、する」
「歩く練習をしたいのですか?」
「そう!歩く!」
さすがリュネート。私の言いたいことを理解してくれたようだ。リュネートが朝食が終わったあとに練習に付き合ってくれると言ったので私は急いでパンを頬張った。
ベッドの脇に腰をかけてみると、背の低い私は足が床につかない。リュネートは私の両脇に両手を差込み抱き上げるようにして立たせてくれた。裸足の足が木の床につく。リュネートがそろりと手を離した。私は両手をとってバランスを取った。
ク○ラが立った!
そういう心境である。私はちょっと自慢げな笑顔でリュネートを見た。