9話 結晶
不快感を伴い、殺人者からの念話が脳内にねじ込まれてくる。
(…待て……聞きたいことがある)
だがその時、隣にいるリウィがショックから抜け出して我に返った。
「パステム、走るわよ!」
頭の中に送り込まれてきた他者の思念の異様な感触に茫然としたまま、リウィに手を引かれて再び走り始める。野営地を横切り、横たわる仲間たちの亡骸のそばを通り抜け、再び森に突っ込んだ。灌木の茂みをかき分けながら必死に走った。男は追ってこない。
しかし思念は追いかけてきた。
(逃げるのか…まあいい。こいつは離れても使えるのか…便利だな。まるで*@<…:;だな)
思念の途中に意味不明な概念が混入した。一瞬、心の中に手のひら大の四角くて平べったい物体のイメージが浮かんだ。パステムが見たこともない奇妙な物だ。理解できなかったのも無理はない。彼の育った世界には携帯電話など存在しなかったのだから。
(…しかしこの話し方は疲れる…頭が痛い…だが言葉がわからない。この方法しかない…まず最初に聞きたい事だが、ここはどこなんだ?)
ここがどこかわからないということは、この男は山中で迷っていたのか。男と真正面から対峙した時に気付いていたが、あの男は耳が尖っていなかった。つまり人間だった。この聖地の森に一番近い人間の町、ウィルカかムスギトあたりから脱走して山中に迷い込んだ犯罪者、または頭のおかしな人間なのだろうか。
(当たらずとは言え遠からず…来たのはもっと遠くからだが…ここは聖地の森という場所なのか。もっと詳しく…)
何気なく考えた事がそのまま相手に伝わっているらしい事に気付いて、パステムはショックを受けた。そして魔術の講義を思い出した。
念話の呪法が難しい点は思念を送ることそのものではない。ひとたび話者の間でリンクが確立してしまえば互いの意志を伝え合うのは難しくない。本当に難しいのは相手に伝えたいメッセージだけを選んで送り、他の雑念や感情、秘めた思いを相手から隠しておくことだという。未熟な術者が念話を用いた場合、話者間で過度に強固なリンクが形成され、頭の中の一切合財が相手から丸裸になってしまう。ひどい場合には自他の思念の区別がつかなくなり自我の境界が失われる事さえある危険な呪法なのだ。
(そうなのか。それは知らなかった…気をつけたほうが良さそうだな…おいおい俺の頭の中を覗くなよ)
こんな人殺しの狂った脳味噌の中など誰が覗きたいものか。吐き気がする。おっといけない相手に伝わってしまう。パステムは必死に精神を集中し、目の前の男に伝えるべき思考だけを頭に浮かべようとした。
(ここは聖地の森、ハイチャフ・ギルフ。エルフ族の聖なる領域。人里から遠く離れた山の中だ。なぜここにいる?)
(…数日前、気が付けば森の中で倒れていた。それから森を当てもなく彷徨っていた…今晩、たまたま遠くにお前たちの焚火を見つけた…幸運だった)
「幸運だった…だと」思わず、言葉が口をついて出た。「ふざけるな」
(なぜ殺した。何の罪もないみんなを何であんなに残酷に殺したんだ!お前はいったい何なんだ!)
パステムは激昂して叩きつけた思念に対して、男からは冷ややかで落ち着いた返答が帰って来た。
(……殺したいから殺した。それだけだ)
(ここで覚醒めた時からずっと、殺したくて堪らなかった)
(山中を彷徨いながら、空腹は感じていたが、それよりもずっと切実に魂の飢えに苛まれていた…誰かの命を奪い、魂を喰らう事でしか癒せない飢餓感だ)
(その時、お前たちの明かりを見つけた)
(そして思った。やったぞ人がいる。殺せるぞ、ってな)
(お前たちには罪もないし、恨みもない。むしろ感謝さえしている。俺の飢えを満たしてくれた事に。あんのままお前たちに出会えなかったら俺は再び死んでいたかもしれない。…俺にとっては幸運だったがお前たちは不運だった)
「そんな…」
(そんな訳の分からない理由、納得できるわけないだろ!よくもみんなを…)
その時だった。
「…テム!パステム!どうしたのよ!しっかりしてよ!ねぇ!」
目の前にリウィの顔があった。
心配そうに呼びかけながらパステムの頬を何度も軽く叩いている。
「え?あれ?ご、ごめん。」
「ああ、やっと正気に返った…びっくりしたよ。あれっと振り返ったら立ち止まってぼんやりしてるんだもの。話しかけても答えないし、急に怖い顔して叫び出すし…」
「あ、あぁ…そうなんだ。」
「大丈夫?眠いの?でも頑張って走らなきゃ!」
「ち、違うんだ。あの男から念話で話しかけられて…」
「ネンワ?念話?あの男が魔道士に見える?それに私は何も感じなかったわ。きっと気のせいよ。しっかりしてパステム」
「違うんだ。たしかにあれは念話…」
「真夜中だし、こんな状況だし、混乱するのも無理もないわ。かわいそうに…」
「……」
「…もう少し頑張って、パステム。今は少しでも走ってあの男から離れるのよ。森の奥に住む上位のエルフ族や樹の番人たちにも、精霊の声を通じてこの…事件は知れ渡っているはず。きっと今頃こっちに向かってる。そうなればあの男も終わりよ。それにもうすぐ夜が明ける。辛いけど、もう少し頑張れば私たち必ず助かる。だから、あとちょっとだけ辛抱して」
「わかった。オレ、どうかしてたみたい。…頑張るよ」
「一緒に頑張ろうね」
「行こう」「うん」
(………聞…。…っ…て…)
また念話だ。しかしその後何度も送られて来たそれは、しだいに途切れがちで内容が判然としないものとなっていた。距離が開きすぎると通じにくくなるものらしい。もう先ほどのように、念話に引き込まれ没入するあまり周りが見えなくなることはなかった。
林立する幹の間をすり抜け、倒木を飛び越え、夜露に濡れた落葉で足を滑らせそうになりながらも、二人は森の中を順調に走り続けた。
木々の隙間に覗く空は紺色を帯び、その色合いは刻一刻と明るさを増しつつあった。どこか遠くで小鳥が朝のさえずりをはじめていた。
「はぁはぁ…」息を切らせ、二人は立ち止まった。
「さすがに、ここまで来れば、もう大丈夫なはず」
「追ってこない。上手く、巻けたみたいだね」
「エルフ族以外にこの距離を走って追ってくるのはさすがに無理だわ」
「…助かった、のかな」
「助かったのよ。よく頑張ったわパステム」
「うん。…疲れた」
「少し休もっか」
立ち止まると、ほとんど裸同然の体に夜明け前の森の冷え込みが辛かった。体中無数の切り傷と擦り傷だらけでヒリヒリした。
二人は身を寄せ合い、大木の根元に空いた木の洞に潜りこんで休息を取ることにした。押し付けられるリウィの体の柔らかさと温もりが何よりもありがたかった。張り詰めていた緊張がほんの少し解けると共に、ほとんど夜通し走り通した疲労と眠気がどっと襲いかかってきて、パステムのまぶたは急に重くなり、もうそれ以上開けているのが困難になっていった。見るとリウィの美しいアクアマリン色の瞳ももう半分閉じかけていて…
……
(おい、起きろよ)
頭の中に、キリキリと強烈な不快感を伴いながら、油臭くざらついた思念がねじ込まれた。
パステムは跳ね起きた。もうあたりは明るくなっていた。木々の間からまばゆい朝日が斜めに差し込み、草木に付いた朝露を無数の宝石のように輝かせていた。小鳥たちは朝の合唱の真っ最中で森を美しい歌声が満たしていた。
目の前に、あの男が立っていた。
パステムたちが潜りこんだ木の洞の前に仁王立ちし、こちらを見下ろしていた。その顔にはかすかに笑みが浮かんでいる。そして次の瞬間、ある事に気付いてパステムは慄然とした。
リウィがいない。
木の洞で一緒に休んでいたはずのリウィの姿はそこにはなかった。
(よお、お目覚めのようだな)
(…リウィ、リウィはどこだ)
(あの女のことか。まあそんな事どうでもいいだろう。それよりも気にならないか?どうやって俺がお前たちを見つけられたのか。知りたくないか?)
(リウィに何をした…)
(さぁね。それはそうとさっきの答えだ。実は精霊に聞いたのさ)
(何だと?エルフ族でもないお前なんかにそんなことできる訳ないだろ!)
(それがなぜか、さっきできるようになったのさ。不思議だろ?)
(精霊の声を聞く。つまり自然の神羅万象…気象、植生、地質その他から情報を抽出し読み取る技術だな。そして精霊と対話する。すなわち虫や鳥や獣だけでなく植物や微生物まで含む森に暮らす無数の生物が織りなす広大な意識のネットワークと感応する技術。一度この技術に目覚めたら、森の中に残されたお前たちの痕跡を辿るのは訳もなかったよ)
(……)
「クククク…」男は低く笑いはじめた。
(…信じられないよな。俺自身驚いている。昨晩あの女、あれがきっとお前たちの教導者だったのだろう…あいつを殺し魂を喰らってから、しばらくすると森を歩くのがずいぶん楽になった。その後は念話。そして今度はこれだ。まったく何なのだこれは)
(どうやら、魂を喰らえば、そいつの持っていた能力を得ることができるようなのだ)
(まさか、移動術も、念話も、精霊との対話の技術も、ロレムさんから…)
(そういう事らしい)
男はポケットをまさぐり、何か小さな物を取り出した。
それを手のひらに載せ、パステムに向けて差し出した。
小さな宝石だった。1センチにも満たない小さな結晶だが、清流や澄んだ青空を思わせるアクアマリン色がとても美しい。血塗れの男の手のひらの上で、それは朝日を反射してきらびやかな輝きを放っていた。
(これが何だかわかるか?)
何故か、わかる気がした。これと同じアクアマリン色をついさっきまで見ていたのだ。それはまさにリウィの瞳の色だった。
(リウィ…)
(察しがいいな。そうだ。これがあの女、リウィの魂だ。実に美しい。ちなみに骸はそこにある)
そう、それはそこにあった。すでに無意識のレベルでは捉えていたが、パステムの心が認識するのを拒絶していた光景。愛する女性は喉を切り裂かれ血を流し、地面に無造作に投げ捨てられていた。
「うわああああああああ!!!!」
(さよならパステム。追いかけっこは楽しかったぞ)
男の右手が素早く打ち振られた。その手に握られたククリナイフの刃先が、絶叫しながら木の洞を飛び出したパステムの左肩口に入り、まるで熱したナイフでバターを切るような滑らかで肉と骨を切り裂いて、右脇腹から出た。
一瞬、立ち止まって不思議そうに自分の体を見下ろした後、斜めに分断されたパステムの上半身はずるりと滑り、落下した。遅れて残った胴体も地面にくずおれた。
男は倒れたパステムに歩み寄る。
そして、もはや息のないパステムの額に指先で軽く触れた。
すると、視覚では捉えにくいチラチラ輝くかすかな蒸気のようなものが、男の触れた箇所から空気中に立ちのぼった。それは男が広げた手のひらに引き寄せられると、しばしその場で漂った後、光を放って凝結した。
男の手のひらの上、アクアマリンの結晶の横に、もう一つの宝石が出現していた。滑らかな楕円形の小さな琥珀。温もりを感じさせる柔かな黄色い輝きの美しさは隣りのアクアマリンに負けずとも劣らない。男はしばし目を細め、宝石商のように黄色と青色の二つの石、結晶化した二人の魂を鑑賞した。二人の若い生命力と無限のポテンシャルをそのまま具現化したような美しさだ。
男は口に二つの結晶を放り込むと、奥歯で噛み砕き、嚥下した。