74話 魔都デリオン
デリオン王宮。
王都中心部に広がる広大な地所に、オークたちのほぼ全員が集結していた。かつて園丁たちの手で整えられていた美しい庭園は、無数のオークたちの足で無残に踏みにじられて泥濘と化し、見る影もなく荒れ果てていた。
王宮に集っているのはオークだけではなかった。獣人たちがいた。人間から媚獣として消費された後に捨てられ野生化した彼らは、人間への復讐を遂げて歓喜の雄叫びを上げている。また、人外の民の周辺部には、人間たちの姿もあった。高層都市最下層のスラムの住人たち。社会から排除され、差別と貧困に苦しんできた彼らも、この都市の支配体制が覆されたことを心から喜んでいた。
さらに、王宮の外側に林立する高層建築や尖塔群の向こうから、飛来するものがあった。大型浮揚艇ほどもある巨大なものから、小さいものでは人間大のものまで、数百の羽ばたく群れが王宮へと舞い降りようとしていた。
竜族。人間による迫害をのがれ、南半球のゼンギル台地やウゴル山脈などに散り散りになって生き延びていた竜族の末裔が、人外の民の蜂起に呼応してやってきたのだ。彼らは突風で砂埃を巻き上げながら、王宮の芝生のそこここに着地した。オークたちが慌てふためいて場所を開ける。
さらに、王宮に点在する池には、北方のナグ諸島から来たサハギンの生き残りが潜んでいた。かつて男が沼地で遭遇したサハギンとは遠縁にあたる一族だ。彼らは海から川をさかのぼり、地下に張り巡らされた排水路を通ってこの王宮へとはせ参じたのだった。
この場にはまだ姿を見せていないが、巨人族もデリオンへと向かっているようであった。デリオン外縁を流れるヒランギ川の河口に位置するカナドマ港に、身長二十メートルの巨人が三体上陸したとの情報が寄せられていた。もし情報が本当なら、はるばるギカ・フスマガヤから数百キロも海を泳いで渡ってきたことになる……。
ついに沈黙を破り、あの御方が言葉を発する。偉大なる魂食獣が。
宿敵エルフを滅ぼし、ついにデリオンの完全平定を成し遂げたあの御方が、この都市の支配者として正式に声明を発表する。先日、その噂がデリオンの新たな住人たちの間を駆け抜けた。噂はさらに都市の外側へ、全世界へと瞬く間に広まっていった。
その口から語られるのは、いかなる統治方針なのか……。王宮を取り巻く庭園で、群衆は固唾を呑んで待ち受けた。
庭園を見下ろす王宮のバルコニーでは、男が演説の準備をしていた。その背後には背教のエルフ、グレンが影のように従っている。
男は考えた。自分が作り上げる新たなる王国の形を。
かつて男はこの都を破壊し、滅ぼす事しか考えていなかった。しかし、今や男が見ているのは、はるかに高い地点であった。
この都市での戦いと殺戮で手に入れた膨大な魂で、男は並び立つ者のない絶対的な強者へと上り詰めた。せっかく手に入れたこの力を、無意味な破壊にしか使わないのは勿体ない。この力で、かつて何者も成せなかった偉業を成し遂げてみせる。誰も見た事のない新たな世界を創り上げてやる。
絶対的な悪の帝国を。
俺は人間なのだ。欲望のまま殺戮を繰り返すだけの獣ではない。
見ているがいい。男の脳裏に、ある女の影が浮かんだ。
「……そろそろ時間です。偉大なる魂食獣よ」グレンが静かに言った。
突然、男は振り返りグレンを殴りつけた。グレンは吹っ飛び床に転がった。男はさらに容赦なく蹴りを入れる。つま先が脇腹に食い込み、肋骨がボキボキと砕けた。
「今後、その名で俺を呼ぶことは許さん」男は冷然と言った。
「……はっ!も、申し訳ございませんっ!」
グレンは起き上がり平伏した。口の端から血が垂れている。治癒の呪法で怪我を治す事さえしていない。骨折の激痛を甘んじて受けてみせることで忠誠を示そうというのか。それとも単にマゾなだけなのか。まあいい、勝手にしろ。
「俺は藤田だ。藤田辰夫、それが俺の名だ。覚えておけ」
「はっ!仰せのままに……フジタ様」
「……行くぞ、演説の時間だ」
男とグレンはバルコニーの縁に歩み寄り、下で待ち受ける大群衆に向き合った。膨大な数のオーク、獣人、人外種族、それに人間が、広大な王宮庭園の端から端までを埋め尽していた。男が姿を見せたことで、群衆からどよめきがわき起こった。どよめきの声はまるで地鳴りのように低く鳴り響いた。
男の中に、圧倒的な全能感が膨れ上がる。
しばし聴衆たちの興奮が静まるのを待つ。
男は息を吸い込み、そして声を張り上げた。
「諸君、俺の名は藤田。この都市の新たなる皇帝だ。まずはじめに、ここに新たなる帝国の誕生を宣言しよう……」
男の顔に不敵な笑みが浮かぶ。そうだ、すべてはこれから始まるのだ。
――――王都デリオンよりもはるか北の地。
雪に閉ざされた平原で、狩人たちは焚火の炎を取り囲んでいた。薪のはぜる音だけが闇に響く。
その日仕留めた獲物を解体し、その肉で食事を終えた後だった。獲物はかなり大きなメスのオオツノジカだ。残りの肉は橇に積んであった。これだけあれば当面村で食うには困らないだろう。
狩人の一人が言った。
「噂で効いたんだが、デリオンとかいう大きな町が、大変なことになったらしいな」
その顔には大きな傷が走っていた。かつて狩りの時にマンモスの牙でつけられたものだ。
「ああ、あの高い塔がいっぱい建ってるとかいう町か。大変って、どうなったんだ?」
別の一人が言った。黒い髭がもつれあい、そこから氷柱が下がっている。
「何でも、ひとりの狂った男とオークの大群に乗っ取られたらしい」傷の男が言った。
「本当かね」と、髭の男。
「こないだ毛皮の買い付けに来た商人から聞いた話だ。ある日突然現れた狂った男が人を大勢殺した。奴を捕まえとした兵隊たちもみんなやられてしまった。そして、それに便乗してオークがやってきて、街中をめちゃくちゃにしちまったらしい」
「へぇー。いったい何者なんだねその男。一人で兵隊をやっつけちまったってのかい。まさか」
「何でも、殺した相手の魂を食べて、どんどん強くなるらしい」
「何だよそりゃ。まるで化物じゃねーか」
「……魂食獣」
それまで沈黙を守ってきた老人が、ぽつりとつぶやいた。
彼は村の最長老だった。彼が何歳なのか知っているものは誰もいない。かなりの老齢でありながら、今も現役で狩りに参加していた。狩りの腕は伝説的だった。最長老の投げる槍は確実に獲物の急所を貫き、巨大なマンモスであろうと一撃で仕留める。
「……何か知ってるのかね、大爺」
傷の男が言った。村の者は皆、最長老のことを大爺と呼んでいた。
白く長い眉毛の下に隠された、糸のように細い目をわずかに開き、最長老は言った。
「……ん?……何じゃって?」
「いや、大爺、今何か言っただろ?デリオンの怪物の事、何か知ってるのかと思って」
「……何じゃて?デリ…何?……なーん、わからん」
「なんだ、いつもの大爺の独り言かよ」
やれやれといった感じで焚火の周りの狩人たちは苦笑した。
それでデリオンの話題は終わり、少しだけとりとめのない雑談をした後で、彼らはテントに潜りこみ、寝袋に包まって眠りについた。
最長老も寝床に就いたが、しばし眠りは訪れなかった。
ある言葉が脳裏に浮かび、どうしても消すことができなかった。言葉の意味はさっぱりわからない。どこで聞いた言葉だったろうか。それも思い出せない。最長老はその言葉を口にしてみた。
「……ソウルイーター、ハザー、イロイ……」
言ってみても、やはり何も思い出せなかった。しかし、ずっと昔に聞いたような気がする。ずっとずっと、遠い昔に。それだけは確かに思えた。それに、何かをしなければならない、そんな気がしてきた。ずっとずっと忘れていた、とても大事な仕事を。
最長老の奥深くで、何かが動き始めた。
続編
「殺戮の魔帝国:ある邪悪な男の記録②」
2017年春、連載予定!