73話 終結
――――藤田辰夫の心の世界。
まさに矢を放とうとした瞬間、ティレスの全身を衝撃が貫いた。
彼女は信じられないという表情で、眼を見開いた。その手から光の弓矢が消失した。
「どうした?」カシェラが声をかける。
「私の肉体が……死んだわ」ティレスが震える声で答えた。
「何だと?」
ティレスの姿が足元から急速に薄れ始めた。彼女を通して劇場の破壊された座席の列が透けて見える。しかし、そんな状態でありながら彼女は再び冷静さを取り戻していた。それどころか、その視線はよりいっそう強さと激しさを増していた。体勢を立て直し立ち上がった藤田を真っ直ぐに見据え、ティレスは声を張り上げた。
「フジタ・タツオ!覚えておきなさい!殺戮に生きるということは、内なる怪物に負けを認めること。悔しかったら、人間であることを証明してみなさい!あなたは人間なの!魂食獣である以前に一人の人間なの!それを…忘れ……いで…………」
姿が消えた後も、ティレスの声の最後の響きはしばらく空中に残った。
藤田は呆然とティレスの最期を眺めていた。ククリナイフを握った手は力なくだらりと垂れている。
ザイイラは突然のことにあっけに取られていた。
「……おい、どうするよ?」小声でカシェラに問いかける。
「俺たちだけで、奴を倒すしかあるまい……」
「そんなこと、できると思う?」
二人の背後から、不気味に歪んだ声が言った。振り返ると、そこには先ほどまで柳田だった肉片が転がっていた。それはどす黒く変色し、ぶよぶよと蠢いていた。もはや柳田少年の面影は微塵も残っていなかった。
死後、藤田の精神世界に寄生しはじめた時から、内なる魂食獣に侵食され、柳田健太の人間性は薄れる一方だった。いや、それ以前から希薄だったのだろう。魂食獣としての欲望の命じるまま、小動物を惨殺し続けていたのだから。そして今や、最後に残っていたわずかばかりの人間性の残滓さえもが完全に失われた。そこにいるのは純粋な怪物に堕した存在だった。
怪物は粘つく耳障りな声で言った。
「お前たちは、心の世界に置き去りにされたのさ。げへへへ……。念師の助けなくして、戦うどころか、この世界で生き延びる事さえ不可能だ!」
床板の隙間、壁の継ぎ目、天井の隅など劇場内の至る所から、どす黒い肉塊がもりもりと湧き出すように現れた。それは座席の列やスクリーンも覆い隠し、劇場内の空間を満たしていった。邪悪に光る無数の真っ赤な眼、蠕虫のような触手、鋭い牙がカシェラとザイイラを取り囲んだ。
不浄な肉塊に生じた無数の口が同時に叫んだ。
「……死ね!」
肉塊が二人に雪崩を打って殺到した。
その光景を、藤田はなぜか悲しげに見つめていた…………。
――――雲一つないデリオンの空に、太陽が高く光る。
その日射しが男の目を射た。まぶしさに思わず目を細める。
「うぅ……」男はうめいた。
男は道路の上に仰向きで横たわっていた。
周囲には破壊された光景が広がっている。すぐ近くで、エルフの女が血だまりの中に倒れていた。この女と目があった瞬間から、男には記憶がなかった。何らかの幻術で攻撃されたのだろうか。しかし、その攻撃も無事切り抜けたようだ。どうやったのかは、自分でもわからないが。
男は首を動かし、反対側を見た。
そこには彼と激闘を繰り広げていたエルフの青年がいた。男はとっさに身構えようとした。しかし、青年は片膝を地面につき、うやうやしく首を垂れている。何か様子がおかしい。
「……お目覚めになられましたか、偉大なる魂食獣よ」
青年は言った。同一人物でありながら、その口調、そして顔つきは先ほどまでとは明らかに異なっていた。
「……お前、誰だ?」男は言った。
「グレンと申します。あなたの忠実な僕です。これまで私は邪悪なる者に操られ、不本意ながら貴方様と戦わされておりました。しかし、私に取りついていた邪悪なる者はもはや去りました。そして、貴方様に仇なさんとしていた邪悪なる者の手下は私が倒しました」
跪いたまま、青年は言った。
「……そうか。お前が俺を助けてくれたというわけか」
「はっ!」
「そうなのか……。感謝するぞ、グレン」男は鷹揚に言った。
「はっ、ありがたき御言葉です!」グレンは男の傍らで、感に堪えない様子で言った
男は再び空を見上げた。
なぜか、男の胸には喪失感があった。もう少しで、本当に欲しかったものが手に入りそうだったのに、それが永遠に手の届かない所へ行ってしまった。そんな気分だった。
ハイチャフ・ギルフの聖なる森。館の床の上に、導師レオドが長々と身を横たえていた。
長く引き伸ばされた全身にわたって裂け目が走り、樹皮のような皮膚が剥がれ落ちていた。長い枝のような両手はすでに砕け散っていた。長細い木彫りの面のような顔は真っ二つに割れ、両目は固く閉ざされたままだ。
その周囲を数十人の高位エルフ達が沈鬱な表情で取り巻いていた。彼らは手を尽くしたにも関わらず、導師は意識を取り戻さなかった。それどころか、肉体の衰弱と崩壊はさらに進行し、このままでは命まで危ぶまれる状態となっていた。グレンは導師レオドの精神内部に侵入した時、力を奪っただけでなく、怒りにまかせ破壊の限りを尽くした。それが導師に回復不能な損傷を与えていた。
「……導師を、森に降ろそう」
樹師サルガが言った。
近い将来、導師は森に降り、足を地面に埋めて樹木として第二の生を送ることになっていた。このまま館で看病を続けても回復の見込みはない。それより、まだ生命力がわずかでも残されているうちに、地面に根付かせて樹木として生き延びさせる。導師の生命力に賭けるしかなかった。
樹師サルガの指示のもと、導師の体は樹上百五十メートルの館から、浮揚の呪法と十重二十重に張られた衝撃吸収結界を使い、細心の注意を払って地上へと下ろされた。
地上では、導師を載せた長さ五メートルの担架を二十名の高位エルフたちが担いで森の奥へと向かった。そこはすでに導師が植えられる予定に決まっていた場所だった。鬱蒼と茂る森の中にできた小さな空き地。暗い森の中、そこだけ明るい日差しが燦々と降り注いでいる。エルフたちは穴を掘り、導師の足を埋めた。導師の長い体を直立させるため、添木を立て、縄で縛る。
最後に地面に聖水をふりかけながら一同で呪文を唱え、短い儀式を執り行った後、エルフたちはその場を去った。
「頑張ってください、導師レオド……」
行列の最後で振り返り、サルガが言った。植えられた導師は枯れ木のようにしか見えなかった。