72話 怒り
…………。
グレンは奇妙な夢を見ていた。
自分の体が勝手に動き回り、何者かと激戦を繰り広げていた。自分の体でありながら、なぜかグレン自身はその戦いを傍観者として眺めていた。戦っている相手は一人の男だった。その姿には既視感を覚えたが、どこで見たのかは思い出せなかった。
自分が、書物でしか読んだことのないような魔術の奥義を次々と放った。しかし男は倒せなかった。
グレンは何者かの存在をすぐそばに感じた。それが、彼に代わって体を動かしているようだ。
グレンはそちらに注意を振り向けた。この存在が放つ雰囲気にも覚えがあった。底知れぬほど懐が広く、威厳に満ち、寛大で、それでいて冷徹で残酷でさえある存在。ほんの二、三年前にどこかでこの感触に触れたような気がする。すると同時に、やわらかな日射しと、窓の外に広がる森のイメージが心の中に浮上してきた。
森。鬱蒼と茂る木々。地平線まで続く大樹海。
ハイチャフ・ギルフの聖なる森。
そこで、グレンは修練者の修行の最終段階で事故に遭い、仲間を失い、脳に障害を負った。そして修練者資格をはく奪されて森を去った。
だが、本当にそうだったのだろうか。グレンには事故の記憶がなかった。森のエルフたちからそのような説明を受けたに過ぎない。グレンは言い知れぬ違和感を覚え始めた。
違う、本当はそうじゃなかった。単なる火山ガスによる窒息事故などではない、もっと悲惨な何かがあった。そうだ、確かにそうだった。俺は見たのだ……血と切断された遺体を。
その時、グレンを頭痛が襲った。頭が割れるように痛い。
待て、痛みを感じるということは、これは夢ではない。これは現実だ。
ここ最近、グレンは意識障害に悩まされてきた。「発作」で意識を失って再び取り戻すまでの数時間から数日に、どこで何をしていたかがまるで思い出せない。意識を失っている間も彼の肉体は夢遊病者のように勝手に動き回り、何かをしていたらしい。そんな事が何度もあった。ひょっとして、その「発作」が今まさに起きている最中なのか。
「発作」のせいで俺は仕事を首になり、そして、そして……誰よりも、何よりも大切に思っていた人を守れなかったのだ。
フーシェ。媚獣の娘。
フーシェのことを思い出した瞬間、これまでグレンの意識をぼんやりと包み込んでいた雲が吹き払われ、すべてが鮮明になった。そして最愛の人の最期の瞬間の痛ましい記憶が彼をズタズタに引き裂いた。
オークに略奪されるデリオンから避難した、あの日。
自警団組織にスパイ疑惑をかけられたグレンとフーシェは暴徒化した避難民に襲われた。あの時、まさに「発作」が起き、意識を失いつつある彼の前で、フーシェは殺された。もし「発作」が起きなければ、フーシェは死なずに済んだのだ。
「発作」による意識障害は修練者の時に受けた事故の後遺症。グレンはそう思っていた。
だが、グレンは今、自分のすぐそばにいて、彼の肉体を操っている存在を感じていた。「発作」は単なる意識障害ではなかった。独自の意思を持つ何者かが、寄生虫のように彼の内部に侵入し、肉体の制御を奪っていたのだ。
そいつのせいで、フーシェは死んだ。
許せない。絶対に許せない。
グレンの中で真っ黒い怒りのマグマが膨れ上がり、そして一気に爆発した。
その爆発が、グレンの記憶に施された封印を吹き飛ばした。
グレンはすべてを思い出した。
聖地の森で起きた修練者の虐殺を。そして影からその犯人を見ていたことを。恐怖に震えながらも、圧倒的な暴力で他者を蹂躙し、その存在を全否定するあの男に魅せられていたことを。そして、エルフの上位戦士「森の番人」たちによる救出と、その後の……導師レオドとの面会を。
導師レオド。ハイチャフ・ギルフの聖地の森の頂点に君臨する偉大なる指導者。半ば樹木と化した肉体を持つ異形のエルフ族。その不気味な長い指がグレンの頭に添えられ、そして彼は脳内からあの男の目撃情報を洗いざらい吸い出された。奇妙なことに導師は焦っていた。言葉を荒げ、同意を求めることさえなく、彼の内部に強引に侵入して奪っていった。あの時に味わった苦痛と汚辱感。グレンは導師レオドにレイプされたのだ。
そして、今、導師レオドは再びグレンの内部にいた。そう、この雰囲気は、間違いなく導師のものだった。あのおぞましい精神的強姦魔が、あの時だけでなく、その後も彼の肉体と精神をもてあそび続けていたのだ。グレンのどす黒い怒りのマグマは青い炎に姿を変えた。見る者に冷気さえも感じさせる青白い超高温の炎に。
グレンは冷静さを取り戻した。意識を研ぎ澄まし、自身の精神の内部を注意深く探る。
ほどなく、探していたものが見つかった。巧妙な魔術で構築された、精神的バックドア。この裏口を通って、導師レオドの精神の触手は彼の中に侵入していたのだ。
グレンは静かにバックドアに近づいた。幸いなことに、導師レオドはあの男との戦闘にすっかり気を取られている。今なら気付かれる恐れはない。グレンはゆっくりと慎重に、バックドアの向こう側、広大無辺な森のような導師レオドの精神内部へと意識を滑り込ませていった…………。
魂食獣の男と、上級念師ティレスは見つめ合い、そして動きを止めた。
「……どうやら、「潜心の呪法」が発動したようじゃな」グレン/レオドは言った。
その手には霊剣テスタニアがあった。男に酷使されすぎたせいで、剣に宿る魂が穢れてしまっていた。この戦いが無事終われば、聖地の森に持ち帰り、浄化せねばなるまい。
「頼んだぞ、ティレスよ」
マグサは霊剣サイラニアを握ったままその場を動かない。仮に核を破壊するのに失敗した場合でも、すぐに男を内部から切り刻めるよう、油断を怠らない。男の様子にわずかでも変化が見られないか注視している。
少し離れて、コジルは瓦礫にもたれて横たわっていた。彼の操る小さな蛆虫は、今も男の脊髄を食い荒らしていた。その旺盛な食欲は、男の細胞の自己再生力を上回っていた。コジル自身は息も絶え絶えだった。しかしその時、全身の傷口がふさがりはじめた。一瞬、マグサと目が合った。どうやら彼女が「治癒の呪法」で手当てしてくれているようだ。まだ声が出せるほど回復していなかったので、コジルは片手を上げて謝意を示した。
朝日はすでに高く昇っていた。男との戦いで、王都のこの区画は破壊し尽されていた。道路には溶岩の池が点在し、建物は穴だらけで一部で崩れ落ちている。幸い、その向こうのエルフ居住区までは戦闘の被害は及んでいないようだった。外周は再び、蔓の枝葉ですっぽりと覆われている。その上に頭を覗かせた建物の屋根も無事なようだ。深夜から早朝までいたオークたちの姿は影も形もなかった。
ずっと遠くの空を、陽光を反射しながら一台の浮揚艇がゆるゆると飛んでいく。
鳩が二羽、破壊された町の瓦礫に舞い降り、静かに鳴きはじめた。
風が吹いた。中心街のどこかで今も燃え盛っている火災の煙の臭いがした。
男とティレスは、見つめあったまま動かない。二人の衣服を風がはためかせる。
「潜心の呪法」発動から、約三分が経過した。
町は静寂に包まれていた。
「ぐがっ……」
小さなうめき声が静寂を破った。グレン/レオドが頭を抱えてひざまずいていた。
「導師!どうされました!」マグサが呼びかける。
「うぐぐ、馬鹿な、……やめろ、やめるのだグレン!」 グレン/レオドは脂汗を流し、顔をしかめながら言った。
「ま、待て、待て、話せばわかる。やめろ、やめろ……」
グレン/レオドはうつむいたままつぶやいた。その声はしだいに小さくなって消えた。
再び顔を上げた時、その顔つきは変わっていた。
導師が憑依していない時の、グレンの素顔に戻っていた。
グレンは言った。
「……導師レオド、僕を甘く見すぎましたね。これは傲慢の報いですよ」
マグサは異変を即座に見抜き、叫んだ。
「グレン!貴様!導師に何をした!」
「……いえ、導師が僕の中に侵入するのに使っていたバックドアから、逆に導師の中に侵入してやったまでのことですよ。そりゃもうガバガバでしたよ。もう少しセキュリティに注意を払ったほうが良かったですね。侵入したついでに、今まで僕の身体を好き放題に使ってきたお代として、導師レオドの至高の魔力、少しばかり頂戴させていただきました」
「おのれ……何てことを」
マグサは右手を振り攻撃魔術を発動させようとした。おそらくその動きから、旋風の呪法だったと思われる。だが次の瞬間、エメラルドグリーンに輝く光の柱がマグサを押し潰した。「裁きの光柱」によりマグサの肉体は蒸発し、瞬時に絶命した。
「うわ、こりゃすげぇ。結構ごっそり奪っちゃったからなぁ」グレンは楽しげに言った。
コジルは事態が急変したのを見て取ると、「擬態の呪法」を発動し姿を隠した。だが、一瞬遅かった。グレンの目に留まってしまった。グレンはコジルにも容赦なく「裁きの光柱」を降り注いだ。コジルがいた場所の地面に大きな穴が生じた。
グレンは若い女のエルフと、男に歩み寄った。
この男は、古代世界を滅ぼした伝説の怪物、魂食獣の再来だった。導師レオドの精神内部に侵入した際、グレンはその知識を入手していた。
この御方こそ、グレンが師と仰ぐべき存在だった。圧倒的な暴力、それこそがこの世を統べる力だ。エルフ族の重んじる調和や共感など口当たりの良い偽善に過ぎない。導師レオドが彼やフーシェにしたことを見れば明らかだ。共感を唱えるその口で、平然とヒエラルキーの下位の者に不条理を強いる。
レオドたちは奸計を巡らし、この御方を抹殺するつもりだったのだ。許しがたいことだ。今もこの女が精神内部に侵入し、核の破壊を目論んでいるという。聖地の森のエルフと来たら、どいつもこいつも侵入するのが好きな寄生虫ばかりなのか。
グレンは霊剣テスタニアを振り上げ、念師ティレスの心臓を貫いた。