68話 死闘
「くくく……くくく……」
不気味な笑い声は続いていた。上空から降ってくるようにも聞こえるし、地の底から響いてくるようでもあり、方向や距離を特定することができない。
「やはり、あれでは倒せぬか」
グレン/レオドはつぶやいた。肉体を滅するだけでは魂食獣を倒すことはできないことが、これで証明されたわけだ。やはり、精神の領域にある核を破壊するしかない。
グレン/レオドは男が再出現する兆候を逃すまいと、絶えず周囲に視線を走らせ続けた。たしかに奴は肉体を失っても滅びなかったが、肉体なくしては何もすることができない。必ずや再び受肉するに違いない。
どこだ、どこに現れる。路上、空中、高層建物のバルコニー…。
空中に響く不気味な声が言った。
「……さっきのはなかなか恐るべき攻撃だったぞ。対抗する術もなく体が崩壊し、あっさり死んでしまった……。
だが……、くくく……、諸君にとっては非常に残念なことだが、俺にはまだまだ命が残されてるんだなぁ。ざっと数えて……あと……二万五千個くらいか。くくく……。ずいぶん魂を喰ったからなぁ。くく……ははは……くひひ……ふひひ……」
笑い声は高くなり、低くなりながら、次第に消えていった。
グレン/レオドは背後に気配が凝縮するのを感じた。男が実体化した。
ゆっくりと振り返る。数メートル後方の建物の角の向こう側から、男が姿を現した。最初に現れた時と同じく、その姿は完全な無傷に戻っていた。
「……今度はこちらから攻撃する番だ。行くぞ」
男の手のひらの上に、白く輝く超高温のプラズマの球体が膨れ上がった。強烈な光と熱を放ち、まるで小さな太陽のようだ。男は火球を投げつけてきた。猛スピードで飛来するそれをグレンはかろうじて回避した。だが、至近距離を通過した際の熱で、顔の皮膚に火ぶくれが生じた。
男は矢継ぎ早に火球を連射した。「身体強化の呪法」で加速された反射神経でも、ギリギリで避けるのがやっとだ。火球は放置された浮揚艇を瞬時に蒸発させ、高層建築を溶融させ、路面をドロドロした溶岩の池へと変えた。たちまち周囲一帯は灼熱地獄と化した。
「逃げるので手一杯のようだな。くくく……。たった一つの命だ、大事に……」
男の言葉が途中で断ち切られた。
身の丈ほどもある大剣が男の肩口から入り、ほぼ正中線沿いに男の体を真っ二つに切り下げていた。剣を握っているのは禿頭の大男。エルフ族最強の男、戦師デウルーだった。
「が……、かはっ。……なんて凄まじい斬撃だ……。エルフ族にまだこんな奴がいたとは……」
男は両断されながらも、にやりと笑みを浮かべ、話し続けた。
「……だが、くくく……これも無意味だ。二万五千の命が、たった一つ減っただけのこと……」
男は左腕を掲げ、デウルーの頭部を指さした。
次の瞬間、デウルーの頭が赤黒く染まり、首筋に太い血管が浮き上がった。
「が…ぐが……ぎ……」
男がデウルーに使用したのは「圧縮の呪法」だった。超高圧で物体を押し潰す、男が得意とする魔術だ。デウルーの頭部がミシミシと軋みながら一回り小さく縮んでいく。耳と鼻から血が噴き出し、眼球が飛び出した。だがデウルーはまだ生きていた。
「……呆れた。なんて頑丈な石頭なんだ。まだ潰れないとは」
男が「圧縮の呪法」をもう一度かけようとした時だった。
「…ぐ……くらえ…化け物…め」
デウルーが絞り出すように言い、剣の握りに力を込めた。
男の体が、剣に貫かれている場所を中心にして爆裂し、四散した。デウルーの使用する霊剣ダルギオンの効果だった。この剣は使用者の生命力を破壊力に変換する能力を有していた。
最後に残った生命力を使い果たし、デウルーもまた剣に身を預けるようにして崩れ落ちた。
「デウルー……」
グレン/レオドは悲痛な面持ちで目を閉じた。
男の残骸は損傷が激しく、焼けただれた路面のあちこちにぼろ屑のようになって散乱していた。
その中から、あの不気味な忍び笑いが聞こえてきた。
「くくく……まったく、エルフというのは馬鹿なのか」
言葉を発したのは、男の生首だった。
散乱した男の肉片がふわりと浮かび上がり、爆裂する場面を逆再生したかのように一か所に寄り集まった。たちまち肉片同士が結合し、男の肉体は元通りに復元した。
「……いくら斬ろうが、焼こうが、吹き飛ばそうが、消滅させようが、無駄なんだよ。俺にはほぼ無尽蔵の生命力がある。そして、新たに殺すたび、その数は増えていく……」
男の歯の間に、卵大の赤い結晶が出現した。今死んだばかりの、デウルーの魂の結晶だった。男はそれを頬張り、ぼりぼりと音を立てて奥歯で噛み砕いた。
男は、グレン/レオドを真っ直ぐ見つめながら言った。
「これで、命の残数プラスマイナスゼロだ。あの男の捨て身の攻撃は完全に無意味だったな」
「……おのれ、外道が」
「……もう飽きた。他にも何人か隠れているのはわかっている。面倒だ。まとめて始末してやる」
男は天をふり仰いだ。その口から詠唱の言葉が漏れた。
「まさか、これは……」
グレン/レオドは念話でマグサとティレスに警告を叫んだ。
(…今すぐこの場から離れろ!この攻撃は防御不能だ!…)
だが、警告は間に合わなかった。妖しく青紫色に染まった空から、無数のきらめく雨が降り注いできた。その正体はガラスの破片のように鋭利な水晶の欠片だった。「水晶雨の呪法」、それは物理、魔法問わず、あらゆる防御、遮蔽物を貫通し、その下にいる者の肉体を切り裂き、死に至らしめる。その美しさとは裏腹に残虐な魔術だった。
まるでスコールのように容赦なく打ちつける水晶の雨が、都市の数区画に襲いかかった。高層ビルから落下した窓ガラスの破片のように、硬質の欠片があらゆる物体をズタズタに切り裂いた。
水晶雨は約三十秒間降り続いた。通り雨にも満たない短時間だったが、それが与えた損害は甚大だった。欠片が降り注いだ場所に存在していたものは、文字通り蜂の巣と化した。そして、三人もまた、全身を切り刻まれて血塗れになり、瀕死の状態で横たわっていた。
「……ふむ。あと二人隠れていたのか。二人とも女か」
男はマグサとティレスに向かって歩いていく。二人ともすでに擬態の呪法が解け、姿を晒したまま倒れていた。グレン/レオドだけは全身から血を流し、よろめきながらも何とか立ち上がった。
「……や、やめろ」
グレンのしわがれ声を無視し、男は横たわる二人に近寄っていった。
その時だった。男の足がピタリと止まった。
一瞬、男の顔に動揺が走った。
「な、なんだ。足が……体が……動かん」
男の両腕がだらりと力なく体の両側に垂れた。今にも倒れそうに、上体がふらふらと揺れている。自由になるのは首から上だけのようだ。
男も、それにグレン/レオドも知る由もなかったことだが、男を止めたのは、小さな蛆虫だった。ラセンウジバエ。普通、ハエの幼虫は腐敗した組織を餌とするが、このハエは違う。生きた動物に産み付けられた卵から孵化すると、幼虫は宿主の体内に潜りこみ、生きた肉を餌として成長する。
デウルーの攻撃により男の肉体が四散した時、無防備な体内器官が体外にさらけ出された。ラセンウジバエの成虫はそれを見逃さなかった。ハエは肉片に卵を産み付けた。卵を付着させたまま、男の肉体は再生した。そして戦いを続けるうちに、体内で数百匹の蛆虫たちが孵化し、神経系を食い荒らし始めたのだ。
しかし、このハエは本来デリオンには棲息していない。
このハエを放った者がいた。その人物もまた、擬態の呪法で身を隠し、この場に潜んでいた。
「へへ、どうやら、上手くいったようだな……」
コジルだった。
魔術や戦闘能力では二人の戦師やグレン/レオドには遠く及ばないものの、虫使いとしてはかなりの技術の持ち主だ。通常はクモや蛾などを使った監視が主だが、暗殺のための虫も持っていた。それがこのラセンウジバエだった。彼は自分の体内で密かにこのハエを飼っていた。
マグサに命を救われた後、赤ん坊を仲間に託し、彼もまたこの場に隠れていた。導師や戦師の指示ではなく、彼自身の意志での行動だった。
だが、彼もまた水晶雨を浴びて重傷を負っていた。
当然、グレン/レオドはこの機を逃さなかった。ティレスとマグサを治癒の呪法で回復させていた。
意識を取り戻したマグサはすぐさま戦闘に復帰した。霊剣サイラニアに生命力を注ぎ込み、地面に向かって展伸させた。刃は地中を疾走し、下から男の足元を貫いた。柔軟な刃は男の体内を曲折して伸び続け、筋線維を寸断し、腱を切断し、骨格の間を幾度も潜り抜けて男を体内からがんじがらめに縛り上げ、仕上げにしっかりと地面に縫い止めた。
これで男は完全に身動きを封じられた。
男は怒り狂った。
怒号と共に「圧縮の呪法」を放ち、周囲の瓦礫もろともグレン/レオドをひねり潰そうとした。圧縮された瓦礫が音を立てて粉々に砕け散った。しかし、そこにはすでにグレン/レオドの姿はなかった。
グレン/レオドの手に、青白く光る細身の剣が握られていた。霊剣テスタニア。かつて男が「森の番人」セギラから奪い、数々の殺戮で使用してきた、加速能力を秘めた剣。その剣がいま再びエルフの手に戻った。
「貴様ぁ!いつの間に!」
手にした霊剣に目を落とし、グレン/レオドは言った。
「霊剣テスタニア……。あまりにも血に汚されすぎ、半ば魔剣と化しておる。哀れなり……」
「今こそ時だ!行け!念師ティレスよ!」
グレン/レオドは叫んだ。
ティレスはゆっくりと身を起こし、立ち上がった。
まだ立ってるのがやっとの状態だった。それでも神経系を虫に食い荒らされ、霊剣サイラニアに内側から縛り上げられた男に向かって、一歩、また一歩と進んでいった。男は魅入られたように、うつむきながら近づいてくる美しいエルフの女をじっと見つめていた。
そしてついに、ティレスは男の間近にたどり着いた。その距離、一メートル足らず。ティレスは顔を上げた。
男の漆黒の瞳と、ティレスの深い藍色の瞳が見つめ合った。視線が重なり合い、そして、心への門が開いた。