67話 侵食
その時、レオドは聖地の森にいた。
依代の青年グレンの肉体が眠っている間、レオドの意識は元の身体に戻る。デリオンが朝を迎えているこの時、ハイチャフ・ギルフは午前の半ばだった。窓の外に広がるのは、果てしなく広がる大樹海。レオドはその光景を眺め、つかの間、心を和ませた。依代を通してとはいえ、人口過密な大都市での活動はレオドの精神にストレスを蓄積させていた。
幼き日に修練者として初めてこの聖地の森にやってきたのは、何百年前だったろうか。たしか、八百二十九年前だったはずだ。
レオドは草原を旅する放浪エルフの一族の出身だった。一族の元を離れ、森に来たその日から、厳しい修行が待っていた。森の奥で自然と、そして自分自身と向き合う日々。果てしなく繰り返される鍛練を経て、やがて彼は伝統的なエルフ族社会の階梯を少しずつ登っていった。気付けば、いつしか聖地の森のエルフの最高位、導師という尊称つきで呼ばれる存在となっていた。
導師レオドは長い手を持ち上げ、自分の手のひらを見た。カサカサに渇き、ひび割れ、茶色くて、まるで節くれだった木の枝のようだ。手だけではない。彼の全身の皮膚はまるで樹皮のように硬くなっていた。それに体全体がまるで樹木のように長く引き伸ばされていた。彼の肉体はヒトというよりも植物に近い性質を帯びていた。もはや今の彼には睡眠さえ必要ない。八百年以上、森と交感を繰り返してきた結果だ。
彼はこの肉体を誇らしく感じていた。すべてのエルフが到達できる境地ではない。大半の者がヒトの姿のまま短い一生を終える。短いと言っても三百年ほどで、人間などよりはずっと長命ではあるのだが。
まもなく、彼はヒトの姿を完全に失う。その前に、彼はこの樹上の館から地上へと運び下ろされ、森の腐葉土に足を埋められる。それから始まるのだ、エルフではなく樹木としての第二の生が。ヒトとしての自我も消え去り、このハイチャフ・ギルフの森全体に広がる精霊の声と完全に同化し、その一部となる。
長き人生の果てに、間もなく迫ったこの輝かしい未来のことを思うと、自然に笑みが浮かぶ。
だが、その前に最後の大仕事が残されている。魂食獣の殲滅。何万年にもわたりエルフ族が警戒し続けてきた恐るべき敵が、ついに再来したのだ。
「導師ヌーグムよ、この難事、必ずや成し遂げて見せます。ご加護を……」
レオドは部屋の内部に突き出た大きな木の瘤に語りかけた。瘤の前には小さな祭壇が設えられている。瘤はどことなく人の顔に見えた。
事実、かつてそれはエルフの顔だった。導師ヌーグム。数千年前、この森を治めた偉大な導師。彼もまた、ヒトとしての生を終えた後、樹木へと生まれ変わった。導師の館が築かれているのは、いまや樹齢数千年の大樹となったこのヌーグムの樹の上だった。
「…………」
当然、答えは返って来ない。だが、レオドの祈りは森の精霊の声に溶けて一つとなったヌーグムのもとに確実に届いているはずだった。
その時、緊迫感に満ちた思念波がレオドの思考を断ち切った。魂食獣の出現を伝える、戦師マグサからの緊急念話だった。
「ついに現れおったか……」
レオドはデリオンで眠るグレンの肉体へと意識を振り向けた。つかの間、レオドは窓の外に視線を向けた。相変わらず、さわやかな緑の樹海がゆるやかに起伏しながら、どこまでも広がっていた。
レオドはグレンに憑依し、目を覚ました。
ベッドから身を起こすと、マグサ、デウルー、ティレスと念話で連絡を取り合う。
(…マグサ、無事か?…)
(…はい導師、私は無事です。敵からはまだ見つかっていない模様です…)
(…ご苦労。よく生きておった…)
(…デウルー、ティレスよ。準備は良いか?…)
(…導師、魂食獣の姿は捉えております。いつでも攻撃開始可能です…)
(…こちらも配置完了。潜心の呪法に備え待機中です…)
(…うむ。ご苦労。わしも間もなくそちらへ向かう…)
秘話通信のため第三者による傍受は不可能であり、念話が行われていたことさえ探知できない。三人ともすでに魂食獣の出現場所に到着し、擬態の呪法で姿を隠して配置についていた。
グレン/レオドは「空間転位の秘法」を発動し、エルフ居住区の外へと転位した。
一瞬、視野が暗転したかと思うと寝室が揺らいで消え去り、目の前にデリオン旧市街の寂れた通りが現れた。この辺りは建物の階数も低く、見上げるような高層建築はまばらだ。その向こうから登り始めた朝日が射しこんでいる。背後にはエルフ族居住区を取り巻く防壁。夜間、オークの襲撃で穴だらけにされた蔓の防壁は、朝の光を浴びて光合成が活発化すると共に急速に修復されつつあった。
そして、朝日を背にし、無人の通りをこちらに向かって来る黒い人影が一つ。
それはまだ肉眼では小さな影にしか見えないが、それが放つ禍々しいオーラはすでに辺り一帯に立ち込めていた。その負のオーラはマイロン街の事件の直後、はじめて男と対峙した時とは比較にならないほど強大で、さらに異常さと陰惨さを増していた。
それを触知した瞬間、グレン/レオドの背筋を戦慄が走り抜けた。人の域を凌駕した悪意。獰猛な獣というより、もっと冷酷な、無慈悲に迫りくる電気鋸の刃を前にしているかのようだ。まさに殺戮機械を思わせる、冷たく血の通わない殺意。グレン/レオドの全身に冷汗がにじむ。ここまで強大化するとは。もっと早くに全力で殲滅しておくべきだった。一瞬、後悔の念が浮かんだ。
「化け物め……」グレン/レオドはつぶやいた。
道に落ちていた塵埃を巻き上げ、一陣の風が吹き抜けた。
人影はなおも近づいてくる。その姿がしだいに大きくなっていく。
グレン/レオドは「肉体強化の呪法」を発動させる。さらに魔力の防壁を展開し、男からの攻撃に備える。
やがて、男は互いの顔が識別できるほどの距離にまで接近した。明らかに、魂食獣の男もこちらに気付いている。それでも歩度を緩めることなく、ことさら身構えるでもなくリラックスした様子で歩いてくる。その顔にはどんな表情も浮かんでいない。
グレン/レオドは最大限に気を張り詰め、男を待ち構える。気息を整え、内心にこみ上げる不安と緊張を押し殺す。脇腹を汗が流れ落ちた。
まさか、このわしが呑まれておるだと……。
ようやく、男は立ち止まった。
朝の町は、しんと静まりかえっている。風さえもが動きを止めていた。
「…………」
「…………」
男は無言のまま、底無し穴のような真っ黒な瞳でじっとグレン/レオドを凝視している。
先に口を開いたのは、グレン/レオドだった。
「久しいのぉ、魂食獣よ」
「……あの時のお前か。やはり生きていたか」
「あの程度で死ぬわしではないわ。ところで今日は何の用じゃ」
「今や俺がこの街の支配者なのは知ってるな。
近衛軍も、王都警備隊も俺が消した。俺に立ち向かう人間はもう誰もいない。だが、俺は思い出した。まだ残っている奴らがいることを。お前たちエルフ族だ。これまで何度も俺の前に現れ、俺に挑んできた奴らが大人しくしているわけがない。何か企んでいるはずに違いない。だから、こうしてわざわざ足を運んできたわけさ。……お前たちをひとり残らず皆殺しにするためにな」
「これはこれは。ずいぶんペラペラよくしゃべるようになったのぉ。さては話術も吸収したようじゃな。それとも、慢心のあまり饒舌になっておるのか」
「何とでも言え、死にぞこないが。今度こそちゃんと潰してやる」
「ふっ、それはこっちの台詞じゃ!」
言うと同時に、グレン/レオドは空間転位の呪法で男の背後へ跳んだ。そして魔術を発動した。男の頭上に緑色に輝く光の柱が降り注ぐ。「裁きの光柱」。強烈な光圧であらゆる物質を分子レベルで破壊する高位のエルフ魔術。
しかし、緑光に押し包まれながらも男はポケットに手を突っ込んで平然としている。その顔にはあざ笑うかのような笑みが浮かんでいた。
「くくく…、残念ながら、この程度の攻撃、もう俺には通用しないなぁ」
「まだまだ!」
グレン/レオドは合掌し、念じた。
男の足元の地面に亀裂が走ったかと思うと、突然、地下に陥没した。路面の舗装と大量の土砂が地下へと流れ込んでいく。男は地面の崩落に飲み込まれ地中へと姿を消した。
グレン/レオドは空中に浮揚しながら結跏趺坐し詠唱を始めた。古代エルフ語の呪文を常人には聴取不可能な速さで唱える。そして約六秒で全二千九十七語の詠唱を完了した。
土砂が噴水のように吹き上がり、男が再び地上に姿を現した。
その時、男の周囲に、象形文字に彩られた複雑怪奇な魔法陣が出現し、そして消えた。
「何だ?」
火柱が立ち上るでもなく、竜巻が巻き起こるでもなく、魔術の効果を示す現象は何も起きなかった。
「……なんだか知らんが、失敗だったようだな」
男がそう言った時だった。
男は突然よろめいた。そして、地面に片膝をついてうずくまった。
グレン/レオドは空中浮揚しながらその様子を見下ろす。
男は震えていた。肩を激しく上下させ、乱れた呼吸をしている。
「貴様……な、何をした……」
男の声はしわがれていた。見上げたその顔は一瞬の間に驚くべき変貌を遂げていた。まるで干乾びたかのように皺だらけで、顔中が痘痕と痣に覆われている。髪の毛も見ている間に白くなっていく。ほんの数秒の間に、五十歳以上も歳を取ったかのようだった。
「き……きしゃま……」
言う側から、男の口からぽろぽろと歯がこぼれ落ちていく。今や男は両膝だけでなく、両手まで地面に突いて四つん這いになっていた。それさえも苦痛なようだ。そして、ほぼ同時に両腕両足の骨が折れ、男は押しつぶされたように腹這いになった。その衝撃で肋骨が残らず折れた。衰弱は加速度的に進行していった。髪が抜け落ち、眼が干上がり、皮膚が裂け、肉が縮み、骨が砕けていく。
「教えてやろう。お前に襲いかかっているものの正体を。神羅万象に秘められた「侵食の力」じゃ」
地上に存在するあらゆる物体には、それを侵食しようとする力が常に作用している。日光、乾燥、水分、温度変化、それに空気中の物質や粉塵、微生物。それらは微小な力だが、何百万年も働き続ければ、大山脈でさえ塵と化す。無論、生物体にもそれらの「侵食の力」は働き続けている。しかし生物は外部からエネルギーを摂取し、絶えず自分の体を作り続けることでその力に対抗している。しかし、もし「侵食の力」が強さを増したならば。均衡は崩れ去り、生命は消え去る。
男はミイラ化した死体となって横たわっていた。だがそれも束の間に過ぎなかった。骨や衣服の残骸はどんどん形を失い、ついには判別不能な白っぽい塵の堆積に姿を変えた。風がそれを吹き散らした。
「…………」
グレン/レオドはそれを無言で見下ろす。その表情はまだ険しいままだ。それに、大気に満ちる禍々しいオーラはまだ消えていなかった。
「……くく……くくく……くくくく……」
不気味な笑い声が、どこからともなく聞こえてきた。