52話 国王
王都デリオン中央部。高層建造物が林立する騒然とした巨大都市の真っ只中に、まるでそこだけ切り取られたかのように緑の土地が広がっていた。
そこは千数百年前にこの地に都が築かれて以来、代々のデリオン国王の住まいとなってきた場所、王宮だった。二千ヘクタールにおよぶ広大な地所の大半は手入れの行き届いた庭園で、そのあちこちに豪華絢爛な宮殿が点在している。
そのうちの一つ、水晶宮と呼ばれるガラス張りの大温室には、世界中の熱帯地方から集められた珍しい植物が収められている。
ガラスを通して差し込む午前の陽光の下、熱帯の花々が咲きこぼれる小道を、ひとりの初老の男性が、後ろ手に組みながら散策していた。この人物こそ、まさにデリオン国王、エウレヴィア十七世陛下その人だった。
西方大陸の約五分の三を領土とし、三億七千万の民を擁する大国デリオン。その頂点に位置する国王だが、その姿は強大な権力を誇る王族というより、むしろ神経質な官僚を思わせるものだった。金縁の丸眼鏡に、大きく後退した額の生え際、猛禽類のくちばしのような鼻、それに痩せ形の体型。しかしその高貴な血筋は確かなものだった。
悩み事がある時、考え事をする時などに国王は一人で水晶宮を散策することを好んだ。むろん、一人とは言っても片時もそばを離れぬ数名の護衛兵に付き添われてだが。
国王の悩みの種は、近頃王都で暴虐のかぎりを尽くしている男の事だった。
マイロン街事件、それに数日前に王都全体を襲った無差別殺戮。それらは市民に大きな衝撃を与えた。充実した国力と経済の発展、近代魔術の進歩に支えられ、王都の民は平和で安全な生活を謳歌していた。そこに突如降ってわいたように出現した凶悪魔道犯罪者。その凄まじい悪行に市民は恐れおののき、王都には絶望的な雰囲気が広がりつつあった。
今こそ国王自らが声明を発表し、国民の不安を払拭するべき時だった。
まもなく行われる声明発表の演説を控え、国王は緊張していた。演説は幻像機で全世界に同時放送される予定だった。デリオンを体現する者として、危機に際しても自信と威厳に満ちた姿を内外にアピールしなければならない。失敗は許されない、責任は重大だ。脇の下を汗が流れ落ちるのが感じられた。国王は青々と茂る熱帯の樹木の下で深呼吸し、緊張を和らげようとした。
「陛下、まもなくお時間です」ムラベル広報官が小道を曲がって姿を現し、王に静かに告げた。
「もうそんな時間か……わかった、すぐ行こう」
その同時刻、王宮から約十キロ離れた地点の上空三千メートルで、近衛軍の大型浮揚艇「マルディータの翼」が攻撃態勢に移行しつつあった。
これまで機内に格納されていた無数の砲身が展開され、機体下部からハリネズミのように突き出した。正確には、それは砲身ではなかった。砲口も何もないその漆黒の八角柱の正体は魔法増幅装置だった。言わば長さ五メートルにおよぶ巨大な魔法の杖。魔道士隊の制御する杖ははるか下の都市でのん気にサンドイッチにかぶりつく一人の男に狙いを定めた。
サンドイッチを四つ平らげて、男の空腹はようやく治まった。
しかしまだ腹八分目といった感じで若干物足りない。もう少し店内を物色して食べ物を探そう。まだ何かあるはずだ。そう思って男が席を立とうとした時だった。
一瞬、男は肌にヒヤリと冷気を感じた。
男は即座に「不可侵の呪法」を発動し防壁を展開した。
半径二メートルの光のドームが男を包み込んだ次の瞬間、絶対零度の冷気が叩きつけてきた。一瞬のうちに周囲は氷結地獄と化した。冷気は転がる遺体、広場、カフェをたちまち凍てつかせ、分厚い氷で覆い尽くしていく。高層住宅の間を結ぶ空中歩道からは無数の氷柱が垂れ下がる。しかし、周囲を埋め尽くしていく氷はただの水の氷ではなかった。絶対零度の冷気により、空気そのものが固体と化しているのだ。やがて男は不可侵の防壁もろとも直径三十メートルの氷塊の内部に封じ込められた。
国王エウレヴィア十七世は演壇の前に立った。
背後の壁にはデリオン国旗が掲揚されている。邪悪なドラゴンを踏みつけるワシの図像が、赤地に黄色で描かれている。
一方、演壇の正面に立つのは広報庁所属の魔道士だ。彼が目にした光景はリアルタイムで念波信号に変換され、増幅器を経て広報庁のアンテナから全世界へ発信される。幻像機内部のクリスタルに受信された念波は電気信号に変換された後、幻像機上方の空間に立体映像として投影される。
「では、始めようか」
「御意」
ムラベル広報官が開始の合図を出した。
国王は軽く咳払いをした後、まっすぐ正面を見据えた。
「国民の皆よ、またもや悲しむべき事件が起きてしまった。マイロン街の事件、そして今回の事件。そのどちらでも、多くの罪なき人々が犠牲となってしまった。私はまず、彼らのために祈りを捧げよう…………」
国王の演説が始まった。
中間地点に突如出現した氷の重量に耐え切れず、空中歩道が崩れ落ちた。
しかし氷塊の落下はすぐに止まった。そして逆に空中をゆるやかに上昇し始めた。浮揚の呪法により重量を打ち消された氷塊が、魔力で上方へと牽引されているのだ。氷塊は高層建築の壁面をかすめながら昇り続け、ついに王都上空へと漂い出た。日差しを浴びて空に輝く氷塊は、まるで氷の小惑星のようだった。
氷塊を、上空で待ち構えていた巨大浮揚艇の機影が覆った。
浮揚艇の機体下部では巨大な杖がわらわらとうごめき、配置を微調整している。氷塊は機体直下の空中の一点にピタリと固定された。
「増幅装置配置調整完了!」
「目標位置の固定完了。摂動による誤差率1%未満!」
「魔力充填率92%…95…100。充填完了!」
「発動準備、すべて完了しました」
各部署の部下たちから準備完了の報告を受け、魔道士隊長は振り返って司令座のドロウズ近衛軍大将に告げた。白髪の老将はそれに無言のうなずきで応えた。その眼が鋭い光を放った。
「デリオンに刃向う愚か者よ、滅するがよい……。撃てーっ!」
号令が司令室に響き渡った。
機体下部から突き出た無数の杖の先端が星のように青白く輝いた。光は相互に干渉しあい、浮揚艇直下に複雑な紋様を描き出した。それは直径三百メートルにおよぶ魔法陣だった。その焦点に固定されているのは、男を封じ込めた氷塊だ。
聖なる光のエネルギーが指数関数的に増幅されていくにつれ、魔法陣は荘厳な輝きを帯びていき、そしてついに臨界に達した。溢れ出した聖光が焦点に向かって一挙に殺到した。
「秘術・消滅の聖光」。極限まで増幅した聖なる光の力であらゆる不浄を滅し、光へと還元し消滅させる大規模魔術。発動には特別な訓練を積んだ魔道士五十名以上が必要な、高度で複雑な魔術だった。
清浄なる白い光の奔流に呑まれ、巨大な氷塊の外層は瞬時に融解、蒸発した。まばゆい輝きに包まれて氷塊は見る間に小さくなっていった。