51話 魔神
マイロン街殺戮事件は王都を戦慄させたが、昨夜の一連の事件はまさに激震となって王都そのものを根底から揺さぶった。
市民の安全を守る王都警備隊のみならず、不敗神話を誇る近衛軍遊撃部隊までもが一介の犯罪者に敗北を喫したのだ。さらにデリオン小児専門治療院での最悪の結末は、遊撃部隊の名誉を一夜にして失墜させてしまった。その衝撃はこれまでの楽観的なムードを一気に覆した。
その夜、男が殺害した人数は判明しているだけで三千八百七名。負傷者は数万名に及ぶとみられる。その多くが高層アパート群の倒壊に巻き込まれたことによる。破壊された建造物は全壊、半壊合わせて二百九十二棟。そこには王都警備隊本部も含まれる。男はまさに一つの災害と化して王都を襲ったのだった。そして男はいずこかに消え去った、まだ王都に潜んでいる可能性も高い。いつ何時、再び襲撃が繰り返されてもおかしくはない。そして誰もそれを止める事ができない。早くも市民の間には絶望的な雰囲気が蔓延し始めた。
男は眠っていた。
その固く閉ざされたまぶたの裏側、無意識の領域では、膨大な処理が進行していた。
昨夜の殺戮で数千という魂を吸収し、男の霊的質量はかつてないレベルにまで巨大に膨れ上がっていた。それはヒトの領域をはるかに凌駕していた。もはや男は、一柱の魔神と呼ぶべき存在と化していた。
しかし、あまりにも急激に大量の魂を取り込んだため、その大半が未消化のままだった。それらの魂を完全消化した上で整理統合し、自己の一部とするには時間が必要だった。
王都警備隊、近衛軍遊撃隊、名もなき一般市民、それに先天的魔術障害に苦しんでいた子供たち。彼らの魂は男の中ですり潰され、どろどろに溶かされて、一つに混ざり合った。魂の混合物から、有用な部分、すなわち知識や経験、固有能力、魔術が取捨選択されて抽出されていく。それらは新たなピースとなり、以前に取り込まれたエルフ等の要素とも結合し、新たに男の魂を形成していく。一方、不要と判断された要素、すなわち個々人の記憶や感情の残滓などは切り捨てられ、男の無意識の奥底へと沈んでいく。魂の最適化が完了した時、男はまったく新しい存在として目覚めることとなる。
次の朝、日が昇り明るくなっても男は目覚めなかった。そして日が傾き再び夜が訪れてもまだ眠っていた。そしてその次の朝、ようやく長い眠りから醒めた。
時刻は午前十時頃。
男は部屋を出て、バルコニーに踏み出した。
澄み渡るように晴れた空が清々しい。男は深呼吸した。ここは裕福な人間が暮らす高層住宅だった。男が二日前まで暮らしていた実用一点張りの無味乾燥な高層アパートとは雲泥の差だった。曲線的なデザインが実に美しい。空中にせり出した広々としたバルコニーには緑豊かな植栽が並び、彫刻が点在している。まるで空中庭園だ。男は錬鉄製のベンチに腰掛けて、ぼんやりと周囲の景色を眺めた。
その時、男の腹が鳴った。丸一日以上、何も胃に収めていなかった。
バルコニーのすぐ下には、百メートルほど離れた隣りの高層建築との間を結ぶ空中歩道が通っていた。空中歩道のちょうど中間地点は小さな広場となっており、そこでは一軒のカフェが営業しているようであった。ちょうどいい。あそこで遅めの朝食を取ろう。男はバルコニーの門を開けると、空中に浮かぶ飛び石の階段を踏んで歩道に降りていった。
王都に林立する高層建築は、このような空中歩道で相互に結ばれている事が多い。男が住んでいたアパートにも空中歩道はあったが、そこは上層階から投げ捨てられたゴミと鳩の糞にまみれ、おまけに降り積もった土埃から雑草が伸び放題で、誰からも顧みられていなかった。
しかし、この空中歩道は違った。さすがに富裕層の暮らす街だけあり、管理が行き届いていた。塵一つ落ちていないモザイク模様の石畳の両側には、転落防止用に装飾的なフェンスが連なっている。
カフェでは日よけの影で、数名の客がお茶の時間を楽しんでいるようだった。
突如、客たちの身体が激しく炎を噴き上げた。そして一瞬のうちに黒焦げの残骸となって広場に転がった。
「きゃああああ」
歩道に悲鳴が響き渡った。と、悲鳴をあげた中年の女が唐突にバラバラになって吹き飛んだ。歩道の上から逃げ出そうとした男も体が真っ二つに千切れて死んだ。
一体何が起きたんだ。男は怪訝な思いで悲惨な光景を眺めていた。しばらくして、自分が無意識の内に魔術を発動して彼らを殺害した事に気付いた。
男はカフェの椅子に腰かけた。すぐ横の床に転がる焼死体からは焼肉のような臭いが立ち上り、それが余計に男の空腹を刺激した。テーブルに置かれたメニューを眺めていたが、いつまで待っても店員は出て来なかった。ひょっとしてもう既に殺してしまったのだろうか。男は立ち上がると、食料を求めて店内へと入っていった。
その時、王都の上空三千メートル。
そびえる摩天楼群のはるか上空に、一隻の大型浮揚艇が浮かんでいた。近衛軍所属のアルゲンタビス級大型飛行空母、「マルディータの翼」号。全長五百メートルの銀色に輝くその巨体の内部では、大勢の兵員と魔道士が、機器と魔術の助けを借りて下界の様子に目を凝らしていた。
「トロム東十四番通り付近でまとまった生命反応の消失あり。十名程度が一度に死亡した模様」
中央司令室の床面には、王都全体の立体地図が投影されていた。その上を無数の赤い点がうごめいている。それは王都に暮らす人間たちの生命反応をリアルタイムで地図上にプロットしたものだった。投影図の周囲では兵員たちが無数の赤い点の動きに乱れがないかを監視し続けていた。
つい先ほど、十個の赤い点がまるで吹き消されたかのように消えた。
病死、自然死などの散発的な死は、数分に一度の割合で常に都市のあちこちで起きていた。しかし、まとまった数の人間が同一地点で一度に死ぬのは監視を開始してから今回が初めてで、何らかの異常事態が発生した事を示していた。
「奴の可能性が高いな……魔道士隊、念視により現場状況を確認せよ」
近衛軍の最高幹部、ドロウズ大将が中央指令室の天井高くにそびえる司令座から命じた。
「了解」
白いローブをまとった魔道士隊が投影図の前に進み出てきて、該当地点に思念を集中した。
「……空中歩道上の飲食店周辺で死者が出ています。焼死六名、爆死が……おそらく二名、あと二名が体を引き裂かれて死んでいます。……まだ生きている者がいます。あ、あれは……間違いありません。目標の男です」
「スクリーンに中継せよ」
「了解」
司令室壁面のスクリーンに、魔道士が念視している光景が映し出された。小さなカフェの周囲に散らばる遺体。煙を上げる日除け。そしてカフェのベンチに座り、サンドイッチを頬張る一人の男の姿。
「ふむ、たしかに奴だ。間違いない。……総員、戦闘配備に就け。これより目標への攻撃を開始する。悪鬼め、今度こそ確実に消し去ってくれるわ」