50話 夜の終わり
「男はまだ近くにいるはずだ。捜索を続行する」
隊員たちの間に漂う沈鬱な雰囲気を振り払うように隊長が言った。凄惨な光景を前に隊員たちが茫然自失したのはほんのわずかな時間だった。彼らはすぐに戦闘のプロフェッショナルとしての冷静な態度を取り戻し、再び捜索に取り掛かった。その胸に、前にも増して激しく燃え盛る怒りの炎を秘めながら。
「隊長、あれを……」
ビグマール曹長が窓の外を指さした。
病院全体を包み込むようにして、不可侵の防壁ぼんやりと光を放っている。その光の壁を背景に、宙に浮かんだ人影が黒々としたシルエットとなって浮かび上がっていた。
それはあの男だった。男は防壁からの出口を探しているらしく、空中を漂いながら光の壁の前を行きつ戻りつしている。
一転して降ってわいたように到来した絶好の機会だった。男は病院の外。周囲に被害が及ぶ恐れもない。それに不可侵の防壁に阻まれ、逃げる事も隠れることもできない。
「……総員、射撃用意。フルチャージで行くぞ」
隊長は低い声で静かに命じた。
「了解」隊員たちが答えた。
各自、槌鉾や斧槍を構え、男に照準を合わせた。魔力エネルギーが増幅されていくにつれ武器が低く唸り始めた。引き絞られた弓のように、全てを粉砕する必殺のエネルギーがじりじりと蓄積されていく。
「死に晒せ、ゲスが」ウォルバが小さくつぶやいた。
その時、強烈な光線が窓の外から射しこんだ。それと同時に大音声が鳴り響いた。
「遊撃部隊に命じる!作戦中止!今すぐ包囲を解き撤収せよ!繰り返す作戦中止!撤収せよ!」
病院の上空に大型浮揚艇が浮かんでいた。浮揚艇の投げかけるサーチライトの光が病院全体を煌々と照らし出していた。浮揚艇の横腹に描かれた紋章は近衛軍のものだった。
「馬鹿な」隊長はうめいた。
「隊長!」判断を仰ぐため、隊員たちは隊長を見た。
「どうした遊撃部隊!早く命令に従うのだ!命令違反は重罪だぞ!わかっているのかクード隊長!!」浮揚艇の大音声が絶叫した。
「……男を見失っていないな?」隊長は言った。
「はい、捕捉し続けております」
「総員、射撃用意。フルチャージ射撃。カウントダウン開始……三、二、一、撃て!!」
数十万発の高密度魔力エネルギーが銃弾の壁となって男に襲いかかった。
まさにその瞬間、不可侵の防壁がダウンした。
病院の周囲で壁を展開、維持していた遊撃部隊隊員たちが、防壁を強制解除させられたのだった。
防壁のすぐ内側に浮かんでいた男はその瞬間を逃さなかった。もはや遮るもののなくなった空を蝙蝠のように舞い、都市の闇の奥へと消えていった。空を切り裂く数十万発の魔力の銃弾は、むなしく夜空の彼方に飛び去った。
病院最上階に横付けした近衛軍の大型浮揚艇から兵員たちが殺到してきた。クード隊長はじめ遊撃部隊は、命令違反のかどでその場で全員が身柄を拘束された。
兵員たちに取り囲まれて立つ遊撃部隊隊員たちの前に、複数の護衛に守られて、紫のマントをまとった一人の将官が姿を現した。髪も髭も白い、背の低い老人だった。
「まったく何てことをしてくれたんだ、クード隊長」
「……ドロウズ大将」隊員たちは頭部装甲を外し、直立不動の姿勢で敬礼して大将を迎えた。
ドロウズ近衛軍大将は白い眉を吊り上げ、唾を飛ばしながら甲高い声でまくし立てた。
「陛下と王都の民の命を守ること、それが近衛軍の第一の使命だ。忘れたか、クードよ!市民の安全より目標殲滅を優先するとは、何と愚かな……。それもよりによって小児専門治療院で包囲戦を仕掛けるとは、気でも狂ったか!!えぇ!!この件に関しては陛下も激しくお怒りだ。後ほどお前たちには厳しい沙汰が下るであろう!!」
最後に大将は隊長を睨み付けると憤然と大型浮揚艇へ戻って行った。
「歩け」
間もなく、遊撃部隊隊員たちも、大勢の兵員たちが走り回る中、大型浮揚艇へと連行されていった。その後は。近衛軍の一般兵員たちが生存者の捜索、負傷者の救護、被害状況の調査を引き継いだ。
デリオン小児専門治療院。
そこは、ある病に苦しむ子供たちが治療を受ける施設だった。
先天的魔術障害。生まれながらに邪悪な魔術や呪いに汚染されたことによる障害。近代魔術の普及は社会に急激な発展をもたらした。しかし発展には常に負の側面が伴うものだ。魔術は人々が心に秘めた様々な欲望を次々と叶えてくれた。秘かに他人を害したいという暗い欲望さえも。
王都には世界中から様々な呪術の類が流入していた。王都の不法魔道士たちはそれらを研究、開発し、より洗練された黒魔術へと仕立て上げていった。それらは闇社会のマフィアだけでなく、一般市民の間にも影で広く流通していた。それは隣人への嫌がらせ、自分を捨てた恋人への復讐、あるいは単なるいたづらなど些細な目的で使用された。魔術が巧妙化し術者の特定が不可能となったことも普及に拍車をかけていた。
王都は呪いの吹き溜まりと化していた。
子供たちはその犠牲者だった。
そのほとんどが、末代まで効果が持続する遺伝性の呪いのため、本人には何の非もないにも関わらず被害を受けていた。激痛に襲われる呪い、全身が醜いイボで覆われる呪い、寄生虫に全身を蝕まれる呪い、発狂する呪いなど、その種類は実に様々だった。そんな子供たちが、この病院には何百人も入院していた。
何の罪もないのに苦しめられ続けてきた子供たちは、最期に悪逆非道な男の手で無慈悲にも命を絶たれ、その魂をむさぼり食われた。
舌の上で溶けていく子供たちの魂の結晶は、砂糖菓子のように甘くて切ない味がした。
男は侵入したとある家のベッドに横たわっていた。かなり裕福な家だった。寝具は柔らかく清潔で、肌触りがいい。
男は逃走後、この家に侵入した。家人たちはまだ起きていたが、彼らは悲鳴をあげる暇さえなかった。五人家族は瞬時に塵と化した。
これでようやく本格的に、遊撃部隊から負わされた傷の治療に取り掛かれる。男はまさに満身創痍だった。まさにあと少しで死んでいたところだ。医術師の魂をいくつも吸収できたので、治療術は格段に進歩していた。頭の傷を縫合し、骨折と内臓破裂も修復した。その後でようやく痛覚遮断を解除し、脳内麻薬の過剰分泌を止めた。これがなければ激痛で動くことさえ出来なかっただろう。
その後、血と汗にまみれボロボロに破れた服を脱ぎ捨て、熱いシャワーを浴びると、さっぱりとした気分になった。
今日はいい一日だった。今夜はよく眠れそうだ。男はあくびをすると、夢を見ない深い眠りへと落ちていった。